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<前編>『でぶ大全』をめぐって

 不満である。これでいいのか『でぶ大全』。二千八百円も支払い、わたしは、まったく納得できない。「人類が愛してきた魅惑のでぶの歴史」というキャッチに踊らされ、いそいそと本屋に向かったわたしだったのだ。(作品社刊)
 実は、来月撮影するピンク映画で「でぶ女の魅惑」をエピソードに加えようと目論んでいる。といっても、わたしたちの業界に、フェリーニの映画みたいな巨女や、超でぶの女優さんがいるわけではない。わたしは、佐倉萌(さくら・もえ)さんという丸っこい体型をした女優さんが、以前から気になっていたのだが、彼女は監督としても作品を発表している。でぶフェチ映画に出てくれるだろうか?



 喫茶店で、実際にお会いし、わたしが最初に発した言葉「それほど太っていませんね」は、女優さんに対して失礼だったかもしれない。それに対して彼女は「いや、太っていますよ」。何というお互いの挨拶だろう。萌さんによれば、太ったり痩せたりの振幅が大きく、また望月六郎監督の一般映画では、監督の要望で10キロ太って見せたとか。まさかピンク映画で太ってほしいともいえず、目下想定している萌さんの役柄が、でぶフェチ役の荒木太郎君(彼も監督だ)と絡み、水着姿で女子プロレスの技をかけたり、白い襦袢で、ふくよかなお腹に短刀を当て、切腹の真似事などをすることを伝えた。
 話がひたすら、でぶ方面だったので、萌さんは不快だったかもしれない。以前、アンドロイド役を、整形手術を重ねた女優さんにお願いしたときも、周囲は危惧したが、当初の企画段階から話し合ったので、実にハマリ役となった。今回の萌さんも、快くでぶ女役を引き受けてくれた。
『でぶ大全』は、資料にもなると踏んで買ったのだが、読んでいて、どうもモドカシイ。確かに「でぶの歴史」「でぶへの偏見」「巨乳と巨尻の魅力」「でぶの復権」という構成は、そそられるのだが、ひとつひとつがワンエピソードで終わっている。それに、でぶ女より、でぶ男のほうが多く取り上げられているのも、わたしには不満が残った。でぶ男には、全く性的魅力を感じないのだ。
 また、でぶ女を取り上げても、例えば「怪物のような巨体だが、才気があった=でぶ好きのアンリ四世の愛人アンリエット」の場合、次のように記述されている。
「でぶ女のマリー(正式の妻)だけでなく、さらに太ったアンリエットを抱きかかえなくてはならなかったアンリは、次第に愛妾の策謀に気がつき始め(暗殺に加担したという説もある)、心中穏やかではなかったが、余人には理解できない、でぶのアンリエットの抗いがたい魅力にとらわれ、なかなか離れられずにいた」
 この「抗いがたい魅力」が何であるか、わたしの最も知りたいポイントなのだが、当時の作家の回想録から「ぶくぶくに太り、怪物のように巨体を揺らしていた。とはいえ、彼女には才気があった」と引用してるだけ。不満だ。これでは「才気」が、でぶの免罪符のようではないか。



 著者のロミとジャン・フェクサスは、訳者の長い解説によると、さまざまの職業を経てきた、年季の入ったコレクターであるらしい。なるほど、新聞の切抜きを集めたような印象は、そこから来ているようだ。フェチ的な観点を望むこと自体、間違っている。
 これまで、二人の著書として『悪食大全』『おなら大全』『うんち大全』などがあり、今回のタイトルも、この流れで付いたとか。原題は「胴回り(ウェストサイズ)―肥満小史」で、なるほどこれなら納得できる。「大全」などと、大きく打って出るから、こちらも期待してしまうのだ。
 それでも、いくつか心惹かれるエピソードはあって、ルイ十四世の弟と結婚したシャルロット=エリザベートは、なかなか個性的だ。
「粗野な兵卒のように、しこたま酒を飲みながらも、さして乱れず、食人鬼さながらに喰らい、太るいっぽうの体を揺すりながら、がさつな声で話したかと思うと、しばしば呵呵大笑した」
 しかし、国王の夫である夫にはそれが魅力的だったらしい。公然たる「男色趣味」があったが「たおやかな妖精のような女に小声で囁かれたり、そっと触れられたりするよりも、荒々しく抱きしめられるほうが好きだったのである。かくして二人の間に、娘一人、息子二人が生まれたのだった」。
 男色家に子供を作らせたのは、巨大で粗暴な、でぶ女の威力だったのだ。このシャルロットの手紙が、なかなか好い。
「確かに私の胴回りは恐ろしいほどですし、体型はゲームで使うサイコロそっくり」「部屋をふたつ横切るだけで、水牛のように息が切れてしまいます」「家みたいに太ってしまった今、もし何かの具合で転んだりしたら、私はもう起き上がれないでしょう」
 家みたいに太った女! わたしのピンク映画に出演してくれる、そんな女はいないものか?
<05年11月。『レモンクラブ』(日本出版社)掲載>



<後編>ピンクの撮影現場から

 今年2本目のピンク映画の撮影が終わったところである。年間2本で、撮影は計6日。これでは、編集の塩チンが、原稿催促の電話をかけてきて「どうやって年を越すんだ? 窃盗とかやってんじゃないだろうな。その度胸もないだろうけど」と、イヤミを言うのも当然だろう。昨年までにしたって、せいぜい年間3〜4本だったが、イカレタ欲望を抱えた男女が登場する、わたしのピンクやゲイ・ピンクが、一般の観客にはきわめて不評であり、それがわたしへの発注減につながっているようだ。
 にもかかわらず、わたしは懲りもせずに、今回も、前号で触れたデブフェチやら掃除機マニアやら、室内の床(ゆか)になって、女を見上げたい男などを、続々登場させて、嬉々としている。仕上げが済んだ今になって、これらの登場人物に自らを投影できる観客が、一体どれぐらいいるものだろうと、いささか不安に駆られている次第だ。この先、わたしを待っているのは、はたして、いかなる暗澹とした職業生活だろうか。
 しかし、デブフェチの撮影は楽しかった。佐倉萌さんの柔らかなお腹に、思い切り顔を埋め、肉で鼻や口をふさいで、窒息死を試みる荒木太郎くんの果敢な演技は、必死であればあるほどバカらしく、実に愉しいシーンとなった。実際、撮影時に、わたしがなかなかカットをかけないので、荒木君は萌さんのお腹の肉のなかで、頭が真っ白になったという。
 柳下毅一郎氏の『興行師たちの映画史』(青土社刊)によれば、ドリス・ウィッシュマンという、アメリカのセックス映画草創期の女流監督作品に、巨乳で窒息死させるストリッパーが登場するらしいが、巨腹で窒息死させるというアイディアは、どうだろうか。



 ホテル住まいの掃除機マニアを演じたのは、吉岡睦雄君だが、掃除機オナニーを披露した、メイド役の佐々木基子さんとのコンビネーションは、素晴らしいものだった。実は、二人のシーンは最終日のラストの撮影で、深夜12時を過ぎると、スタジオ料金が割り増しになるという、切羽詰った状況で行われたのだが、掃除機をかける女の後を、男がついて回って、掃除機の性的魅力について講釈し、その後、女に襲いかかるものの、軽く組み伏せられ、結局お金を出して、掃除機オナニーを見せてもらうという、都合6分を越えるシーンを、長回しの3カットで撮ってしまったのだ。1時間分の割増料金は払う羽目となったが、このコンビでなければ、もう2〜3時間はかかったことだろう。
 フェティッシュというと、普通ハイヒールやミニスカなどが代表的だが、掃除機のような家電製品に、性的に執着する男は、どれぐらい存在するか? 助監督の話によれば、男友達と喋っていると、必ず一人ぐらいは、掃除機にペニスを吸引させたことがあるという。フェティッシュというよりは、オナニーグッズとして使われているわけだが、それでは実際にどれほど効用があるかといえば、ほとんど好奇心から突っ込んでみただけ、というのが実情らしい。多くは、自らの浅はかな思い付きを後悔し、二度とやらないに違いない。
 ただ、わたしが以前読んだ怪しげな理論によれば、男性の射精の快感は、尿道を通過する際の精液のスピードに比例するといい、口内発射の際に女性が強く吸引することで、快感を倍増させることができるのだそうだ。そのバキューム理論に従えば、オナニーをして、まさに発射! という瞬間、掃除機のホースに突っ込んで、スイッチを入れたら、これは凄いことになりはしないか? もっとも、掃除機の説明書には、水を吸い込むな、と書いてあることが多く、故障の原因になるかもしれない。
 今回の撮影では、基子さんが掃除機を相手に、ホースの蛇腹を股間に擦り付けたりした後、吸入口を外陰部に押し付け、スイッチを入れて、轟音とともにエクスタシーに達する。吸引される感覚に関しては、女性の場合どうなのか、もしバキューム体験されている方があったら、ご教示ください。



