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スェーデンのマルメで開かれた国際女性映画祭(IFEMA)の後、ラトヴィアでの『こほろぎ嬢』上映の可能性にアプローチした浜野佐知監督とわたしだったが、結論から言えばかなりキビシイ状況のようだ。
アドバイスしてくださったラトヴィア大学の黒沢歩先生、黒沢先生のご著書を浜野監督のもとに送って頂いた版元の新評論、在ラトヴィア日本大使館を紹介してくれた国際交流基金、そして現地で応対してくださった日本大使館の皆さんに、心から感謝します。
ラトヴィアに関する黒沢先生のご著書を、ここで紹介しておきます。

『木漏れ日のラトヴィア』(04年新評論刊)
http://www.shinhyoron.co.jp/cgi-db/s_db/kensakutan.cgi?j1=4-7948-0645-0
『ラトヴィアの蒼い風』(07年新評論刊)
http://www.shinhyoron.co.jp/cgi-db/s_db/kensakutan.cgi?j1=978-4-7948-0720-5



ラトヴィアの首都リーガは、世界遺産の街とか「バルト海の真珠」と呼ばれる美しい街というのが定説だ。しかし、予備知識もなく訪れたわたしを魅了したのは、中世の遺跡が今に生きる旧市街ではなく、100年ほど前、20世紀初頭に建てられた新市街の、なんとも奇妙奇天烈な建築群だった。



なかには、ほとんど打ち捨てられ、廃墟に近づきつつあるように見える建物も少なくないのだが、確かに住んでいる人はある。夜になって観察に行くと、荒廃したように見える最上階あたりにもいくつか灯りはついていた。いずれも馬鹿デカイうえに、ディテールにおいて甚だしく過剰な装飾が施されたこれらの建物に、かつてどんな人たちが住んでいたのか。
わたしはスチルカメラで撮影しながら、百年前に時代の尖端を行く華美な建物に住んでいた裕福な老若男女の歓声が、低い地鳴りのように聞こえてくる気がした。



幸いリーガのネット環境は、事前に危惧したようなことはなく、ホテルの無線LANで無事つながったので、これらの建築物について調べてみた。リーガは帝政ロシアの時代にモスクワ、ペテルブルグに次ぐ第三の都市として栄え、20世紀初頭に「ユーゲント・シュティール」(ドイツ版アール・ヌーヴォ)の建築が盛んに建てられた。それらを設計した代表的な建築家が、映画監督のセルゲイ・エイゼンシュタインの父、ミハイル・エイゼンシュタインなのだという。



ロシア革命が波及し、1910年代にラトヴィアも独立するが、第二次世界大戦の前後に、ヒットラーとスターリンという牋の二大巨頭瓩隆屬剖瓦泙辰橡殤され、甚だしい苦難を舐めることになる。戦後は旧ソ連邦のひとつに組み入れられていたが、91年に独立し、04年にはEUに参加した。しかし、現在は世界不況のあおりをモロに食らって、経済的にひどく困難な状況にあるようだ。旧ソ連邦の治下では、新市街のブルジョワ的な(?)建築群は放擲され、顧みられることはなかったらしい。



最近になって修復も始まっているが、わたしは今、自分が見ているものが何であるか明確に分からないまま、いくらか大げさに言えば、魂が抜かれたような気分になった。何故だろう。これらの建物に住んでいた人たちは今や老いさらばえ、あるいは死に絶えている。建築物は老朽化しながらも、孤独な威容を誇っている。何がわたしを惹きつけるのか。
歩き回ってすっかり疲れたわたしは、ホテルの浴槽に浸かりながら、日本から携帯してきた花田清輝の本を開いた。尾崎翠シンポジウム二日目に、滋味溢れる講演(幸せな授業!)を行った池内紀氏の編集による『日本幻想文学集成 花田清輝』(国書刊行会刊)。その巻頭に置かれていたのが『復興期の精神』のなかの「歌」だった。
「生涯を賭けて、ただひとつの歌を――それは、はたして愚劣なことであろうか」という有名なフレーズで知られる文章だが、わたしはパラパラ目を通しながら、今わたしがリーガで直面している難問を、花田が1940年代に見事に解き明かしてくれているような気がした。



それは以下の部分である。

 いったい、みるということは、いかなることを指すのであろうか。それはあらゆる先入見を排し、それをもつ意味を知ろうとせず、物を物として――いっそう正確にいうならば、運動する物として、よくもなく、わるくもなく、うつくしくもなく、みにくくもなく、虚心にすべてを受けいれることなのであろうか。それが出発点であることに疑問の余地はない。しかし、ゴッホにとっては、それらの物のなかから、殊更に平凡なもの、みすぼらしいもの、孤独なもの、悲しげなもの、虐げられ、息も絶えだえに喘いでいるもの――要するに、森閑とした、物音ひとつしない死の雰囲気につつまれ、身じろぎもしそうもない、さまざまな物を選びだし、これを生によって韻律づけ、突然、呪縛がやぶれでもしたかのように、その仮死状態にあったものの内部に眠っていた生命の焔を、炎々と燃えあがらせることが問題であった。そうしてこれは、自己にたいして苛酷であること――ともすると眼をそらしたくなるものから断じて視線を転じないことと、たしかに密接不離な関係があるのであった。
〜「歌――ジョット・ゴッホ・ゴーガン」



花田ファンの我田引水的な読み方かもしれない。しかしわたしには、死の様相を呈した建築群の底から「仮死状態にあった生命の焔」の片鱗が見えたような気がした。
花田清輝は、いうまでもなく尾崎翠再評価の狼煙を上げた批評家だ。一方、池内氏はカフカの名翻訳者であるが、尾崎翠シンポジウムでは、筑摩の文庫版日本文学全集『尾崎翠』の巻を編んだときの楽しみを語ってくれた。そして、講談社文芸文庫の花田清輝のシリーズでは、見事な花田論を書いている。
その氏が編んだ花田清輝のアンソロジーの巻頭に置かれたエッセイが、ラトヴィアにいるわたしに示唆を与えてくれたとしても、何の不思議もないだろう。尾崎翠…花田清輝…池内紀という幸福な円環がつながった、ような気がした。一人よがりかな?




スウェーデンのマルメに来ている。第4回インターナショナル女性映画祭マルメに『百合祭』が招かれたのだ。浜野佐知監督もわたしも関わった、2日間のシンポジウム「尾崎翠の新世紀」が終わって、中二日で成田を出発するという慌しさだったが、久々に熱気のある女性映画祭に参加したという実感がある。
上の新聞記事は、南スウェーデンでもっとも発行部数の多い新聞に、浜野監督のインタビューが掲載されたもの。一面の題字の下に、浜野監督の顔写真が載ったのにはビックリ。カルチャー面に記事があることを紹介している。下がその記事で、大きな写真と共に、一面の大半を割いていた。



スウェーデン語なので、もちろん読めないが、日本のタブーに映画で挑戦しているといった内容なのだろう。今年の映画祭のテーマは、高齢女性とオーストラリアの二本立てなのだ。解放的なスウェーデン社会でも、高齢女性の性愛というテーマは、なかなかやりにくいという声も聞いた。



ホテルのロビーで取材中。インタビューしているのは、よく知られたジャーナリストで、記事も顔写真入りの署名記事だ。間で通訳しているのは、母が日本人、父がスウェーデン人の亜希子・生田さん。ルンド大学で法律経済を勉強している。『百合祭』上映後の質疑応答でも、彼女が通訳した。



記事には、女性カメラマンも顔写真入りで紹介されていた。実に仕事の速い敏腕カメラウーマンで、アクションつきの注文には、浜野監督も思わず照れ笑い。
*監督の特に強い注文により「苦笑い」を「照れ笑い」に変更しました。それほど拘るところであるか?



