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「この結果に興奮した彼は、行きつけの八百屋に行き、野菜のなかで一番ぼんやりとして無感覚そうに見えるニンジンとカブを一袋買ってきた。ところがニンジンもカブも、非常に敏感であることがわかった。」

 これだけ読むと、何のことだか分らない、だけでなく、新種の野菜ポルノでも始まるような気配だが、『植物の神秘生活』(ピーター・トムプキンズ+クリストファー・バード著。新井昭廣訳。1987年工作社刊)という、奇態な本の一節である。3800円もする、分厚い本を、窮乏せるわたしが、なぜアマゾンで購入し、到着するやいなや、飛びつくようにページをめくったかと言えば、発端はソーシャル・ネットワーキングサイト「mixi」にあった。
 昨年、10月15日の当ブログでも書いたように、わたしは「mixi」で「清輝・断簡零墨、片言隻句」という、いささか大時代的な名称の「コミュニティ」を作り、当初は一日も欠かさず、正月以降の最近は、飛び飛びになりながらも、花田清輝のフレーズを、思いつくままに拾い出してきて、せっせと書き込んでいるのだが、11月中旬に、以下のような引用と記事を書いた。

05年11月13日
「どうしてかれらは、生物にだけ意識の存在をみとめ、無生物にはみとめないのであろうか。J・C・ボースの実験によれば、鉱物もまた動物や植物と同様、クロロフォルムに酔い、カフェインに興奮し、毒物をあたえると断末魔の苦しみを示すというではないか。しからば必ずしも大理石――鉱物学的に厳密を期するなら、それぞれの方向を異にする物理的性質をもつ、無数の方解石の集合体にほかならない大理石に、意識がないとは断言できないではないか。」〜「ドンファン論」1949年『人間』。『アヴァンギャルド芸術』1954年未来社刊所収。

 ここで花田がいう「意識がないとは断言できない」大理石とは、モリエール作の『ドンファン』で、ドンファンを夕食に招待し、死に至らしめた「大理石の立像」を指します。花田にとって、モリエールの、大理石男とドンファンの関係の描き方は、大いに不満足でしたが、少なくともモリエールは、石に意識のあることを疑ってはいません。おそらく、石像に、セリフを喋らせているのでしょうから。しかし、世の中には、石に意識なんかあるわけがないという「モリエール以上に常識的な人々」が、どっさりいるので、それに対して花田は、引用箇所のような批判と説得(?)を試みています。
 しかし、J・C・ボースって、いったい、誰なのでしょう。誰も知らないような科学者の実験を持ち出してきて「毒物を与えられた鉱物が断末魔の苦しみを示した」といっても、説得される人があるでしょうか。こうした人を食ったスタイルが、わたしたちファンにはたまらなく可笑しく、多くの人には、どうも信用できない印象を与えるのだと思われます。
 動物・植物・鉱物、という、世界の構成は、花田の好みのようで、安吾論のタイトルにもなっていますが、鉱物が一番エライ! というのが花田式です。