 メカニックなものに対するフェティシズムは、女性と男性のヘテロ間よりも、男性と男性の、ゲイの間にこそ多く発見されるもので、わたしは『ザ・ニュー・ジョイ・オブ・ゲイ・セックス』(1993年白夜書房刊)の「フェティシズム」の項の、次の記述を、何度愛読したことだろう。
 「たとえば、男性との最初の性的接触をスポーツを通じて経験した人は、フットボールのヘルメットやサポーターに欲情するようになったかもしれないし、あるいは電話配線の工事人や建設現場で働く人をずっと見つめているような人は、安全帽や工具を吊るした作業ベルトにエロティックな興奮を覚えるのかもしれません」
 わたしは自分が、かつて少年の頃、電信柱に登って工事している人の、腰に巻かれたベルトからぶら下がった、ピカピカ光る工具類を「ずっと見つめて」いたような気がしてならない。そこに、今回の掃除機マニアの遠因があるような、そんな気もするのだが。
<05年12月。『レモンクラブ』(日本出版社)掲載>


 怪人と称される人々は、どこにでもいるが、パリで出会った「K(カー)フィルム」代表のクラウス氏は、雲を掴むような図体とともに、間断なく喋り続けるエネルギーによって、わたしたちの度肝を抜いた。「わたしたち」の中には、フランス人男性の映画祭関係者や、パリ在住の日本人女性ジャーナリストもいたので、山出しの日本人であるわたしだけが、ビックリしたわけではない。しかし、出会って間もなく、自分の頭から胸、そして股間へと順ぐりに両手で押さえ、「人間は(あるいは、人生は)、脳と、心臓と、股間が、三大要素だ」というようなことを陽気に語るのを見て、わたしは、つい吹き出してしまった。


●Kフィルム主催の第一回「フェティッシュ・フィルム・フェスト」パンフレット。

 こうした定義自体は、別に目新しいものではないが、映画のディストリビューター(国際的な流通業者)であるKフィルムの、DVDやビデオの棚を見ると、クラウス氏が自分の信念を、あからさまに商売にしていることが見て取れる。フランツ・ファノンだとかI・R・Aだとかチョムスキーだとか、やけに過激派っぽいタイトルがずらりと並んでいるが、これが「頭」だとすると、「ハート」はチェック・ベーカーなどのジャズや子供向けのコミックが相当するに違いない。そして最後の「股間」が、なんともはや、充実しているのだ。Kフィルムのメイン商品は、実に「股間」なのである。
 ピンナップ・ガールとして有名なベティ・ペイジがシリーズで並んでいるかと思うと、SMやボンデージ、フェチ関係のブラックなパッケージが異彩を放ち、タイトルのない怪しいシリーズは、古い時代のアングラ・フィルムで、わが国で言うところのブルーフィルムなのだろう。これが人気があるのだという。
 日本でも、かつて70年前後に、W・ライヒの『性と文化の革命』に代表されるような、左翼革命と、ヒッピーのフリーセックスを野合させた風の、理論や実践が、風俗的にも流行ったことがある。クラウス氏は、いまだにその路線を堅持しているかのようだ。
 もちろん、Kフィルムの商品棚に顕著にあらわれているように、現代の政治的なテーマは、中東やアフリカ、南米が中心になり、セックスの面でも、かつてのヒッピーの楽天的な乱交から、SMやフェチ、トランス・セクシュアルなどに、大きくシフト・チェンジされているが、構えは変わっていない。


●同パンフレットより。

 そのクラウス氏が、99年と00年の2年にわたって、パリで開催したのが「fff=フェティッシュ・フィルム・フェスト」である。わたしは、氏に、このセンセーショナルな映画祭のカタログをもらったが、一回目の99年の表紙など、メタリックな素材をボディに貼り付けた女性が、サイボーグのように立ち、まことにカッコいい。フェチ好きのわたしなど、ワクワクしてしまうが、しかしプログラムを見ると、「フェティッシュ」といっても、靴やレザー、ゴム、髪の毛、ムキ卵(わたしの好み)といった個別のフェチを指すのではないようだ。
 性転換を含むトランス・セクシャルを筆頭に、レズビアン&ゲイ、SM,さらにはアングラ・フィルムなど、世の中の「正常な」セックスに背を向けた、あらゆる「変態」の総称として「フェティッシュ」という言葉が使われている。中でもメインは、SMのようで、日本で通用している、フェチの「物神崇拝」といった気配はほとんどない。
 わたしは、よく人前で「フェティシズムが好き」なんて言うことがあるが、時と場所を考えなければならないようだ。実際、女性映画祭で知り合った、北欧の女性監督に、ものすごく変な顔をされたことがあるが、「わたしは変態です」と告白しているようなものだったかもしれない。
 なぜこの映画祭が2年で終わってしまったか尋ねると、「海外からゲストを呼ぶだけでも、お金がかかるし、映画祭の費用は、自分の会社にとって大きな負担だ」という答が返ってきた。しかし、現在のKフィルムの商品構成を見ると、映画祭で上映した作品や、その延長線上にある作品が主流で、さすが陽気な商売人である。


●第2回「f・f・f」パンフレット。

 個人的には、大好きな『キラー・コンドーム』が第一回目の映画祭で上映され、カタログでも大きく写真入りで紹介されていたのが嬉しかった。コンドームが実はエイリアンで、装着した男根を食いちぎってしまうという、ドイツのトンデモ映画なのだが、睾丸の片方を食いちぎられて、逆襲に立ち上がるイタリア系の刑事が、ホモ・セクシュアルなのだ。変種ホラー映画でありながら、むさいオッサン刑事のゲイ映画でもあるという、まあ素晴らしい映画です。
 余談ながら、わたしはこの映画の、コンドームの箱型のパンフレットを所有していることが、自慢の種で、中を開けると、コンドームのパッケージに似せて、折りたたまれた本文が出てくる。相当チープな映画だが、『エイリアン』などで著名なH・R・ギーガーが、クリーチャーのデザインをしているのが、売りの一つで、このはなはだ読みにくいパンフにも、ギーガーへのインタビューが載っている。もっとも、そのなかでギーガーは、あまりの予算不足から、自分のプランはまるで生かされなかったとボヤイテいるのだが、そんな台所事情までオープンにしてしまうところが、B級精神のすがすがしさだ。


●『キラーコンドーム』の紹介。「セーフ(?)セックス」という見出しが可笑しい。


●これが日本製のコンドーム型パンフレットだ。建つ三介さんのご希望により追加掲載。箱の表は恐怖に叫ぶ半裸の女の子だが、箱の横のゲイメンにご注目。


●折り畳み式のコンドームのパッケージの表に写真、裏に記事が印刷されている。「世界初!」と銘打ったギーガー・インタビュー(何が世界初なんだか)は、別刷りで入っているが、予算不足を嘆く、世界の巨匠のボヤキが哄笑を誘う。