映画祭の会場の受付の前の太い円柱に、さっそく新聞記事が張り出された。映画祭にとって、恰好のPRになったようだ。


 進退窮った、とはまさにこういう事態を言うのだろう。進むわけにも、退くわけにもいかない。わたしは洋式便器に満々と湛えられた水に浮かぶ、自らの糞便を凝視して、立ち尽くすのみ。何をして良いか分からないのだ。カリフォルニアのスタンフォード大学に隣接する、パロ・アルト市の「テラス形式」の洒落たホテルの一室。外は抜けるような青い空から強烈な陽射しが降っているが、わたしはトイレに籠もって、便器をひたすら覗き込んでいる。



 トイレが詰まったのだ。もともとトイレット・ペーパーを使う量が人一倍多いわたしは、紙を使用する直前にいったん水を流したのだが、その直後、ふと脚の間を覗き込んで心底仰天した。水が逆流し、力強くモリモリと盛り上がってくるのだ。その先頭部分には、排出したばかりの我が糞便を押し立てている! 便器から溢れ、足元にこぼれ出るのではないか、と恐慌を来たしたわたしは、思わずビビって腰を浮かしたが、幸いなことに便器の縁のくびれた辺りで水位は止まった。しかし、どうして、こんなことが、今、わたしに? 
 心理的にはパニックに近いが、まだお尻を拭いていない。対処するにしても、とにかくお尻を拭いてからだ。しかし、その紙を便器に入れるわけにはいかない。いっそう詰まらせることになる。室内を見渡すと、隅に屑篭があった。わたしはいつも以上に紙をたっぷり使い、それを折り畳んで屑篭に入れる。屑篭に申し訳ない気がしたが、緊急避難で止むを得ない。
 人は人生において、何回ぐらいトイレを詰まらせるものだろうか。わたしは自宅で一度、国内のホテルで一度。そんなものだ。小学校の頃に見せられた衛生映画で、拭き取る紙が薄いと黴菌が手に沁みてくる、というシーンが頭に焼きつき、わたしのトイレットペーパーの消費量は平均の倍以上。詰まりかけることは良くあるのだが、ちょっと時間を置けば、ペーパーが溶けて流れ出すことが多い。
 しかし、今、スタンフォードのこのホテルで、まだわたしは紙を使っていないのだ。確かに、アメリカ風のランチやディナーで、食物の摂取量は普段より多いが、それにしてもトイレを詰まらせるほど、山ほどの量を排出したとは思えない。詰まりそうな繊維質の食べ物が多かったとも考えにくいのに、この便器は、満々と水を湛え、糞便さえ浮かべて、一向に流れ出す気配を見せないのだ。



 因果関係を把握できないこの事態は、わたしにとって、突如降りかかった不条理としか言いようがない。このブログで、わたしは度々尾篭な方面に言及してきたが、妙な関心を示すと、向こうからやって来るものなのか? しかし、こんな状況に際会し、「シメタ! ブログのネタができた!」と喜ぶ人はいないだろうね。わたしは肝を潰し、茫然としている。
 しかし、途方に暮れているだけでは、進展はない。わたしは当事者として、この不条理に立ち向かわなければならないのだ。ひとつ対策が浮かんだ。クローゼットに行き、日本から持ってきた安物の針金ハンガーを持ってくる。これをバラして、一本の針金にし、便器の排水口を突っつこうという作戦だ。針金の留めてある箇所を外し、折れ目で屈曲はあるが、首尾よく伸ばすことには成功した。これを便器の底に向かって押し込んでいくが、そして結構奥まで進むのだが、何の変化もない。そこで、針金を突っ込んだまま、ぐるぐる回転させてみるが、これも手応えなし。他に方法が考えられないので、何度も試してみるが、力を入れすぎた反動で針金が飛び跳ね、飛沫がこちらに飛んできて、思わず「ギャッ!」と逃げる。
 ハンガー作戦は、まったく無効だった。妙な形に伸びたハンガーは、お役御免で、これも屑篭行きとなる。では、他に自分で打つ手はあるか? どうも無さそうだ。脂汗が全身の皮膚にまつわりつき、気分が沈々と滅入ってくる。一番素直な解決法は、廊下を行き来しているメイドに頭を下げ、開通してもらうことだが、どうも乗り気になれない。宿泊客とメイドという、きわめてシンプルな機能的関係に過ぎないのだが、自分の糞便を他人の眼に晒すことに抵抗があるのだ。何故か?



 臭気に関しては、ほとんど意識に上らなかった。眼前で起こった出来事に圧倒され、そこまで意識する余裕がなかったというのが正しいだろう。他人が入ってくれば、イヤでも臭気の問題に直面し、わたしは恥ずかしいと思うだろうが、どうやらそれは付随的な問題で、わたしはこの水上に浮かぶ糞便、というモノ自体を、人に見られたくない。たとえ、相手が清掃の専門家であるメイドでも、抵抗がある。おそらくメイドにとって、それは珍しくない経験だと信じたいが、それでも踏み切れないのだ。
 しかし、どうして浮かんでるのか? 通常、一塊になって水の底に沈んでいるものだが、わたしの眼前のそれは、大小に千切れて、水面の各所に展開している。おそらく下から逆流する水の力によって、断片化し、表面に浮かび上がったのだろうが、水が鎮まった今、浮かんだままということは、本来水より比重の軽いものなのだろうか。東南アジアの水上トイレで、水に浮かんだ糞便を魚が食べるという話を読んだことがあった。
 まあ、しかし、そんなことはどうでも良い。問題は、この水上の糞便を間に挟んでは、人と向かい合えないということだ。わたしは懸命に考える。誰となら、この事態を共有できるのか? 脂汗を流しながらの結論。それは親、あるいは祖母。遠い過去において、わたしの糞便を始末してくれた人たちだ。しかし、祖母はとっくに亡くなり、両親は会津の山の中で暮らしている。カリフォルニアには間に合わない。しかし、たとえ一緒に旅行していたとしても、老いた親にわたしは見せることをしないだろう。わたしは便器に浮かぶ糞便を見つめながら、ニンゲンの根源的な孤独を思った。



 別な角度から考えてみる。どうしても他人と分かち合えない、我が糞便とは何モノであるか? わたしの口から摂取され、咀嚼されて、わたしの体内の長い消化管を延々と経巡り、旅をしてきたモノたちだ。ただし、生体の維持に必要な成分は吸収され、血肉となっているので、そうしたポジティブなパートとは隔離された、ネガティブなパートである。しかしこのネガティブは、フィルムにおけるネガと同様に、ポジと反転関係にあるのではないか。
 フィルムにおいてはネガこそオリジナルであって、ネガを焼いてポジ・プリントを製作するのだが、あるいは糞便には、体内に摂り込まれたポジを反転した、原基としてのネガが刻まれている可能性はないか。それを人に見られることは、わたしにとって肉体をメクリ返して見られることに等しい。それで、わたしはメイドに見られることも拒もうとする?
 どうも、論理に若干無理があるようだ。第一、このわたしの眼前で水上に展開する糞便は、すでにわたしに対する親密さを失い、ただわたしをひたすら困却させるだけの、何か見知らぬモノと化している。わたしの体内から排出されたことは疑いを入れないが、わたしとの有機的な繋がりは、とても感じることができない。
 だが、しかし、これがもし他人の糞便であったら、わたしはこのような雪隠詰めの状態に、よく耐えられるだろうか? 絶えられないに違いない。今ではわたしとは切れたモノではあるが、つい先刻までわたしと一体であったモノでもあるのだ。わたしと糞便は、他人に対して排他的な関係で繋がっている。
 それでは、わたしはメイドのそうした困惑を先回りして、彼女にとって他人の糞便である、これらのモノを見せたくないのか、とも思うが、そこまでわたしは親切ではない。明確な理由は分からないのだが、自らの糞便を他人と分かち合うことはできないという、動かし難い現実のみが、目の前にある。



 打つ手を失い、わたしは便器を凝視して、時おり溜め息をついたり、唸ったりしながら、立ち尽くすのみ。これは、どこかで読んだシチュエーションに似てないか? そうだ、サルトルの小説「嘔吐」の主人公、アントワーヌ・ロカンタンだ。実は、4月にパリのリュクサンブール公園でマロニエの樹を眺めていたら、「嘔吐」の主人公が吐き気を催すのは、マロニエの樹の瘤ではなかったろうかと、急に気になり始めた。それともプラタナスだったか? 確か瘤のできる樹だった気がする。特に好きな小説ではないのだが、高校時代に読んで、ほとんど分からなかったものが、10年ほど前に改訳が出て、たまたま読んだら、妙に身に沁みた。編集やライターといった無闇と人の関係が多い職種から、ピンク映画の脚本という地味な職種に転じ、日常的に付き合う人たちがすっかり減って、ロカンタンの孤独なモノローグとシンクロしたのだろう。
 それで、パリではマロニエの瘤の写真をいっぱい撮った。帰国後に小説をチェックしてみると、ロカンタンが吐き気を催したのは、正しくはマロニエの木の根株だったのだが、ついでに改めて読み始め、カリフォルニアにも携帯していたのである。
 どこか形而上的なマロニエの樹と、わたしの形而下きわまる糞便とを同一視されては、ロカンタンが怒るかもしれないが、わたしはどこに共通したシチュエーションを感じたのか?
 普段見慣れてるはずのマロニエの樹の、ゴツゴツ節くれだった根株の塊が、不意に日常的な装いを剥がれ、嘔吐を催す「実存」として、ロカンタンの眼に立ち現われたように、今、わたしの前にも我が糞便が、詰まった便器の水上にぷかぷか実存する。確かにこれは、言葉や習慣で、わたしの日常生活の中に過不足なく位置づけられた在り方ではなく、ひどく露わなモノそのものとして存在し続けているのだ。わたしはここで吐き気を催しても良いのだが、そんな余裕はない。



 いや、ロカンタンにあって、マロニエの根株は彼の身体の外部にあったが、わたしにとってこの糞便は、わたしの内部を通過しただけでなく、今やわたしの肉体の一部を構成するものの、ネガでもあった。やはりロカンタンの孤独には、お金を持った知的エリートの、観想的な生活といった印象が付きまとう。もし彼が嘔吐に止まらず、実際に吐いていれば、その吐瀉物と我が糞便は、消化器官の入り口と出口から排出されたモノとして、好一対を成すのだが、彼は吐かない。酒に酔っても吐かないと、わざわざ言明しているぐらいだから、実に吝嗇な野郎だ。
 まあ、わたしも以前は大酒するたびに吐いていたが、吐瀉物だって、食べた中身が半溶解常態で衆目に晒され、異臭も発して、人に見られたくない存在ではある。だが、酔った友人が路上で吐くのを手助けしている姿は、日本の夜の繁華街や駅周辺では、日常目にする光景だ。また、欧米の映画を見ると、死体を目にするたびにお決まりのようにトイレに駆け込み、ゲーゲー吐いているが、日本人はあまりやらない。しかし、同じ消化器官の上端と下端から排出される2種類のモノに関して、日常的な序列は確実にある。
「嘔吐」自体には、吐瀉物が含まれないので、それに対応するのは「便意」ということになるが、サルトルのおかげか、嘔吐にはどこか精神性が付きまとって、悲劇の欠片が感じられるが、便意はひたすら喜劇的だ。かつて水木しげる御大の「河童の三平」という傑作マンガがあり、繰り返し語られるウンコのエピソードに大笑いした。子供は糞尿譚が大好きだ。



 同じく実存するマロニエの根株と、水上に浮かぶ我が糞便だが、ロカンタンとわたしと、彼我の違いはどこにあるか? 正直なところ、わたしはどうも、ロカンタンがイケ好かないのである。カフェのマダムと定期的に寝ながら、性欲の捌け口の肉そのものとして扱う一方で、数年前に別れた恋人のアニーとは「完璧な瞬間」や「特権的状態」を巡って、愚にもつかない議論をし、ひたすらひざまずく。こうした肉と精神の使い分けも、一種の女性嫌悪だろう。
 また、正統的な教育を受けていない「独学者」も戯画化される。いささか愚鈍ではあるが、図書館の本をアルファベット順に全て読破しようと志し、7年かかって「A」から「L」まで来ながら、図書館内で高校生の可愛い男の子の手や足をそっと撫でて、警備員に捕まり、人生の破滅の危機に瀕している執達吏の書記。あと6年あれば、図書館の全ての本を読み切れるだろうという壮大なプランが挫折した彼には、仕事を首になったり、世間で「変態!」と囃される以上に、もう二度と図書館には足を踏み入れることが出来ないのだ、という事実の方が衝撃だったに違いない。
 他人とうまく折り合いがつけられず、いつもギクシャクしながら、ひたすら図書館の本にすがっている、ブッキッシュな姿は、哀れっぽく滑稽だが、どうもわたしには身につまされてならなかった。わたしもまた、あれほどの野望は抱かないが、ちょろっとした独学者の一員ではある。だから、他人の生活を、どこか高みから見下ろすようなロカンタンの視線に、ムッと来るのだろう。
 余談だが、浜野監督のドキュメンタリーを撮りたいと申し入れてくれた、パリのハンサムな映像作家ジュリアンの妻・ジュリーのお母さんが日本人で、お宅に招かれたことがある。このお母さんは精神科のお医者でもあったが、「嘔吐」の対象がマロニエの「瘤」であったかどうか、わたしたちより数歳上のお母さんに尋ねようと、サルトルの名前を出したところ、歯牙にもかけず一笑された。ああ、ボーボワールと結婚しない、理想のカップルとか言われながら、陰でさんざんいろんな女と関係を持っていた、とんでもない男ね、といった具合だ。このお母さんは「第二の性」全何巻だかを読破して人生が変わった、というぐらいだから、ボーボワールに思い入れが強いのだろうが、現代のパリではサルトルの評価も地に堕ちている気がした。



 いや、わたしは、詰まったトイレを前に、難局を打開できない苛立ちを、サルトルや「嘔吐」にぶつけているだけではないのか。女性嫌悪だけでなく、同性愛嫌悪も感じさせる「嘔吐」だが、1938年に出版されたことを考えると、時代的な制約と言うべきだろう。自らの孤独と向き合うロカンタンの語り口には、依然として心惹かれるものがあり、その時代には少数の高等なインテリのものだったが、いまやすでに大衆的な孤独となって、わたしなども、ついシミジミしてしまうのだ。冒頭部分の「なんでもないのに奇を衒ってはいけない。日記をつけるときは、つぎのことが危険だと思う。すなわち万事誇張して考えること、見張っていること、たえず真実を歪めることである」というロカンタンの自戒は、こんなわたしのブログを綴る際にも通用することだろう。
 わたしは、たまたま遭遇した些事を「奇を衒い、誇張して」語っているだろうか。その気味がないでもない、などと反省的思惟に陥るのは、ロカンタンなど引き合いに出したせいで、「河童の三平」の時代は良かった、あれはウンコのユートピアである、などと考えていたら、「墓場の鬼太郎」「ゲゲゲの鬼太郎」のキタローつながりではないだろうが、記憶の彼方から、わたしの目下の窮境をピッタリと言い表す言葉が、不意に飛び込んできた。「絶対矛盾的自己同一」というヤツである。
 断っておくが、わたしは「善の研究」で知られる西田幾多郎の著作を読んだことは一度もないので、おそらく高校の倫理社会とか、大学の概論、あるいは誰かの引用で読んだ言葉なのだろうが、それがどういう意味であるか考えたことなど、まったくなかった。しかし、今、外国のトイレのなかで抜き差しならず対峙している、わたしと、便器に浮かぶ自らの糞便の関係を表わすのに、これ以上に見事な表現はあるだろうか。



 いまや相容れない関係になっているように見えるが、両者はかつて一心同体であり、しかし外部に分離された後は、あまりにも露骨なモノ自体として実存するので、同じく体外に排出された子供などと違って、有機的な連関はすでに失われているものの、これが誰のものでもない、わたしのモノであることを、先方はその存在をもって強く主張し、わたしもまた承認するので、わたしたちは矛盾しながらも同一の「わたしたち」に帰属する。
 まあ、実際にこんなことをトイレのなかで考えたわけではなく、また「絶対矛盾的自己同一」を辞典などで引いてみると、まるで出鱈目の解釈なのだが、あの脂汗流れる雪隠詰めを一言で表現するのに、わたしの実感に沿って、これほどしっくりした言葉は無いのだった。
 さて、わたしが最終的にどうしたかと言えば、悶々とした濃密な時間を、延々と過ごした後、フロントに行ってトイレ詰まり用の道具を借りて来て、何とか自力で開通させた。直接的には誰の目に触れることも無く、何とか打開したわけだが、その際に、似たような半球型のゴムの道具が、日本では内部から吸引するのに対し、アメリカでは空気を押し込んで、強制的に押し出す方式であること、アメリカの便器の底には排出口の向かいから流れる強い水流があって、中途半端な開通では底部だけを水が流れ、表面に浮かぶモノは浮かんだままであることなどを発見したが、わたしはこの、カタルシスのついにやって来ない自問自答、あるいは堂々巡りに、もう疲れた。次の機会に報告することにしよう。
 ひとつ言えることは、直後にメイドの使用法に関するレクチャーも受けたが、あのトイレには明らかに欠陥があったということである。実際、わたしは深夜にもう一度、半球型のゴムの道具を使う羽目に陥った。アメリカのトイレには、くれぐれもご注意を!