 さて、クラウス氏から「土曜の深夜に、フェティッシュ・パーティーがあるから、来ないか」と誘いがあり、小躍りして出かけていった。一人では不安があるので、パリ在住の剛直なジャーナリスト、田中久美子さんに同行してもらったのだが、まあ、しかし、外観は倉庫のように見える、怪しげな会場に、真夜中に続々集まってきた人々のファッショナブルなこと! レザーやエナメルの黒の衣装で見事に決めたカップルが多く、パリのアンダーグラウンドの社交場といった趣きだ。普段着の革ジャンで出かけていったわたしなどは、貴族に対する平民(奴隷かも…)の気持ちになってしまった。
 天井の高い一階では、ダンスと談笑が行われ、そのなかを、裸で自ら拘束したマゾ男や、不気味なレザーで全身を覆った本格派などが、もそもそ徘徊する。地下では、チェーンでつながれたマゾ男が、お尻を鞭で叩かれたり、女王様の靴を舐めたりといったプレイが行われていたが、日本のSMパーティーのような、気合を込めた緊迫感はない。シャンパンを飲みながら、みんなが談笑する中で、日常的に、淡々とプレイが続行される。
 クラウス氏によれば、「愛すべきインテリ」の多いパーティーで、参加者に対する強制がないことが特徴だとか。たまたま会場で話すことになった、オランダから来たという縛り師、彼は日本の緊縛にも強く影響され、この後、日本にも行く予定だと語っていたが、この余裕をかました空気は物足りないと、いささか不満げだった。彼の国のパーティーでは、カップルの一方を引きずり出して、激しいプレイを行い、それが喜ばれているという。
 同じパリでも、もっとアングラのハードコアなパーティーもあるに違いないが、SMを日常の空気の中で、ゆとりを持って楽しむ(お金持ちの)フランス人の「文化」に触れた思いがした。


●映画祭にあわせて、毎回フェティッシュ・パーティーが開催された。

 その後、帰国する前に、クラウス氏とランチを囲んだのだが、わたしは彼が、はたしてコミュニストなのだろうか? という、出会って以来の疑問について、韓国料理のお昼定食を食べながら、考えていた。SMやフェティシズムにのめり込んだ、陽気なコミュニスト、というのも興味深いが、例によってエネルギッシュに喋りまくる彼の顔を見ていたら、ふと一つの言葉が浮んできて、同席し通訳を務めてくれていた、パリ在住の日本女性に聞いてもらった。「あなたは、ユートピアを信じていますか?」
 一瞬、場違いな質問に対し、妙な顔をしたクラウス氏だったが、こちらの意図を呑みこんだようにうなずき、「それを信じないでは、この人生は、あまりにも寂しすぎる」、あるいは「悲しすぎる」といった意味の答で、わたしはすっかり、この名言に感じ入ってしまった。
 食後、わたしたちは別れを告げたのだが、サンジェルマン・デ・プレの街頭で、この巨躯のユートピアンは、新しく就任したローマ法王の写真に向かって、全身で大きく中指を立て、呵呵大笑しながら、人ごみのなかに去っていった。


●どんな映画なのだろう。幸せな映画なのでしょうか?

<05年4月。『レモンクラブ』(日本出版社)掲載>


 君は謝国権を見たか? というのが、今回のわたしのピンク映画の仮題であった。謝国権が実在した人の名前であり、『性生活の知恵』(池田書店)の著者であることを、どれほどの人が知っているだろう。もちろん、五十代以上の男にとっては、記憶の彼方に揺らめく(あるいは脳裏に焼きついた)書名と著者名ではないだろうか。



 わたしは、今回、主演に予定された女優が、高校時代に新体操の選手だったことから、その柔軟な肢体を駆使して、奇抜な体位を存分に見せつけようと思いついた。そこで浮かんできたのが、戦後の大ベストセラー『性生活の知恵』だ。さまざまな体位を紹介して、正常位一辺倒のニッポン人を驚倒させた。といっても、実は、わたし自身も読んだことがない。調べてみると、初版が出たのが1960年で、わたしはまだ小学生。いかにも早過ぎる。
 類書に『How To Sex』(奈良林祥・KKベストセラーズ)があり、こちらは、ほぼ10年後の71年に出版され、シリーズ計250万部の大ヒットとなったとか。これは、わたしも読んだ。ついでに『性生活の知恵』がどれぐらい売れたか調べてみたが、ハッキリした数字が、すぐには出てこない。「年間ベストワンのミリオンセラー」なので、百万部以上は売れたわけだ。
 撮影のための劇用小道具として、現物をネットの古書で注文した。帯つき800円(定価320円)という安さだが、いくら古い本でも圧倒的に量が多すぎるので、高くなりようがないのだろう。初めて手にして驚いたのは、体位(本書では「態位」)のモノクロ写真で、美術のデッサン用人形が使用されていたことだ。いや、これくらいのおぼろげな知識はあったはずだが、意外だったのは、人形が男女それぞれ単独なのだ。
 態位と言いながら、男女のポーズが個別に写真で紹介され、それに「適合」する相手のポーズが、アルファベットで記されている。読者は、それを組み合わせて、頭のなかで態位の完成図を想像するのだが、「適合」するのは決してひとつではなく、多くのバリエーションがある。相当の想像力が必要とされ、面倒なようでもあるが、ことセックスに関する限り、普段出ないような馬力が出るのが人間だ。



 わたしが読んだ奈良林本は、カラーで男女のモデルが絡み、一目瞭然だったが、その10年ほど前の60年では、人形の写真でも、男女を合体させることはできなかったのか? そうかも知れないが、そうでないかも知れない。というのは、謝国権博士は、このアイデアに相当の自負心を持っていたのだ。
「巻頭に収録された性交態位解説のための写真は、考え抜いた末、やっと出来上がった著者独自の発案によるものである。性のいとなみは美しいものでなければならない。しかしながら、この表現はきわめて困難であり、これを救う手段として、同時に読者をして最も的確に理解せしめる手段として、また本来の美しさを汚さぬ方法として、著者は現在自ら考案したこの方法に優るものはないと自負している」(前書きから抜粋)
 エロ本ではない、ということだが、もうひとつの独創性は、単体の写真に付けられたアルファベットが、「性交運動の受動的立場にある側に大文字、主動的な側に小文字」が当てられていることだ。そして、女性側が小文字、すなわち「主動的」である態位が少なくない。ここから、次のような後年の評価が生まれた。
「性において女性は受動的であるべきで、イニシアティブをとるのは、はしたないという考えがふつうだった頃である。そうした時代に、『性生活の知恵』は、ペアによるオルガスムスの経験の共有ということを重視する性愛観をはっきりと打ち出した」(鷲田清一「謝国権―オルガスムスの一致を重視する性愛観」、朝日新聞社編『二十世紀の千人8 教祖・意識変革者の群れ』朝日新聞社1995年。某ブログより転載)。
 実際、本文を読むと、そうした「性愛観」が、明確に記述されている。
「性交運動は、男性器(陰茎)と女性器(膣)の間にいとなまれる一連の摩擦運動であるが、その主導権は、必ずしも男性側にゆだねられる場合が多いとは限らない。性交の各態位を、著者の分類法に従って眺めてみると、その主導権はほぼ相半ばしているのである」
 帯に「科学的性生活の全貌!!」と謳い、ここで「性交運動は〜一連の摩擦運動である」と定義する、即物的な表現が、なんとも嬉しくなってくるが、60年代のニッポン人を本当にエキサイトさせたのは、こうした謝国権博士の性愛観における「積極的にセックスする女性像」だったかも知れない。そして具体的に「女性における運動の種類」が解説される。「前後または上下運動」「密接回転運動」「密接圧迫」など、いずれも腰の動きだが、「結合離脱」しないための注意などもあって、充分に科学的な処方箋ではないか。



 今回調べてみて、61年に同名映画が、大映で、たて続けに2本製作されていることを知った。第二部では、謝国権博士は監修も務めている。出版から映画へと、まさに国民的なブームであり、それで当時の小学生の脳裏にも焼きついたに違いない。その後も、60年代に、謝国権原作で「性生活」モノが、2本映画化された。いささかキワモノめいているが、博士はこれを、どんな風に見ていたのだろう。
 意外だったのは、ベストセラーでは10年後発の奈良林祥が、謝国権より6歳年上だったことだ。「ニッポンのキンゼイ」とも言うべき両博士だが、奈良林は02年、謝国権は03年と、相次いで亡くなっている。
 わたしのピンク映画? 事情があって主演女優が交代したが、『変態体位・いやらしい性生活』(大蔵映画)というタイトルで、内容は、ほとんど人形フェチの話になってしまった。すっかりデッサン用の人形に、うつつを抜かしてしまったのである。謝国権先生、御免なさい!