 これが大学なのか!? カリフォルニアの広大な敷地に広がる、スタンフォード大学の構内に立って、我が目を疑わない日本人がいたらお目にかかりたい。遠くヨーロッパの、史跡のど真ん中に立っているようではないか。19世紀半ばのゴールドラッシュで、金鉱と鉄道で大儲けしたスタンフォード夫妻が、息子の死を悼んで1891年に設立した名門私立大学だという。あまりに広いので、建物はせいぜい二階建て。ビルにする必要がないのだ。先生方や学生は、構内用のカートや自転車、あるいはスケボーで移動する。





 先月20日から22日にかけて、同大学のヒューマニティーセンターが主催した学会「FACES AND MASKS OF AGING:IMPLICATIONS FROM THE LIVES OF JAPANESE ELDERLY」(「加齢の素顔と仮面:日本の高齢者の生き方が示唆するところ」)で『百合祭』が上映され、浜野監督とわたしが招かれたことは、すでにこのブログでも書いた。
 この著名な大学が、シリコンバレーにあって、IT産業の中でも重要な位置を占めることは、今回初めて知ったことだったが(無知です)、帰国後もアップル社のスティーブ・ジョブズが、卒業式で中退者の弁をスピーチしたというニュースを目にした。何にも知らないで出かけていったわたしだったが、あるいはスタンフォード大学とはどういうところか興味を持っている人も少なくないかも知れない。
 先端的なIT研究というと、ガラスでも使った超近代的なビルを連想しがちだが、それとは裏腹に、ヨーロッパのクラシックな雰囲気とカリフォルニアの自然が融合したような佇まいなのだ。前回、ソウルのクィア・フェスティバルを写真構成でレポートし、こういうスタイルも有りだと気づいた。そこで、ごく表層ではあるが、スタンフォード大学の景観を紹介しよう。


<学会を主催したスタンフォード大学ヒューマニティ・センター。邸宅風の建物だ>


<発表はパソコンを使い、演台の操作で、中央の大きなスクリーンに映し出される>

 今回の3日間にわたる学会では、日米の多くの研究者が発表したが、日本人の発表も当然のことながら英語で行われる。わたしにはまったくチンプンかんぷんで、もっぱら記録写真を撮った。内容について、ディナーの際などに尋ねてみると、いろんな専門分野の研究者が集まった画期的な「学際的」学会だと口を揃えた。社会学、人類学、言語学、コミュニケーション学、心理学、統計学、医学、看護学など。そして映画だ。(上映後の浜野監督のスピーチと、観客とのQ&Aのみ、通訳がついた。日本で生まれたというベス・ケーリさんは、ほとんど天才じゃないかと思うぐらい優秀な人だった)。
 この学会の大胆な企画者は、ヒューマニティー・センターのトップでもある松本善子教授。海外で活躍している、優れた女性研究者も多いのですね。




<赤い瓦の屋根に、白い石壁。独特のスタイルだが、アメリカの植民地時代に、ヨーロッパから入ってきた「スパニッシュ・コロニアル様式」だという。カリフォルニアの青い空に、赤い瓦が映えるよう設計されているらしい。下の写真は結婚式のように見えるが、コマーシャルの撮影をしているようだった>




<広いキャンパスで、どこからも見える目印のタワー。それほど高いわけではないが、他の建物が軒並み低いので目立つ>


<『百合祭』が上映されたスクール・オブ・エデュケーション。1938年に建てられた建物だ>


<ホールへの入り口。学会参加者以外に、先生方や学生が観に来てくれた。なかには日本からの留学生も。しかし、閉経後の女性のセクシュアルな可能性をどう考えるか、加齢後も女性役割を期待するオヤジどもの強固な異性愛体制と、いかに訣別するか、といったテーマは、国境を越えることを改めて確認した。わたしは「五十年後の日本では、男女の関係は、どのように変わって行くと考えるか」という質問に「あまり変わらないんじゃないだろうか」と応えて、浜野監督の怒りを買った。ニンゲンは利口にならない、経験による知恵といった獲得形質は遺伝されない、というのはわたしの持論だが、それ以上に、わたしたちいわゆる「団塊の世代」の男たちが、先行世代と何か画期的に変わったかといえば、何も変わらない、それ以上にオヤジ化しているではないか>


<ホール脇の廊下。壁画など描かれてあって、実に心和む雰囲気だ>


<あちこちにアーチが見られるが、この大きなアーチをくぐると…>


<陽光あふれるカリフォルニアの広場が、目の前に広がるのだった>


<これが大学の校舎だとは思えない。中世の面影が漂ってくるようだ>


<ロダンの作品などを擁する美術館もある。「考える人」って「地獄の門」の中央・頭部にあったのですね>


<中央部に位置する教会。ここからバックしていくと…>


<廊下の横のアーチの向こうに、教会が見えて…>


<さらに遠景で見た時に、建物や門が見事に重なるように計算されている。広い敷地ならでは>


<遠くに山が見える。これでもバレー(渓谷)なのか? わたしは何か根本的に誤解しているのかも知れない>


<とにかくデカイ薔薇の花(だよね?)。植物もアメリカサイズなのだ。州知事はシュワルツネッガーだし>




<スタンフォード周辺には、いろんな色の消火栓があった。エリアによって色が違っていたので、何か識別しているのだろう。どこであろうと、消火栓見るたびに、心騒ぐのは何故だ? 放火でもする気か? まさか>

*スタンフォード大学の来歴や建築について、学会のスタッフである大友麻子さん、Wan-Chao Changさんに資料を頂きましたが、非才にして英文に取り組む熱意に欠けたことを、お二人にお詫びします。


 アジアの女性監督10人のヨーロッパ・ツアーは、パリ、インスブルック、ベルリンと転戦した。他にも、ストックホルムなど名乗りを上げた都市はあったが、予算の関係で断念されたとか。ベルリンで受け入れ先になったのが、新都心ポツダム・プラッツ(広場)にある映画館「アルゼナル」だ。屋上が富士山を象ったソニー・センターの地下にあり、半ば公共的な上映施設で、採算を度外視して実験的な作品を取り上げたりする。実は、03年のベルリン・レズビアン映画祭のフィナーレで『百合祭』が上映され、圧倒的な盛り上がりを見せた記憶も新しい映画館だ。今回「アルゼナル」は、アジアの女性監督作品を、毎夜連続上映した。



 ベルリンには、海外浜野組(これまで映画祭などでお世話になった女性たちを、勝手にこう呼んでいる)の重鎮である松山文子さんがいるが、4月14日の『百合祭』上映で、浜野監督の通訳を務めてくれたのがフンボルト大学の日本学科専任講師の足立ラーベ加代さんだ。松山さんは、ベルリン在住のジャーナリスト&ビデオ・アーティストだが『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』を海外でいち早く評価し、99年のドルトムント国際女性映画祭にコーディネートしてくれた。これが浜野監督にとって、初の海外映画祭への参加だったのである。
 同年にベルリンの大学で開催された「エスノ映画祭」にも招かれたが、その際のディスカッションの通訳者として松山さんが紹介してくれたのが、足立ラーベ加代さんだった。わたしたちとは、今回6年ぶりの再会である。この時の上映では、フィルムに傷が付けられ、あまり良い思い出はないのだが、翌日、主催者の教授と揉めている時に、違うテーブルに座っていた法学部の男子学生が、こちら側に立って仲介してくれた。何の縁もゆかりもない学生だったが、去り際に「昨日映画を観た、映画は専門でないので、よく分からないが、想像力を刺激された、私には好きな映画だ」と告げてくれた。こうした場面に、もし自分が出くわしたら、はたしてわたしにこれが可能か? と、いつまでも自問させるシーンでもあった。
 今回のアルゼナルでの上映は、ベルリンの大学関係者が月に一回行っている「日本映画を見る会」も協賛し、観客には日本人や東洋人も多く見かけられた。いきおい、上映後のディスカッションも熱のこもったものとなったが、わたしが驚いたのは映画館のホールでその後に開かれたワイン・パーティで、大方斐紗子さん演じる90歳の北川よしサンの口癖である「旦那さま!」を見事に口真似して見せる日本人女性がいたことだ。あまりの出来栄えに、わたしは浜野監督を引っ張って行って、監督の前で発声してもらったほどである。
 劇中で、北川よしサンが、ミッキーカーチスさん演じる三好輝次郎さんの股間をムンズ! とつかむシーンがあるが、あそこで笑い声の上がらない国はない。キリスト教国であろうと、イスラム教国であろうと、仏教国であろうと、一瞬ハッとした後、どよめき笑う声が盛り上がる。原作の桃谷方子さんの卓抜したキャラクター造形に、大方さんの突き詰めた役作り、そして不思議なスローモーションで見せた浜野監督の演出と編集が有機的に結びついた、傑出したシーンだろう。