<05年5月。『レモンクラブ』(日本出版社)掲載>




 擦淫者=さついんしゃ。なかなか古風な響きではないか。字の如く、こすり合わせ、触覚によってエクスタシーを味わう、変態どものことである。「素股」(すまた)という言葉をご存知だろうか。太腿の間に、勃起した陰茎を差し入れ、腰を使ってピストンして、発射に至る。女性の太腿だけでなく、ゲイの場合は男性の太腿が使用されるが、これも「擦淫」の一種だし、オッパイの間に挟む「パイズリ」もまた、そうだ。男女間でも、ゲイ間でも出現し、けっして特異な現象ではない。



 さんざんピンク映画で、フェチを取り上げてきたわたしだが、なかで、もっとも陽気な印象で覚えているのが、このスリスリ変態だ。例によって、ストーリーはすっかり忘れてしまったが(自分で脚本、書いているのにネ)、主人公を演じたのは、いまや人気監督の荒木太郎くん。女性器への挿入には気が向かない彼は、女性の膝の裏側や、ひじの内側、わきの下、あごの間(!)などに挟んでもらって、せっせと腰を振るのである。額に汗を浮かばせ、懸命にピストンする荒木くんと、感じるはずもないのに、なぜか盛大に喘ぐ女優さん。そこに軽快な音楽を乗せ、わたしはひどく愉しかったが、観客の中にはあまりのバカバカしさに、席を立った人がいたかも知れない。
 挿入によらない絶頂感覚は、わたしのピンク映画のメインテーマであるが、古今東西の変態について網羅的に解説した『性現象事典』(小宮卓著。光風社出版。95年刊)によれば、摩擦によって性的満足を得ることを「フロッターリズム=擦淫症」と呼び、なかなかに普遍的な、性倒錯の一種なのである。美術用語の「フロッタージュ」は、木の板や石、木の葉などに紙を当て、その上から鉛筆でこする技法だが、これが変態の命名に転用された。最初に取り上げたのが、変態研究のパイオニア、ハヴェロック・エリスで、1938年版の『性の心理学』で、次のように解説している。
「フロッタージュなる特異な性倒錯は、男性のみに顕著に見られるもので、着衣の肉体を、とりわけ性器部分だけではないが、これまた着衣の女性の肉体に密着させようとする性衝動で、まったく見知らぬ女性に向かって、この情欲を、公の場で晴らそうとする」
 これは、まさしくニッポンの「痴漢」に他ならないが、現代の痴漢のように、掌や指で撫で回したり、指を強引に潜り込ませたりするわけではない。身体各所の触覚を、フル動員した快感の追求で、なかなか奥ゆかしいが、30年代のヨーロッパでは、これでも十分に刺激的だったのだろう。エリスの記述からは、陰茎をこすり付けて、直接的に快感を得るのではなく、衣服=布を間に挟んで、こすり合わせる、フェティッシュな志向が窺われて、興味深い。



 布へのフェティシズムでは、『絹の叫び・フェティシズムの愛撫』(フランス・スイス・ベルギー合作。95年)という、そのまんまの邦題を付けられた映画があったが、内容もまた、かなり図式的だった記憶がある。この映画が、おそらくモデルにしている、20世紀初頭のパリ警視庁の精神科医、ガシアン・ド・クレランボー(正式には、ガエタン・アンリ=アルフレッド=エドアール=マリー・ガシアン・ド・クレランボー。デカルトにつながる名家だというが、どうして、こんな名前が成立するのか?)については、港千尋『群集論』に詳しいが、リブロポート刊のこの本は、今ではちくま文庫に入っているようだ。わたしは、クレランボーに関する港千尋の考察と写真をネタに、布にくるまった怪物が男を襲う、ホラー風ゲイ・ポルノをデッチ上げたことがあるが、これはまた別の機会に。
 かつては衣服を通して、こすり付けていた擦淫者=フロッタールだったが、現代アメリカにおいては、その間接性がまどろっこしいというわけで、より直接的な「フリクション」(摩擦)から発する「フリクテーター」に様変わりしているとか。もっとも、この事典自体、70年代初めから80年代初めにかけて『SMセレクト』誌に連載されたものをベースにしているので、アップ・ツー・デートの現代というわけではない。
「フロッタールが、古典的洗練さと情緒を重んじ、ゆるやかな擦淫を旨とするのに対し、フリクテーターは、陰茎を両方の足の裏でこすり合わせたり、腕の下を擦淫したり、女性をうつぶせにして、お尻の上部を摩擦したり、喉に挟みつけさせて、射精したりする」
 つまり、わたしがピンク映画で取り上げたのは、古典的なフロッタールではなく、即物的なフリクテーターだったのだ。足の裏で挟んでもらって、キツクこすり合わされ、仰け反って悶える男の図というのは、なかなか楽しい眺めだが、わたしはこれをピンク映画の中で使ったかどうか、イマイチ記憶が鮮明でない。猫の足の裏を「肉球」と呼んで、かなり気色良いらしいことは、『百合祭』の観客の方々には常識となっているが、はたして女性の足の裏は、猫の足の裏の肉球に、優るとも劣らないものであろうか。



 しかし、このフリクテーションに関しては、こすり付けるストローク=陰茎自体のかなりの長さ、が必要である。かつて白夜書房で、わたしが編集していた性風俗情報誌では、男のスタッフが、やたらと裸のモデルになったものだが、そこで「粗チン」と謳われたわたしなどには、ほとんど困難な作業だ。パイズリなどを考えても、すぐに諒解できることだが、挟み込んで、こすり合わせ、そこに摩擦が生じるためには、ある程度の実効距離が要請される。
 だから言うわけではないが、わたしたち男性は、陰茎への局所的な固着を捨て、全身の皮膚感覚を発動した、センシティブな触覚による快感追求を、模索すべき時に来ているのではないか。何の根拠もないが、突撃一本の男根主義を捨てよ! フロッタールの古典へ帰れ! そんな風に揚言してみたい。
 従来、全身で感じるのは女性とされてきたが、男性のコペルニクス的転回によって、男女共同参画の触覚的性愛の展望が、一気に開けると思われるのだが、はたして、どうだろう。

<05年2月。『レモンクラブ』(日本出版社)掲載>


 牛の頭と書いて「ごず」。牛頭天王は、祇園精舎を守る守護神だとか、逆に迷惑な疫病神だとか諸説あるようだが、ここでは言うまでもなく、三池崇史の03年の秀作『極道恐怖大劇場・牛頭GOZU』を指す。あの映画のラスト近くで吉野きみ佳が、姿を不意に消してしまった哀川翔を「産み直す」シーンがあり、女の太腿の間から大の男のヤクザがズルズルと這い出してくるのだが、この奇想天外な物語にして、男を産むのは女の子宮というテーゼに囚われているのかと、いささかの感慨があった。