 ベルリン、特にポツダム・プラッツ周辺や、ブランデンブルグ門界隈はものすごい勢いで、やたらデカイ建造物が建ち、一昨年に訪れた時からも大きく変貌していた。難を言えば、デカさだけが目立ち、パリなどに比べると小技やディテールの味わいに欠けるところがあるが、その建築ラッシュの一方で「ベルリンの壁」の一部を保存し、そこで戦争による破壊と犯罪の写真展を常設している。「トポログラフィー・オブ・テロル」と題されたその展示では、ナチスへの国民の熱狂や、ナチスによって人々が処刑される瞬間などを写真で示し、教師が引率して子供たちや高校生に解説していた。その真率な明快さを目の当たりにすると、コイズミの靖国参拝への執念や、それを支持する言説の昏さ、蒙昧は救い難い。





 まあ、これはしかし、公式見解というべきものだろう。わたしが思わず感歎したのは、シンガポールのタニア監督や、パリからわたしたちをエスコートして来たクレティーユ国際女性映画祭のメイン・スタッフであるロジェ氏などと散歩している時に出会った、ひとつの「モニュメント」だ。そこはかつてユダヤ人が多く住んでいた通りらしいのだが、わたしたちはカフェのテラスでお茶やビールを飲んでいる時に、不自然に中央部分が切断されたアパートの壁に、人の名前と生年〜没年が記された札が、何枚も貼り付けられているのを見た。
 没年はいずれも1945年で、死者には子供たちが多い。ロジェ氏が、カフェの実に立派な顔をした老主人に謂れを尋ねると、以前はつながっていたアパートに爆弾が落ち、そこで死んだ人たちの名前を、破壊された後の切断面に掲げている、という風に聞いた。なるほど、ハイヤーで乗り付け、レクチャーを受けている人たちもいて、ここでも戦争の記憶を風化させないように地道な努力が重ねられているのだ、と思ったら、これが飛んだ大間違い。このアパートが爆撃されたことなどなく、墓標らしきものは芸術家のたくらみで、壁面もそれらしく仕立て上げられたらしい。芸術にいっぱい喰わされた。
 実際、よく見てみると、爆撃されたような痕跡がなく、壁の切断面もあまりにも奇麗だ。しかし、誰もが戦争の残酷や、ユダヤ人への迫害、虐殺を連想する場所で、そのステレオタイプを笑う偽モニュメントが捏造され、堂々公開されていることが愉快だ。まったく、いい度胸ではないか。すぐ目の前の公園には、悲しげなユダヤ人の群像の彫像も置かれていて、もちろん、こちらは本物だ。
 一方で、戦争犯罪の記憶を保存し、語り継ぎながら、もう一方で固定化し、パターン化した想像力を揉みほぐし、笑い飛ばす冗談が同居しているところに、ベルリンの人々の力強い健全を感じた。





*なお、この捏造モニュメントに関しては、言語不自由な中でのわたしの思い込み的な解釈であり、もっと別の解があれば、ぜひご教示ください。いつでもわたしは撤回します。


 パリの東駅を夜行寝台で発って以来、ベルリンまで3カ国の国境を列車で越えたことになるが、その間パスポートの提示を求められたことは一度もなかった。さすが通貨も同じEUだ。今回の列車行で、個人的にもっとも驚いたのは、インスブルックに向かう際、パリからの夜行はミュンヘンが終点であり、翌朝10時頃に乗り換え、結構年季の入った大型の列車に乗り込んだのだが、これがなんとローマ行きだった。ミュンヘンからオーストリアを抜けて、イタリアを走り、ローマまで行く3カ国列車の旅。これが毎日一本は出ている。



 チロル生まれで、日本などに留学した後、インスブルック大学で言語学などを教えるマンフレッド氏に聞くと、ミュンヘンやイタリアとインスブルックの行き来は盛んで、日常感覚的にも身近だという。むしろ首都ウィーンの方が、アルプスに隔てられ、心理的な距離を感じるとか。ハプスブルグ家の興亡とともに辿ったインスブルックの歴史は、わたしには勉強しなければ分からないことばかりだが、浜野監督の通訳を務めてくれた現代ドイツ文学の研究者、尾形陽子さんによれば、アルプスに囲繞されたインスブルックに住む人たちは、山脈絶壁によって「守られている」と感じる人と「隔絶されている」と感じる人に分かれるとか。偶然の旅行者であるわたしなどが手放しで「美しい!」と感じる、寓話のような街に住む人々にも、当然のことながら屈折はあるのだった。
 かつてなら、ドイツやイタリアへの出入りには、当然パスポートが必要だったが、面白いことに首都ウィーンとインスブルックを、ドイツ領土の平地経由で大回りして結ぶ列車があり、これはパスポートが要らなかった。なぜなら、ドイツ領内にはいっさい駅がなく、誰も乗り降りできなかったから‐。両国政府の話し合いで、便宜が計られたのだろう。



 実はわたしが、列車で何より驚いたのは、行き先がローマだったこと以上に、走っている車内でトイレに行き、便器の底が明るく感じられたので、何気なく覗き込んだところ、なんと底がぽっかり抜けて、ゴーゴー走る列車の線路が見えたことだった。これには、タマゲタ。便器の底の窄まった枠をフレームとして、その向こうをもの凄い勢いで、轟音とともに枕木や敷き石がぶっ飛んでいくのだ。
 天気の良い日で、線路上は車内より明るく、陽が射しているように感じた。それを便器の窓から覗く。シュールな光景だ。後になって、写真を撮らなかったことを悔やんだが、列車のトイレにカメラを持って入るのも、憚られるものがある。それにしても、ミュンヘンとローマをつなぎ、美しいチロルを越えていく長距離列車が、大小便を収納することなく、そのまま線路上に撒き散らしているとは。
 わたしの子供時代に、ローカル線にはこんな汽車があって、確か停車中はトイレを使用するな、というアナウンスがあったような気がするが、今、ヨーロッパで国境を越え爆走する大型列車が、同じ撒き散らし型だった。スピードの出ている車内から落下した大小便は、風に巻かれながら線路上、および空中に撒布されるが、大気は川や海のように薄めて無毒化する(?)効果は期待できるのか。
 猛烈な空気の流れに四散するとはいえ、落下する距離がひどく短く、微細な粒子にまで分解することは期待できないだろうし、海や川の水で薄まった場合と違って、直接ひっついて来るような気がする。トイレットペーパーだって、かなり原形を留めるのではないか。線路の周辺を見ると、けっして野山や畑ばかりではなく、間近に住宅が建っているところも結構ある。日本でも衛生的に問題視されて、タンクに収納されるようになったと思うのだが、ヨーロッパは新しいようで旧い、なかなか奥深い社会だと思った。
 インスブルック始発でベルリンへ向かう列車は、車体も奇麗で、トイレも収納型だ。ミュンヘンから山岳地帯を越えてロ−マに向かう列車は、無骨で強力な旧型なのか、それともただのローカル線扱いなのか?



 なお、明日から3日間、ヨーロッパ・ツアー中に脚本を書いた、ピンク映画の撮影がある。わたしの現場だ。帰国して10日近くなるが、いまだに時差ぼけから回復していない。こんなことは初めてだが、頭のスイッチがオフになったまま、午後や夕方にバッタリ倒れるように眠くなる。年のせいで、順応力が落ちているのだろう。撮影中に眠ってしまわないか心配だ。しかし、先ほど小道具で使うミクロマン(フィギュア)をデジカメで撮っていたら、変質者のような気分になって、笑いたくなった。回復の兆しかも知れない。時差ぼけには変態が効く? 今回のテーマは、謝国権と人形愛である。


 わたしたちがインスブルックに到着したその日の夜に、オーストリア政府観光局に連なるらしいフィルム・コミッション「シネ・チロル」のトップが、ディナーに招いてくれた。市内でも数少ない韓国料理&日本料理の店で、上映の主催者である「レオ・キノ」の女性たちや通訳の尾形陽子さん、それにインスブルック大学で彼女の同僚であるマンフレッド氏(日本への留学経験あり)など、賑やかなメンバーで美味しい料理を頂いた。ちなみにわたしが選んだのは、ビビンバ!