 というのは、フロイトに「アナル・バース」という用語があり、肛門から再び産まれ直したいという奇怪な夢想を意味するというのだ。フロイト説によれば、子供の性的成長のステップに「肛門期」があり、その段階に固着すると、肛門から産まれたいという願望が生じることがあるという。もっとも、この場合でも、その肛門の持ち主は、やはり女なのだろうね。
 しかし、子宮からではなく、肛門から産まれたいなら、男の肛門でも一向に構わないではないか。『牛頭』の場合、もし哀川が、彼を必死に探す弟分の曽根秀樹、あるいは秀樹の実父で、気色悪い旅館の使用人役の曽根晴美(息子のために製作費を出資。名古屋では有名な役者らしい)の肛門から産まれ直してきたら、物語はまったく違ったものになったろう。
 もっとも、きみ佳は消えた哀川を名乗っており、いわばきみ佳と哀川は雌雄同体なので、きみ佳から哀川が分離してくるのは物語の必然なのだが、せめて前の穴からではなく、後ろの穴から這いずり出て来て欲しかった、というのはわたしだけの偏頗な願いか。



 わたしは数年前『美尻蜜まみれ』(大蔵映画)という、お尻をテーマにしたピンク映画を撮る際に、お尻=肛門をめぐってどんなフェティッシュが存在するか、セクソロジー辞典の類にあたったのだが、そのなかでもっとも心惹かれるバカげた欲望・執着が、この「アナル・バース」であり、また「アナル・ヴァイオリン」だった。
 肛門とヴァイオリン、なかなか素敵な組み合わせだが『現代セクソロジー辞典』(R.M.ゴールデンソン、K.N.アンダーソン著。早田輝洋訳。1991年。大修館書店)によれば「東洋の肛門マスターベーション装置」なのだという。日本も東洋のはずだが、こんなオナニーは見たことも、聞いたこともない。この「装置」は、ガット(羊などの腸で作った糸)の弦を、固ゆでの卵あるいは木製か象牙製の玉に付け、この卵か玉を肛門の中に挿入した後、弦をピンと張って、ヴァイオリンの弓でかき鳴らす。
 この演奏によって引き起こされるガットの芸術的な(?)震動が、アナルの内外に複雑精妙な快感を生み出すに違いない。しかし、肛門の中に入れた本人が、弓を使って弾くのは、いくらなんでも無理であり、それは「セックスパートナー」が担当するというのだが、それでは男に対しては女が、女に対しては男が「マスターベーション」のお手伝いをしたり、あるいは前戯に使ったのかというと、必ずしもそうではないようだ。



 というのは「この装置は特にオットマン帝国の宦官の間に人気があった」と記述されているので、去勢した男同士が、お互いに弓を弾き合って楽しんだ可能性がある。(オットマン帝国とは、オスマン帝国のこと。イスラム教だが、中国みたいに宦官は存在したのか)。
 陰茎や睾丸を切除したトルコ族の男同士が、肛門に卵や玉を挿入し、そこから弦を張って、ヴァイオリンの妙なる調べを奏でている図には、思わず惹き付けられるものがあるが、しかし「今日でも電動製の同じような物が、ヨーロッパ、アメリカ合衆国、日本で用いられている」というのは、いくらなんでも「ありえねー!」。
 原著は、アメリカで1986年に刊行されているが、そんなオナマシンは日本で見たことがない。アメリカにはあるのか? しかしこの「装置」のどの部分を電動にするのだろう? 考えやすいのは玉をバイブにすることだが、それでは単なるアナル・バイブで、本来のヴァイオリン演奏による妙なる震動を、アナル感覚で味わうことは出来ない。もしかしたら、一人で楽しめるように、ヴァイオリン演奏が、自動ピアノみたいに電動になっている? まさか。そんなことをしたら、とんでもなく大掛かりな装置になるので、これも考えにくい。



 いささか不可解なところもあるが、少なくともオスマン帝国には存在したわけで、わたしはこれをピンク映画で再現してみた。使ったのは固ゆで卵だが、いくら硬く茹でても、ヴァイオリンの糸を張るのは至難の業だ。引っ張ると、卵が壊れてしまう。恐らく、かつては中央アジア産の玉でも使ったのではないか。
 もっともピンク映画なので、実際に固ゆで卵を肛門に挿入するわけではなく、卵が入った(つもりの)カットの後には、女優、男優のお尻に貼った前張りにガットをつないで撮影した。最初はこれをピンと張るのが難しかったが、次第に助監督や役者諸君も習熟し、ヴァイオリンでクラシック音楽を奏でる、ピンク映画には稀な美しいシーンが出来上がったのである。

<05年1月。『レモンクラブ』(日本出版社)掲載>




 目撃した瞬間に、魂を吸い取られるような物体があって、かつてわたしは水族館で水くらげの変幻自在の姿形を目にし、茫然としてしまったことがある。何度見ても胸騒ぎはおさまらず、水海月の悠々たる不定形をテーマに、薔薇族映画を企画するまでに昂じた。撮影の際には、わざわざ大金をかけて、生きたクラゲをレンタルする専門業者に来てもらい、水槽で揺らめく水海月を延々と撮って、プロデューサーの浜野監督にさんざん文句を言われたものだ。
 その後も何度かわたしのピンク映画や薔薇族映画に、水海月は出演したが、水族館に出向いてデジタルカメラで撮影し、パソコンの液晶に写して複写する方法を思いつき、以前のように専門業者の出張を依頼する必要はなくなった。



 9月3日に札幌市の男女共同参画センターで『百合祭』のシネマ&トークのイベントがあり、この入念に準備された素晴らしいイベントについては、稿を改めて報告するが、その一方でわたしの目を奪ったのが、中島公園と北海道大学キャンパス、それに旧北海道庁の、枝垂れ柳と睡蓮の花だった。
 かつて2001年の『百合祭』制作直後に、中島公園に隣接した渡辺淳一文学館で10日間に渡る自主上映を行なったが、その際に毎日公園を横切って通った。あの時も、わたしの目は枝垂れ柳の朦朧とした葉の集合に惹き付けられ、心騒いだものだった。



 改めて今回、中島公園の池に面した枝垂れ柳に見入ったのだが、正直なところ、この不思議な枝っぷりの樹木が柳であるとは、まるで思わなかった。わたしの知らない種類の樹に違いないと思い込んで、夢中でデジカメに向かったのだが、北海道大学のキャンパスを散歩していたら、ここにも同じ樹があって、名前が貼り付けられている。そこには「Salix babylonica 和名 sidareyanagi」とあった。なんだ、なんだ、やっぱり枝垂れ柳だったのか! わたしの知っている柳はもっと小さいので、ここまで大木になった柳は見たことがなかったのだろう。



 一方、睡蓮の花には最初、北大キャンパスで出会い、次に旧北海道庁「赤レンガ」の庭の池で、改めてじっくり向かい合った。ビデオカメラの液晶画面に映るピンクの睡蓮の花は、色が滲んだようになって、息を呑むぐらい美しいものだった。
 枝垂れ柳といい、睡蓮といい、北海道固有のものではなく、日本全国、どこにでも存在するものだが、わたしはなぜか今回、この二つによって札幌市の印象が刻印されたのだった。



 枝垂れ柳の魅力は、わたしには水海月にも共通した、曖昧でゆらゆらと霞むような形象にあるように思われる。このブログの冒頭に掲げた「木陰−影−あぶく−儚ー仄−微−なるたけそんなのが好い」という尾崎翠のフレーズに通じるような何か。
 「Salix babylonica」は「サリックス・バビロニカ」と読み、サリックスは、ケルト語の「sal(近い)+ lis(水)」が語源といわれる。バビロンという以上、イラクのチグリス・ユーフラテス河畔が原産地なのか。
 一方で、ラテン語の「salire(跳ぶ)」が語源で「生長が速い」の意という説もあるとか。



 一方、睡蓮は、英語で「Water lily」というらしい。『百合祭』の英語タイトル「リリィ・フェスティバル」に偶然近い。正式の学名は「Nymphaea colorata」。どう読むのか知らないが、「Nymphaea」は、水の女神である「Nympha(ニンファー)」と、「colorata」(彩色された)に由来するという。



「ももしきの 大宮人(ひと)の かづらける しだれ柳は 見れど飽かぬかも」
                           (万葉集)
「やはらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」 石川啄木

 ネットから孫引きしたが、万葉集の頃から歌人の心を、枝垂れ柳は騒がせたらしい。わたしにも歌人の心があったのか? まさか。



 睡蓮と蓮(ハス)は違うのだという。ハスは葉や花が水面から立ち上がるが、睡蓮は、葉も花も水面に浮かんだまま。もっとも、熱帯睡蓮という種類は、花が水面から立ち上がるらしい。



「道のべに 清水長るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」 西行
「田一枚 植て立去る 柳かな」 芭蕉

(同じくネットから孫引き)



 睡蓮は園芸上の呼び名で、和名は「ヒツジグサ(未草)」。ヒツジは時刻を表し「未の刻(午後 2 時)」に咲くといわれているが、実際は明るくなると開き,暗くなると閉じる。それで「眠るハス」になったのか?



 枝垂れ柳の原産地は中国で、奈良時代に渡来し、その後日本全土に植えられた。そういえば、中国の山水画に柳が描かれていたような、いないような。日本では言うまでもなく、幽霊の出没するポイントとして著名だったが、今時のお化けは学校のトイレあたりに現れるのか。



 ハスの葉っぱも、艶やかで、ひどくセクシーだと思う。わたしは、まるで「ハス・フェチ」になりそうな…


 
↓最後に、本ブログ定番の消火栓。札幌の消火栓は、みんな黄色だったが、北大キャンパスで見かけた消火栓には、大きな案内板(?)がついていて、何か可笑しかった。



*北大卒業者カップルを家族に持つ知友から「大きな標識は、積雪のためではないか」という指摘を受けた。なるほど! まさにその通りに違いない。支柱の丸いカーブも、強度を増すような気がする。降り積もった雪の中から、丸い標識が顔を出している景色を見てみたいと思った。


 鳥のような奇怪な顔貌をしたキース・キャラダインが、わたしに忘れ難いのは、アラン・ルドルフ監督とのかつてのコンビ作『トラブル・イン・マインド』や『チューズ・ミー』が強く脳裏に刻印されているせいだが、そのアラン・ルドルフの新作『セックス調査団』にはひどく失望せざるを得なかった。たまたま原作の『性に関する探究』(アンドレ・ブルトン編・野崎歓訳・白水社93年刊)を発行当時に読み、これを何とかピンク映画にでっち上げる方法はないものかとさんざん考えたものの、一部を借用するぐらいしか思いつかなかった。それをアラン・ルドルフが映画化したとあって、大いに期待したのだが、いささか低調な結果に終わったように見える。



 原作は、1920年代にブルトンがシュルレアリストを集め、セックスに関する率直な報告や討議を行った記録であり、エルンスト、アルトー、アラゴン、エリュアール、マン・レイといった、わたしには名前ぐらいしか知らない、著名な芸術家たちが参加している。しかし、奇抜さにおいて読者を驚倒させるような発言は案外少なく、当時はタブー破りの勇猛果敢な表明も、今では女性週刊誌のセックス記事より素朴な印象を与えることも確かだ。
 例えば冒頭の「男には女の快感がどの程度まで分かるか?」「男色をどう考えるか?」「オナニスムをどう思うか?」といった議論は微笑ましいぐらいであり、「どの部位に射精してみたいか?」に対する答でも「目の上・髪の中」「腋の下、乳房の間、腹の上」など、現代ニッポンのAVが、そうそうたるシュルレアリストたちの願望を実現していることが分かる。しかし、ニヤリとさせられる発言も多く、わたしの好みで言えば次のようなものだ。
プレヴェール「スリッパを履いている女を見るとセックスしたくなる」
ブルトン「剃毛していない女性器がまだ存在するとは、嘆かわしいことだ!」
ジェンバック「女がやって来て言うんだ。“素敵なネクタイしてるわね。あなたの逸物を吸いたいわ”」
ブルトン「(ペニスを)女の耳の穴でこすって楽しむというのはどうだろう?」
サドゥール「じゃあ鼻の穴は?」
ブルトン「男には玉二つの間にサオがあるのに、女の乳房の間にはどうして何もないのだろう?」
 等々。女性の参加者はきわめて少なく、男の側の性的ファンタジーの言いたい放題となっている面もあるが、男たちがクローゼットの奥の暗がりに仕舞い込んでいた性意識をあからさまにするところに、このディスカッションの意義があったのだろう。シュルレアリストだって、常人と懸け離れた性生活を送っていたわけではないのだ。「いつだって不十分な勃起ばかりなのだ」というアラゴンだけが、「これまでの議論の一切は、あまりにも男の側からの意見が勝ちすぎている」と指摘している。しかし「(不十分な勃起を)残念に思うかい?」とブルトンに聞かれたアラゴンが「他のあらゆる肉体的失望感についてと同じで、特別にではない。つまり、ピアノを持ち上げられないのが残念なのと同じように、ということさ」と答えているのが、可笑しい。



 意外なのは「愛」や「夢魔」について、あたかも実在するかのように誰もが発言していることで、わたしたちには馴染みの薄い「夢魔」は、アラン・ルドルフの映画のメイン・モチーフとなっている。夢魔には二種類あって「淫夢男精」が「睡眠中の女性を犯す男の悪魔」、「淫夢女精」が「睡眠中の男を誘惑する女の悪魔」。ブルトンは「夢魔は想像上のものではない。明確に定義できる夜の事件なんだ」と力強く断言する。しかし、エルンストの次の告白は可笑しい。
 「身体的にも、心理的にも、愛に関してのぼくの体質には合わない状況で射精するという事態になった。夢の中で男を犯し、快楽を感じる瞬間に目が覚めたんだ。自分の膝の上に着衣の男が乗っていて、しかもそれは、名前は言えないが、実際に知っている男だったんだよ。目が覚めても射精に至るまで続いたんだ。ところがそれが身体的にも、精神的にも、あらゆる点で吐き気を催すような人物なんだ」
 ブルトンによれば「淫夢男精が相手を誤ったようなものだな」ということになるが、このシュルレアリスムの領導者は、男色に対して、一部の例外を除いては好意的ではないようだ。
 アラン・ルドルフはこうしたバカげた(?)挿話に興味を示さない。舞台をパリから同時代のアメリカ東部の大学都市に移し、芸術家たちの性に関する討論を記録する速記係の若い女性二人を配して、物語を構成した。当然、性格の対照的な二人の女性と、男性参加者たちの微妙な心理的アヤが描かれるが、さらにこの討議のパトロンとして富豪役のニック・ノルティが登場してくる。
 この老いてセクシーなタフガイ・スターは、この映画のプロデューサーの一人でもあるのだが、ドラマの終盤、株で財産を失った富豪は、かつて少年時代に雌ロバと性交した経験を、真偽不明の半ば冗談のように語る。もちろん、原作には存在しないキャラクターであり、この雌ロバの挿話は、バルダンスペルジェ(今では何者か不明)が語っていた。彼が14歳で、雌ロバは2歳。
 「たいていはロバを車につないで森に連れて行ってから、装具を外してやるんだが、まるで誰かの服を脱がしているような気分をはっきり味わったものだよ。最初のうちロバはいつでも抵抗なしだったのが、後では盛りがついているときにしかやらせなくなった。こういう類の動物相手の性交は、田舎ではよく行われているものだよ」



 原作でもインパクトの強いエピソードだが、しかし今回アラン・ルドルフが採用したような、オーソドックスな物語化によってしか、この討論の記録は映画にならなかっただろうか? 二〇年代のアメリカの性意識がピンと来ないために、いっそうわたしには隔靴掻痒なのだろうが、耳の穴や鼻の穴でこする実験や、エルンストやバルダンスペルジェの愉快な経験を、もっと即物的に、ドキュメンタリータッチで描く方法はなかったろうか? わたしには心残りである。誰かわたしに再映画化させてくれる、寛大な資本家はいないだろうか。
<04年12月。『レモンクラブ』(日本出版社)掲載>

*映画の公開に合わせたのか、04年に『性についての探求』と改題新装版が、同じ白水社から刊行された。しかし、本当に改題されるべきだったのは『セックス調査団』という、意図不明の映画のタイトルの方だったのでは?