 その際に「シネ・チロル」代表から、インスブルックで撮影された『007』や、トニー・ザイラーのスキー映画『白い稲妻』(覚えている人、います?)などの話を聞いた。チロルを舞台に世界的な大ヒットとなった『サウンド・オブ・ミュージック』が、地元では全く人気がなくて、ほとんどの人が観ていないというのも意外だったが、どうやらチロル地方がハリウッド式に誇張、あるいは歪曲されているらしい。そして最近も各国の撮影隊を誘致する努力をしているので、ぜひ浜野監督にもインスブルックで作品を作って欲しい、という要請があった。
 東洋の貧乏映画製作者にとって、インスブルックを舞台にした映画を撮るなど、夢のような話で、ほとんど社交辞令として聞いていたのだが、その中で「最近は、映画の製作本数がとても多いインドの撮影隊も来ている」と言う。インドとインスブルックの組み合わせは、わたしには直ぐにはピンと来ないものだったが、まあそんなこともあるのかと思った。どうやらチロルを舞台に撮影すれば、公的な補助金のようなものが出るらしい。しかし、わたしたちには遠い話である。
 ところが、その翌日、4月なのに雪のちらつく凍えそうな街の中を、わたしが一人で歩き回っていると、どこかで見たような人々と光景に出くわした。どこかで見た…そう、紛れもない、わたしたち日本のピンク映画撮影隊にそっくりのクルーが、アルプスを見上げる広場で撮影しているではないか。そして、これが正真正銘、インド撮影隊だったのだ。



 何が似ているのか? すぐには分からなかったが、まず醸し出す匂いが似ている。スタッフが10〜15人前後で、とてもコンパクトだ。カメラの前に立つ役者も、男女二人。そして驚いたことに使っているカメラが、ピンク映画と同じ、第二次世界大戦のニュース撮影で使われたというアリフレックスの旧型なのだ。このカメラは同時録音できないので、撮影後に科白や背景音をアフレコ(アフター・レコーディング)することになる。
 中に、頭から顎まですっぽり届く、スキー帽みたいなものを被っている男性が、役者を前に踊って見せているが、どうやら彼が監督らしい。インドから来た彼には、この日のインスブルックは寒かったのだろうが、演技をつける動きは、溌剌としている。わたしは面白がって、最初は遠目にビデオカメラを回し始め、何も言われないので次第に撮影隊の付近に紛れ込んだ。もしわたしの現場でこんな不埒な野次馬が居たら、ムカツイテ即刻やめてもらうところだが、鷹揚なインド隊は平気の平左だ。しかし、どこの国であろうと、撮影現場を見るのは楽しい。



 何度かのテストが終わって、本番が始まる。女優が着ていたコートを脱ぐと、真っ黄色のワンピース! 優雅なパステルカラーの街で、原色の派手な黄色はひときわ目立つが、度肝を抜いたのが不意に大音響が鳴り響いたことだ。インド映画に特有の、あの陽気なダンス音楽がアルプスの峰にまで届けとばかりに盛大に流され、女優が踊りながら男優の胸に飛び込んでいく。見ているだけで気持ちが弾んでくるようなシーンだ。
 しかし、案外カットが短く、すぐに「カット!」がかかり、そのたびに音楽も止められる。OKが出るまで、何度かそれが繰り返されたが、見物人のわたしには、ずっと音楽を鳴らしてもらいたい気分だった。あの音楽をバックに女優と男優が踊るのを見ていると、この地上に悩みなんて存在しない気になってくる。



 アルプスをバックに踊るシーンの次に、現場はイン河の橋のたもとに移ったが、わたしが相変わらずビデオを向けていると、怖い顔のコーディネーターみたいな人が寄ってきて「エクス キューズ ミー」とやられた。てっきり、撮影現場を撮影していることに対するクレームだと思ったら、なんとビデオカメラを構えたわたしが、カメラのフレームに入っているというのだ。何たる不覚! 役者と撮影隊を同時にビデオに収めるポジションを選んでいたため、ちょうどインド隊のカメラの向かい側に立っていたのだ。



 「素人のような」ことをやってしまった。インドでは誰も知らないだろうニッポンのピンク映画とゲイ映画ではあるが、わたしもまた監督の端くれだったはずではないか。単なる野次馬のようなことをしてしまった。いや、事実わたしは単なる野次馬だったのである。「ベリー ソリー!」と謝り、親愛なるインド撮影隊の現場を後にした。



 機材もスタッフも、わたしたちとほとんど変わらないインド撮影隊がインスブルックに遠征してきているのだから、日本のピンク映画だって可能性が無いわけじゃない。わたしは心温まる思いで(?)インスブルックの街をほっつき歩いたのだが、もうひとつ、思いがけないものに出会ってしまった。「LAMMEN」である。どうも「ラーメン」と読めそうな気がするが、イン河に面したかなり洒落たレストランのメニューに載っている。お客に日本人をまったく見かけない、イタリア料理がメインの店で、はたして「ラーメン」の可能性は? 勇を振るって注文してみると、しばらく経って出てきたのは、大ぶりの器にほうれん草、セロリ、ゆで卵が乗り、木製のスプーンと割り箸(!)が添えられているではないか。
 セロリがゴロゴロ乗って、具が一風変わっているが、このたたずまいは、まさしく「ラーメン」に他ならない。まさかアルプスで、ラーメンが食べられるとは思わなかった。喜び勇んで箸を差し入れ、麺を確認すると、これが茶色で、やけに真っ直ぐな麺なのだ。麺好きのわたしとしては、いかなる新しい種類の麺であるか、期待に胸を膨らませて口に運ぶと「…?」。なんとまあ、蕎麦だった。「ざる」や「おろしそば」で食べる、あの日本純正(かどうか知らないが)の蕎麦なのである。
 わたしはいささか感慨に打たれた。中華スープで食べる、ラーメン風装いの蕎麦は、蕎麦(あるいはラーメン)はこうでなければ、といった先入見を抜いて食べれば、まことに美味しいものだった。多少腰がなく、柔らか過ぎる気がしないでもないが、「アルプスのLAMMEN」に腰を求める方が間違っている。インスブルックは水の素晴らしく旨い山間の地なので、蕎麦にはぴったりだ。どうしてこのメニューが、このレストランに加わったのかは謎だが、日本の蕎麦屋も挑戦してみてはどうだろう。わたしは蕎麦屋の中華そばを愛するものだが、案外シックリ来るかも知れない。逆に、この「LAMMEN」を食べなれたインスブルックの人々が、もし日本のラーメンを食べることがあったら、あまりのクドサに辟易することだろう。



★追記:これを読んだ浜野監督によれば「LAMMEN」はイタリア料理のレストランだけでなく、ディナーに招かれた韓国&日本料理の店にもあったという。日本料理の店なので、別に奇異に思わなかったのだろうが、浜野監督が尾形陽子さんに聞いたところによると、他にも「LAMMEN」をメニューに加えている店はあるとか。ただ尾形さんはそれを食べてないので、麺に日本蕎麦を使っているかどうかは不明。しかし、インスブルックの市内で数少ない「LAMMEN」を出す店が、わざわざ異なった麺を使用するとは思われない。また、パリのレストランに「蕎麦粉を使ったクレープ」があったように、インスブルックでも先に蕎麦粉を使う料理があり、それを「LAMMEN」に応用したのではないか、つまり殊更にわたしのように「日本蕎麦とラーメンのミスマッチ」を強調する見方は間違っているのでは、と浜野監督に指摘された。シャクではあるが、確かに一理ある。「汁かけめし」のエンテツさんに聞いてみようか。ともかく、彼の地の「LAMMEN」では、麺に蕎麦を使う方式が確立されているようだが、そこで疑問が湧いてくるのは、中華レストランではどうなのか? しかし、欧米でスープ麺は珍しく、まして「ラーメン」などと呼称することはない。割り箸が出る以上、日本風味の麺料理として「LAMMEN」はインスブルックに存在しているように憶断されるが、根拠は何もありません。(4月27日)


 インスブルックが、わたしがこれまで訪れた地の中で、もっとも美しい街であろうことは、いささかの疑いも入れない。当初、冬季オリンピックのイメージから、アルプスに囲まれた瀟洒な別荘地のような先入観で足を踏み入れたのだが、やたらと塔の多い街中を歩き始めると、人間一人の人生なんかはるかに凌駕する、長い歴史の堆積を感じる。それも重厚な暗い遺跡ではなく、今に生きる明るさなのだ。そして、どこかで見たような、不思議な既視感を感じた。これは何だろう? そうだ、佐藤亜紀さんのヨーロッパの中世を舞台にした小説の、内部を歩いているような感覚、といったらあまりに個人的な感想で、おそらく佐藤亜紀さんの小説にも即していないに違いない。



 しかし、わたしの貧しい読書体験で、インスブルックの町並みから受ける感触は、まさしく佐藤亜紀さんの小説に登場する魅力的な人物たちが徘徊する街だった。パステルカラーを基調にした淡い色調の建物たちが、相当の年月に洗われているが、聞いてみると14〜15世紀からの教会や、18〜19世紀頃の建築物が残っているという。それらの狭間を、建物よりハッキリした色の、丸っこい路面電車が走る光景の、異世界に紛れ込んだような非現実感はどうだろう。
 そして、ふと目を上げると、そこには雪をかぶったアルプスが圧倒的な量感で、デンと立ちはだかっている。間近に迫ったあまりのデカさに、山裾は見えるものの、山頂や峰は雲や霧の彼方に「雲隠れ」していることが多い。隠れているからこそ、その大きさが、いやが応にも迫ってくる。
 いやはや、こんな街がアルプスの山間にあったのだ。参った、参った、というところだが、サプライズは景観だけではなかった。むしろそれ以上に『百合祭』を受け入れるインスブルック側の態勢の素晴らしいこと! 彼女たちは、インスブルック大学で現代ドイツ文学を研究している尾形陽子さんに、数ヶ月前から浜野監督の通訳を依頼し、三月に日本に帰った尾形さんは浜野監督の『女が映画を作る時』と、さらには映画の原作である桃谷方子さんの『百合祭』まで読み、準備していたとか。尾形さんは「結末をあんなふうに変えたのでは、日本の男性は怒ったでしょうね」と笑っていたが、これだけ理解してくれる人にアルプス山中の街で出会えるというのも、どこかファンタスティックであった。



「フォーカス・オン・アジア」の中から4本の作品を選び、上映してくれたのは「レオ・キノ」という映画館で女性監督特集などを行っている、意欲的な若い女性たちだ。わたしたちの滞在費など、経費的に負担してくれたのが、政府観光局に連なるフィルム・コミッションだという。わたしは生まれて初めて、インスブルックでヨーロッパの五つ星ホテルに泊まったが、18世紀半ばから続く由緒あるホテルだった。貧乏ニッポン人のわたしなどには、身に過ぎた光栄だが、これもまたインスブルックに伴う非現実感の一翼を形成しているのかも。
 わたしたちが茫然としてしまったのは、そこに至るプロセスが、結構辛いものであったためだ。なかなか出なかったインスブルック行きのスケジュールが、主催者によって間近になってから示されたが、それは、
「4月8日の夜行寝台列車でパリ東駅から午後11時に出発→ミュンヘン乗り換えでほぼ12時間かけ、インスブルックに9日のお昼前に到着→午後から現地主催者とのランチ→当夜の9時から『百合祭』の上映→一泊して翌10日のまたしても夜行寝台でベルリンに向かい、11日朝到着」
 という超ハード、というか、1泊4日の殺人的なスケジュールだった。これには日頃から年齢のことなど、おくびにも出さない浜野監督が「アイム ノット ソー ヤング!」と猛然と抗議し「殺す気か!」と迫ったため、最終的に1日出発を早め、
「7日の夜行でパリ発、8日昼にインスブルック到着、同夜、現地主催者とのディナー、そして9日の夜9時から上映、10日はフリーで、11日朝8時ごろの列車でベルリンに向かい、夕方6時に到着」
 という、えらい駆け足ながら、いくらかまともな旅程となった。



 二つも国境を越えての夜行寝台や長距離列車にこだわるのは、経費を考えてのことだろうが、場合によっては自前で飛行機のチケットを手配できないか? と田中久美子さん(パリ在住ジャーナリスト)とともにツアー会社を当たってみたのだが、パリ→インスブルック→ベルリン、といずれも片道で飛行機を使うと、これがファーストクラスのみで、なんと100万円を超える(!)バカ高いコストがかかる。結局のところ、長距離列車や夜行寝台を使わざるを得ないことが判明した。それでも、最初に手配されたインスブルック行きを一日早め、二等寝台を一等寝台に替えたのは、少しでも旅を快適にしたいという意思表示であり、それは主催者にも了解された。
 そんなゴタゴタがあってのインスブルックだっただけに、さて鬼が出るか蛇が降るか(手元に辞書がないので、鬼も蛇もテキトーです)という心境だったが、これが案に相違して、というか面食らうぐらいに温かい歓迎ムード一色。嬉しがる以前に、唖然としてしまったのだが、現地の受け入れ体制について全く知らされないのも、今回のツアーの大きな欠点だ。
 しかし、パリの東駅から寝台の夜行列車に乗るという経験も得難いものであり、注文したワインを飲みながら、窓の外を飛び退っていく街の灯をボンヤリ眺めていると、わたしには珍しく旅情のような、おセンチなものを感じた。『百合祭』を製作してからすでに4年経つが、一本の映画がわたしたちをここまで連れてきたのだ。



 さて、9日夜の『百合祭』の上映だが,チケットはソルド・アウト、補助椅子を出す盛況ぶりとなった。90席ほどの小さなスクリーンだが、満員は、満員である。尾形陽子さんによれば「インスブルックで(日本に関心のある)来るべき人はみな来た」そうだ。
 しかし、この街のいたるところに教会があり、小さな公園にも血を流したキリストの聖像が掲げられている。信仰が現在進行形で生きているようなところで、老年女性の性愛のみならず、レズビアン関係にまで一気呵成に突き進む『百合祭』を上映することは、いささかアンチ・モラルではないか? と若干懸念しないでもなかったが、そういう街だからこそ集まった100人だったのだろう。
 北米のような大声をあげての哄笑とは異なるが、深く理解した上でのクスクス笑いが通奏低音のように続き(正司歌江さんと大方緋沙子さんは、インターナショナルなコメディ女優だ)上映後のディスカッションでも、きわめて珍しいことにほとんど帰る人がいない。欧米では最後のクレジットになると、どんどん席を立ち、照明も明るくしてしまうので、日本風の余韻に浸る余裕などないのが普通だが、この夜は最後のエンドマークまで暗く、明るくなってから拍手が鳴り響いた。
 質疑応答でも、日本の女性監督の現状や、『百合祭』が日本の男性たちに不評である理由、老年女性の性愛というテーマが国際的であること、日本の男性監督たちのバイオレンスへの傾斜についてなど、内容のあるやり取りが続いた。尾形さんの通訳も打てば響くようなものであり、浜野監督がすっかりご機嫌であったことは言うまでもない。
 クレティーユ国際女性映画祭のメインスタッフで,わたしたちをエスコートして来たロジェ氏も嬉しかったのだろう、片目をつぶり、親指を立て「やったぜ!」という表情だ。多少のトラブルがあっても、ことがうまく運べば、関係者全員が幸せになるという、見本のような夜であった.



★追記:蛇は降りませんでした。シンプルに「鬼が出るか蛇が出るか」。何かスゴイものが降ってくるようなイメージでいたのだが。(4月27日)


 クレティーユ国際女性映画祭のフィナーレも近い、各種の賞の発表の夜、ゲストにお酒などが振る舞われる「コクテール」があったのだが、わたしがトイレに行って戻ると、浜野監督が派手な口論をおっぱじめているではないか。日本語で盛大に喧嘩している相手は? と見ると、水木しげる御大の描く「砂かけ婆あ」にそっくりの不気味な相貌の日本女性で、5年前に『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』でコンペティションに参加した際に、わたしもまた口論した相手であった。



 女性学や美術批評が専門らしいが、特に知られた人ではないので、ここでは一つの典型として「K女史」としておくが、なぜか日本人でただ一人、映画祭のドキュメンタリー部門の審査委員に加わっていた。いまだに審査員であり続けていることに、まず驚いたが、浜野監督が文字通り「喧嘩別れ」した後、何が原因なのか尋ねると「侮辱された」と大いに憤慨している。監督によれば、女史は今回の特集「フォーカス・オン・アジア」に浜野監督のようなロートルの監督が(まあ、こんな直截的な表現ではなかったろうが)どうして参加したのか、他のアジアの国々のように若手の女性監督を送れないところに、日本の映画界のダメさ加減がある、といった意味のことを言ったらしい。まあ、こんなことを面と向かって言われれば、浜野監督でなくても怒るだろうが、わたしはなるほど女史らしい言い分だと思った。
 確かに今回の「フォーカス・オン・アジア」において、浜野監督は最年長であり、他の国は三十歳前後の若手監督も多いのだが、コンペティションでグランプリを獲得したマレーシアのヤスミン監督のように、四十代の実力派監督もいる。浜野監督は目下、著書『女が映画を作るとき』(平凡社新書)の、日本映画業界の体質を批判した記述をめぐって、映画監督協会とモメテいるが、そうした年代を超えた女性監督の個別的な戦いを無視して「若手を送れ」といった、一見耳ざわりの良い常套句を吐くところに、K女史の度し難い頭の硬直や無神経があるのだ。