 男の体臭の原因物質を、ライオンの研究所が特定したという記事を読んだ。主に腋から分泌されるアンドロステノンという物質で、ほとんどの女はその臭いを嫌がるのに対し、男はこの臭いを嗅ぐとリラックスしたり、リフレッシュしたりするというのだが、これはしかし本当か? 男の臭いで性的興奮をかきたてられる女はいそうだし、男の臭いでリフレッシュする男が、そういるとは思われない。しかし、ライオンだって大金かけて研究開発しているのだから、統計的には合っているのだろう。男のリラックスやリフレッシュは、自分の体臭に限定すれば当てはまるかも知れない。自分の臭いを嗅いでみることは、わたしもしばしばある。



 この記事に興味を惹かれたのは、かつて薔薇族映画(ゲイ向け専門のピンク映画)を撮り始めた頃、最終日に集団乱交シーンを徹夜で撮影し、朝方ようやくアップしたのだが、ふと気づいてみるとスタジオの空気が異様なにおいに充満していたのを思い出したからだ。裸の役者たちはもちろん、着衣のスタッフもみな男で、十数人の男たちが徹夜で悪戦苦闘しながら体内から分泌した、それは紛れもない男の匂い=臭いだった。
 わたしはすっかり明るくなったベランダに出て、朝の新鮮な空気を思い切り吸いながら、あのスタジオに満ち溢れていた尋常ならざる動物の精気のような生温かいニオイは何だろうと考えた。決して厭な臭いではなかったが、仲間たちの集団的な匂いであり、間違いなく自分もその発生源のひとつだから嫌悪感を持たないので、例えば電車の中で見知らぬオヤジに嗅がされたら、相当不快なものだろうと思った。あれが、今回特定されたアンドロステノンだったのだ。



 わたしはピンク映画以上に薔薇族の撮影が好きで、一年に一本ぐらい廻ってくるのを楽しみにしているのだが、ネタ本のひとつに『本朝男色考 男色文献書誌(合本)』(原書房)がある。帯に「日本男色史の名著」とあるが『日本書紀』から始まる記述は相当専門的で、古文に弱いわたしが通読するにはいささかハードルが高い。しかし、光源氏と美少年の「情交」や、平安時代の法皇、室町時代の足利将軍の「男色生活」を拾い読みするのは結構楽しいものだ。
 俗説として、日本の男色は空海によって平安初期に唐からもたらされ、僧侶の間で流行したものが民間にも広がったと言われていたが、本書によれば「本朝男色の起源」は「日本書紀」に遡るという。皇后が昼間でも夜のように暗い土地を通りかかり、何故なのか古老に尋ねたところ、かつて「うるはしき友」である二人の神官(男同士)がいて、その一方が病気で死んだ。それを悲しんだ残された方が、死体に寄り添って心中し、二人の遺体は同じ墓穴に葬られたが、以来その付近は陽がささず、夜のように暗い。「男色の罪が神の忌むところとなった」せいだという。
 嘆き悲しむ男の「何ぞ死して穴を同じくすること無からんや」という述懐が「穴=アナル」を連想させて、現代人には愉快だが、著者が「旧約聖書にあるソドムの贖罪」と比較しているように、日本の古代においても男色は神の摂理に反逆する行為だったようだ。
『本朝男色考』はここから始まって、室町時代で終わっているが、しおりの江戸川乱歩の解説によれば、著者の岩田準一は孫引きを一切せず、すべて原典に当たっているので、時代を下るにつれて急増する資料は膨大であり、日本敗戦の年に四十代半ばで病死した著者に時間がなかったこと、連載していた雑誌『犯罪科学』が廃刊になったことなどが、中断の原因だという。
 しかし、本書に収録された「かげま奇談」「稚児伝説」「男色心中論」といったエッセイには、著者の悠々たる男色の教養があふれ、わたしは芭蕉にゲイ説があることを初めて知った。少年時代に主君に「稚児小姓」として愛されたことは多くの人が知るところだそうだが、それに対し岩田は芭蕉が俳人として一家を成した後、中年の頃に一緒に吉野旅行などした若い友人、坪井杜国が「同性の愛友」だったと指摘し、句や日記から丁寧に引用して、説得力がある。



 いったい岩田準一という人はどういう人だったのか検索してみたら、孫娘が小説家になって、祖父と乱歩の「同性の愛友」関係を妖しい作品に仕立ているのだとか。『二青年図‐乱歩と岩田準一』(岩田準子著・新潮社・02年刊)がそれで、アマゾンのレビューを読むと、読者の多くが乱歩ファンのせいか、いずれも半信半疑、胡乱なまなざしを投げかけている。岩田が男色家なら、何故孫娘がいるのだという指摘もあったが、「オカマの東郷健」(選挙のキャッチフレーズ)にだって娘はいるのだ。
 しかし、しおりに収録された乱歩の、えらく熱意あふれる回想や、岩田の著作を何とか世に出したい持続的な努力などは、二人の「愛友関係」を背景にすれば諒解しやすい。わたしは経済困窮の折りながら、思わず孫娘の小説(ノンフィクションではない)をアマゾンで注文してしまった。

<04年11月。『レモンクラブ』(日本出版社)掲載>

*その後読了した岩田準子さんの『二青年図‐乱歩と岩田準一』は、孫娘による祖父をモデルにした大胆な耽美小説で、わたしはいささか茫然としてしまいました。故郷の岩田準一記念館の館長さんも務められているようです。


 パラリンピックの選手と競技を紹介するNHKの番組を見ていたら、昔読んだ『ドクター・アダー』というSFを思い出した。病気や怪我でもないのに、任意の手足を切断する手術を施す、闇の外科医が主人公。手術を受けるのは娼婦たちで、近未来のその社会では、肢体を切断した女性が性交の対象として、高級かつ大モテなのだった。
 熱に浮かされたような毒々しい小説だったが、ストーリーはあらかた忘れた。検索してみると、作者はK・W・ジーター(黒丸尚訳・ハヤカワ文庫)。90年に刊行され、現在は「出版社品切れ、重版未定」になっている。訳者も、すでに亡くなっていた。原作の執筆は72年だが、さすが米でもヤバすぎてか、出版されたのが84年だった。



 すっかり失念していたが、女性器の内側に生えた鋭い歯で、挿入した陰茎が食いちぎられるエピソードもあるとか。わたしは、これをテーマにピンク映画を撮ったことがあるが、元ネタはこの小説にあったのだ。自分では『現代セクソロジー辞典』(R・M・ゴールデンソン&K・N・アンダーソン著・大修館書店)から仕入れた知識のつもりでいたのだが。
 外科手術による人工フリークスの創造という設定は、意表を突くものだが、この辞典によれば(恐るべきことに)発想それ自体は奇抜なものではない。「肢切断嗜好」「肢切断フェチシズム」「肢切断志向」「単脚マニア・単脚愛好症」といった項目が、随所にある。この中で「肢切断志向」だけが「自分を肢(手足)切断された者と空想することによる性的満足」で、他は「一つあるいは幾つかの肢が切断されているパートナーからの刺激によって性的満足が得られるタイプのフェチシズム」だ。
 特に男女の別はないが、「単脚マニア」だけ「一本足のパートナー(通常は女性)と性交することに満足を求める性的変種の一つ」と、主に男の欲望であると指定している。これには何か意味があるのか、どうか? 従来、欲望の主体は男だったので、おそらく四肢切断フェチの担い手は男だったろう。悪夢のような未来の、ドクター・アダーの世界でも、それは変わらない。しかし、自分がそうであることを空想する「肢切断志向」だけは、どこか女性的マゾヒズムを感じさせるが、しかし、いまや男女を問わず、この手の「痛い」フェチが登場しておかしくない時代になった。



「単脚マニア」の項では「この種のフェチシズムは広く一般的であり、またわれわれの時代に限られてもいない」という。その例として紹介されているのが、400年前にモンテーニュが書いたという次の一文だ。
「イタリアのよく知られている諺に、びっこの女性と寝なかった者はヴィーナスの完璧な快楽を知らない、というのがある」(『随想録』、掘■i)(原文のまま)
 もっとも「イタリアの諺」というのがクセ者。この辞典でも「イタリアン・カルチャー」は「肛門性交」のことで、シェークスピアは「イタリアン・ハビット」と婉曲表現したとか。また「イタリアン・レター」は俗語でコンドームを指すなど、イタリアが冠されると(ことセックス方面に関する限り)信憑性に問題がある。
 また、四肢の切断と跛行女性とのセックスの問題は、多少ズレルのではないか。わたしもかつてエロ本で、跛行女性の筋肉が「こなれている」という、かなり下劣な好色表現を読んだことがあった。イタリアの諺は、これのヨーロッパ・バージョンだろう。確かに男の卑しい欲望は、洋の東西を問わない。
 こうした歴史的差別に基づく欲情の暗さに比べれば、ドクター・アダーの四肢切断は、サイバーパンクの身体の改変=サイボーグ化につながるもので、未来的な晴朗さを備えていないでもない。



 女性器の中に鋭い歯が生えているという「ヴァギナ・デンタータ」は、精神分析の用語で、原語がラテン語の「歯のある膣」だという。歴史的かつ学術的な概念らしい。四肢切断の酷薄な攻撃性に比べれば、歴史の彼方から男たちの悲鳴が聞こえてくるようだ。この辞典によれば「意識的よりも無意識的な空想」「男性では去勢不安に基づいていると信じられ、女性では男根羨望と、復讐行為としてその男を去勢したいという欲求に発すると信じられている」。
 いちいち「信じられ」と付け加えているのは、著者が精神分析に距離を置く表明かも知れない。確かに男の優位性がペニスにあり、それを脅かすのが去勢不安という通俗精神分析には飽き飽きした。わたしのピンク映画では、剣道少女が自分の内部には歯が生えているという幻想を抱き、邪な欲望を抱く師匠の陰茎を食いちぎって、もう一人の別な幻想を持つ女とレズビアン関係になる。例によって例のごとき展開だが、もう一方の女の幻想が何であったか忘れてしまった。思いつきでシナリオを作るので、撮るそばから忘れていく。
 この撮影の際に「歯のある膣」の内部を、当時助監督だった加藤義一クン(現在は大蔵映画の人気監督)が作ったが、チープきわまる工作の中で、彼が子供時代に海で親に買ってもらった、サメの子の歯の標本が使用されていたのが笑えた。この映画の最大の見どころだったかも知れない。



<04年9月。『レモンクラブ』(日本出版社)掲載>


 宇宙にはオルガスムのエネルギーが満ちていて、それを体内に注入してセックスすれば、変態も神経症も治って、健康になる! 怪しいカルトみたいだが、フロイトの弟子で、嘱望された精神分析医だったウィルヘルム・ライヒが、最後に行き着いたオルゴン(=オルガスム)・エネルギー理論だ。



 今回、浜野佐知組のピンク映画で、2本連作という企画があり、脚本担当のわたしが思いついたのが、ライヒをぱくった『TOKYOオルゴン研究所』(仮題)だった。連作といっても、地方の映画館でどちらが先にかかっても、楽しんで観れることが条件。続き物ではなく、しかし独立したストーリーにすると連作の旨みがなくなる。
 同じ舞台で、共通したキャストや小道具を使いまわすためには、セックス・セラピーをメインにし、変態どもを集め、オムニバス風にするのがいいのではないか。これなら制作費を安く上げて、セックスシーンもふんだんに登場する。
 オーストリア生まれのライヒは、実に破天荒な人生を送った。精神分析とマルクス主義の融合を試みて独自の活動を展開し、結局フロイトからも共産党からも除名される。そしてナチに追われ、アメリカに亡命して、オルゴン・エネルギー理論を打ち立てた。
 宇宙エネルギーを集める金属のボックスを作って販売し、性の解放を広めようとするが、たちまち弾圧を食らって逮捕され、著書は焼かれた。50年代のアメリカで、焚書坑儒が現実にあったのだ。精神病院と刑務所にぶち込まれ、裁判中に獄死する。
 トンデモ科学者の一生みたいだが、わたしの学生時代の70年前後に代表作『性と文化の革命』(中尾ハジメ訳、勁草書房刊)が一部で人気になったことは覚えている。読まなかったが、新左翼の理屈と、ヒッピーのフリーセックスが野合したような印象だった。
 ところが七、八年前に、ドゥシャン・マカヴェイエフという妙な監督の『WR:オルガニズムの神秘』という、半分ドキュメント、半分ドラマという、これまた妙な映画を見て、ライヒがアメリカで獄死したことを知った。それで俄然興味を持ったのだが、この映画は71年に製作され「WR」とはウィルヘルム・ライヒの略だ。



 実は、わたしの監督作で一度ライヒを取り上げているのだが、その時は電話ボックス型のオルゴン・ボックスを作ることに全精力を傾け、撮影時にはすっかり疲れ切って何を撮ったか良く覚えていないのだ。現在は大蔵映画の監督である国沢実君が助監督だったが、彼がまったく不器用で、東宝日曜大工センターで買ってきた角材や板を前に悪戦苦闘している。
 やむを得ずわたしも一緒になって組み立てたのだが、一枚板に長方形の覗き窓をくり抜くのには苦労した。また、内側と外側にメタリックな素材を貼り付け、宇宙エネルギーを集める装置らしく見せるのも大変な作業で、往生した。
 今回はその代わりに、簡便にエネルギーをキャッチできるオルゴン・キャップを考案したが、監督に「オウム真理教みたいだ」と、あっさり却下された。言われて気がついたが、確かにオウムの子供たちも妙な帽子をかぶせられていた。麻原彰晃と一緒にされたらライヒも悲しいだろうが、現象だけ見れば似たようなものかも知れない。
 前回は、古本屋に行ってライヒの著書を探すのも面倒だったので、もっぱらマカヴェイエフの映画をネタにしたが、今回の浜野組ではネットの古書店を活用し、著書を取り寄せた。代表作はやはり『性と文化の革命』なのだが、太平出版社から全8巻の著作集が出ていた。すべて70年前後の出版で、その後は途絶えたまま、今日に至っている。世界中のどこの国でも似たようなものだろうが。
 著作集の中に『きけ小人物よ!』(片桐ユズル訳)という一巻があった。なんという愉快なタイトルだろう。精神分析からも、共産党からも破門され、ナチに追われて、自由の国アメリカに渡りながら、弾圧され獄死するライヒにこそ相応しい叫びではないか。
 原題は『リッスン・リトルマン!』。そのままだ。しかし、怒りや呪いの言葉ではなく、冷静な筆致で綴られている。「わたし」は長年、精神分析医として、マルクス主義者として、またオルガスム理論の創始者として「あなた」たちを解放しようとしてきた、しかし「あなた」たちは「わたし」の前で泣きながら、結局は権力者にひざまずき、奴隷の自由を選ぶ。
「小人物よ。あなたは何千年も指導と忠告をされてきた。あなたがいまだに不幸なのは忠告が悪かったせいではなくて、あなた自身のつまらなさのせいなのだ」
 こんなことが書かれてある本を、いったいどんな人が買ったのか興味深いが、誰も買わなかったのだろう。「小人物よ!」などと呼びかけられて、嬉しい読者なんてどこにもいない。さて、今回の浜野組だが、変態とフェチのオンパレードで、普通のセックスが出てこないのだ。これで良かったのか?



<04年10月。『レモンクラブ』(日本出版社)掲載>