 そしてなおかつ、女史は自説に固執し、相手の言い分を聞く耳を全く持っていないことは、わたしの5年前の経験で実証済みである。その際は『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』のパンフレットが、わたしの稲垣真美批判や、塚本靖代さんの一般の人には難解な尾崎翠論などにページの多くを割き、映画のパンフレットとして体を成していない、とわたしに言ってきたのだが、そんなことは充分に承知の上で、あのパンフレットは製作したのだ。98年当時、まだ稲垣氏が尾崎翠論の権威として威光をふるい、あたかも定説であるかのような稲垣氏による尾崎翠伝説を根底から批判して製作されたあの映画のパンフレットにおいては、尾崎翠論の新しい地平を示すことが、どうしても必要だった。著作権を持つ遺族に対し「尾崎翠全集を編纂して、無名の翠を世に出した」恩人として振る舞っていた稲垣氏の、わたしたちの映画への各種妨害行為にも関わらず、映画化を許諾してくれた遺族の方々への恩義から、浜野監督も、パンフレットを編集したわたしが、そのなかで稲垣氏を口汚く(?)罵倒することには懸念を示した。
 しかし、氏によって脚本を「採点以前」と評されたわたしにも意地があったのだろう。泥仕合の様相を呈するのは、こちらも望むところでないので、稲垣氏が画策した卑劣な行為は表に出さず、あくまで尾崎翠論をめぐってわたしは氏を批判したつもりだったが、もしクレームをつけてきて裁判か何かになるのだったら、わたし個人が責任を持って対決する覚悟で、パンフレットに編集責任を明記した。それでも遺族の方々には忸怩たるものを感じていたのだが、映画が完成した後、鳥取県内で先行試写を行った際に、遺族のある方から「頑張れ!」という伝言を頂いた時には、思わず路上で涙がこぼれたものである。
 K女史には、尾崎翠をめぐる日本の状況を大まかに話したのだが、これが何か人間でない、例えば岩のようなものに向かって言葉を発しているような感じなのだ。女史の脳内には平板な一般論でしかない自説があるのみで、それ以外の見方を受け入れたり、自説を客観的に見直す余地など全くない。犬や猫なら、もう少し言語外のコミュニケーションも図れるのだが、相手が鉱物の岩石では如何ともしようがない。言葉は空しく表面を滑るだけで、まるでディスカッションが成立しないのだ。今回、浜野監督が激昂したのも当然だったろう。



 一応、インテリの端くれであるはずなのに(だからこそ?)どうしてこんな偏狭な精神が成立するのか? そこで思い出したのが、パリの東京三菱銀行の窓口責任者であるらしい、年配の日本人女性が、フランス人には極めて鄭重に対応し、日本人相手には鼻も引っかけないような無礼な態度を示したことだ。どうやら彼女は精神的にフランス人に同化したつもりで、その地点から日本人を見下しているらしい。紛れもないアジア人の顔をしながら、自らをフランス人の末端に位置づける彼女を、わたしは醜いと思ったが、どうしてかこのタイプには女性が多いような気がしてならない。K女史もこの手の一人であるような気がするが、女史の仕事を検索してみると、数は少ないものの、日本にはフランスを売り、フランスには日本を売るタイプの、似非文化的ブローカーであるようだ。
 今回の浜野監督の著書の第5章「映画は男の世界か?」では、映画界のヤクザな男体質を批判する一方で、小権力を握った女が、女を抑圧することを「バカ女の壁」と評した。両面の敵と対決する姿勢を打ち出しているのだが、この「バカ女の壁」が一部の女性たちに熱い反響を呼んでいる。これまで喉まで出掛かっていた言葉を、よくぞ浜野監督が言ってくれたという女たちが少なくないのだ。K女史もまた、紛れもない「バカ女」として女たちの前に立ち塞がろうとしているのだが、お気の毒なことにそれほどのパワーは手中にしていない。
 わたしは、K女史に提案する。浜野監督に「どうして日本の国は若手女性監督を送らないのか?」と言うなら、女史がいかにしてクレティーユの審査委員に潜り込んだのか知らないが、まず率先してその審査委員のポストを、日本のもっと若手の女性研究者に譲るべきではあるまいか。もし岩石に、自己を批判的に検討する知性があればだが。


 ブローニュの森の近くに住む友人を訪ねるため、パリ市外に向かうメトロに乗っていたら、長身で初老の黒人男性が乗り込んできた。ブレザーを着込んで、身なりはまともだが、どこかに異様なオーラを携えている。多少よろけるのか、わたしの膝にぶつかりながら、わたしの背後の四人がけの席に座った。多少酔っているのかな、と思ったが、格別おかしいわけではない。まもなく、今度はフランス人の若い男が乗り込んできて、立ったまま車内を睥睨するかのように見下ろしている。
 突然、わたしの背後で吠えるような大声が発せられた。驚いて振り返ると、先ほどの黒人男性が、ちょうど犬が外敵に吠えかかるように歯を剥き出し、若い男を威嚇しているではないか。歯茎まで露出した表情が、ドーベルマンやオランウータンの臨戦態勢に酷似している。辺りの乗客も仰天し、黒人男性の隣に座っていた人などは、立ち上がって隣の車両に移動した。大音声は何度か発せられ、相手の若いフランス男もいささか肝を潰したのだろう、顔を赤らめて目線を逸らし、横を向いた。それに合わせるように、黒人男性は向かいの席の、わたしとちょうど背中合わせになる席に移り、外敵である若い男には背を向けた。



 ここまでの展開について、これはわたしの想像だが、横柄に見下したようなフランス男と、黒人男性の眼がバチッ!っと合ったのではないか。いわゆるガンを飛ばすというやつだ。お互いに目線を離せず、睨みあうような形になり、そこから黒人男性の吠え声が生じたに違いない。チンピラ同士なら、怒声が飛んだり、掴み合ったりするものだが、黒人男性は動物的な大声と表情で思い切り威嚇すると、相手に背中を見せてしまった。それ以上の暴力行為に及ぶつもりはないということだろう。しかし、言葉を一言も発せず、歯茎まで剥き出しにして唸り、吠えるという原始的なリアクションは、常人の範囲を逸している。若い男は、降りる前に、もう一度黒人男性の後頭部辺りを、しばらく睨みつけていたが、これは常人の虚勢というものだろう。
 やれやれ、ようやく車内の緊張感が薄れたと思ったら、まもなく別の駅から、今度は見るからに浮浪者然とした、不健康にデブった大柄の黒人が乗ってきた。年齢は分からないが、やはり初老といった年頃か。手には酒のボトルを提げ、明らかに酔っている。異様なションベン臭い匂いも発し、周囲の乗客は慌てて接触しないように避けるが、本人も行き場がないような不機嫌な表情で車内を見回し、あろうことか、先ほどの黒人男性の座っている四人がけの座席の、通路を挟んだ隣の席に座った。これは奇天烈な両巨頭の激突になるに違いないと睨んで、わたしはこの先の展開に息を呑み、神経を張り巡らして背後の雰囲気を窺った。



 一触即発か? と思うまもなく、いきなりバシン! バシン! と思い切り叩く音が車内を轟き渡った。早速振り向くと、わたしの背後の黒人男性が、向かい側の空いた座席を拳で力いっぱい叩いているではないか。いよいよ正面衝突かと、相手の浮浪者に目を走らせると、これが立ち上がって、なんと黒人男性に向かって酒のボトルを差し出している。そして、その顔に浮かんだ表情の、百年の知己にでも出会ったかのような親しみを込めた破顔には、思わず胸を突かれた。先ほどまで、この世界には居場所が無いといった周囲との隔絶を示していた彼が、言葉を一切話さず動物的リアクションしか示さない男に向かって、最大限のシンパシーを込め、エールを送っているのだ。
 周囲の乗客は、またしても避難し始めたが、わたしにはこの二人の、おそらくは狂人が、周囲の人間に対して暴力行為には及ばないだろうという確信があった。先ほど歯を剥き出して外敵に吠えかかった彼は、酒のボトルを受け取り、一口飲むと、またしても座席をドスン! ドスン! と叩き始める。今度は、懐かしい同類に出会えた歓びの表現であるらしい。なんというニンゲン離れした交歓風景であろう。浮浪者の黒人は、先客の肩から後頭部辺りを、座席の背もたれ越しに見かけただけで、同質の臭いを一瞬にして嗅いだに違いない。ふたつの孤独な魂が、見事に寄り添ったのだ。あるいはこのまま二人で酒を飲んだ挙句、殺し合いになるような結末が待っているかも知れないが、この瞬間、わたしはほとんど感動していた。
 残念ながら、まもなくわたしの降りるべき駅になったが、わたしがメトロを降りてプラットフォームを歩いている間も、さらにメトロが走り出しても、座席を叩く大きな音がバスン! バスン! と構内に響き渡っていたのである。