 ここで、わたしが「誰も知らないような科学者」と書いた、J・C・ボースを知っている人が、現実にいたのだ。それも、清輝毎日引用のコミュへの参加者がなく、存続に危機感をいだいたわたしが、最初に「mixi」に招待した、Yummyさんなのである。E・L・カニグズバーグの日本語訳に疑問を唱え、徒手空拳で、権威主義の老舗、岩波書店を動かし、改訳を見事、実現させた人だ。旧知の方ではあるが、これまで、そんな話は、お互いにしたことがなかった。そのYummyさんから、「それはインドの科学者、J・C・ボース卿(Sir. Jagadish Chandra Bose)のことで、かつて工作社から出た『植物の神秘生活』で、言及されている」というお知らせを受けたのだ。自分の無知を棚に上げて、「誰も知らない」とは、また恥の上塗りであり、わたしが慌てて、アマゾンに注文したことは言うまでもない。
 全21章にわたって、植物の宇宙的な生命現象に関する、広範なニューサイエンス的研究を渉猟したこの本で、ジャガディス・チャンドラ・ボースは、丸ごと一章捧げられている大物科学者だった。1848年(1858年のような記述もある)ベンガルに生まれたボースは、インドの大学を卒業した後、イギリスに渡り、クライスト・カレッジやケンブリッジ大学で学び、ロンドン大学で物理学の学士号を取得。当時、インド随一の大学、カルカッタのプレジデンシイ・カレッジの教授になる。
 当初は電波の研究をし、無線の発明者とされるマルコーニより先に、実験に成功していた。ボースの業績は、イギリスでは高く評価されたが、故国インドでは妨害されることが多く、そんな彼を慰めたのは、後にノーベル文学賞を受けた詩人、ラビンドラナート・タゴールだけだったという。そして、1899年、ボースは電波受信用に使っていた金属が「連続的に使うと感度が鈍り、しばらく休ませておくと正常に戻るという奇妙な事実」に気づいた。さあ、ここからが、いよいよ花田のエッセイにつながっていく、ボースの鉱物研究の始まりだ。



 ボースは考えた。金属も、疲れた動物や人間と同じように、疲労から回復する。ということは、「生命のない」金属と「生命のある」有機体との境界線は、実際は、それほどハッキリしたものではなく、それは連続しているのではないか。磁気を帯びた酸化鉄と、動物の筋肉を比較実験すると、両方とも激しい活動によって反応力と回復力が減少し、「その結果生じた疲労は、やさしくマッサージしてやったり、温泉の入った浴槽に入れてやると、取り除くことができたのである」。マッサージや温泉で、疲れを癒す酸化鉄!
 今では、金属疲労といった用語も日常化し、バッテリーが「ヘタル」(疲労困憊する)ので、使用法や充電に配慮するといったこともあるが、それとボースの研究が、関係あるのかどうか、門外漢のわたしには、さっぱり不明だ。しかし、酸でエッチングした金属の表面を磨いて、エッチングの痕跡をきれいに除去しても、酸で処理された部分が特別な反応を示すのは、「酸で侵された部分には、ある種の記憶が残っているせいだ」と考えたところに、ボースの、飛びぬけた独自性がある。記憶するのは、人間だけではない、金属もまた記憶する、というわけだ。
 酸化鉄に限らず、他の金属も動物に似た反応を示し、ボースは1900年のパリ博覧会で開催された国際物理学大会で「無機物と生物に関して電気により産み出される分子現象の共通性について」という発表を行い、一大センセーションを巻き起こした。物理学者は熱狂し、生理学者は冷淡に無視しようとしたという。
 そこで、ボースは生理学者を説得するために、彼らの前で実験を行い、「筋肉と金属の両方が、疲労や刺激剤、活力低下剤、毒薬の影響に対して類似の反応曲線を示す」ことを証明してみせた。それでも、生理学者たちは納得しなかったが、花田が「ドンファン論」で引用している、「毒物で断末魔の苦悶を示す鉱物」とは、おそらくボースの、このあたりの実験なのだろう。



 ボースはこの後、金属と動物の間に、これだけの連続性が見られる以上、植物でも同じような結果が得られるはずだと、植物の研究にのめり込んでいく。冒頭の、八百屋のニンジンとカブのエピソードも、実は、この頃のもので、最初は実験室の隣の庭の、マロニエの葉で実験してみると、葉っぱも金属も、動物の筋肉も、「ほとんど同じ仕方で、さまざまの『打撃』(ブロー)に反応することがわかった」。そこで、興奮したボースは、行きつけの八百屋に走ったわけだが、どうしてニンジンとカブが、「野菜のなかで一番ぼんやりして無感覚そうに」見えたか、そこが日本人のわたしには不思議でならない。どちらも心やさしく、繊細そうではないか。むしろ大根なんかの方が鈍そうに思えるが、いずれも根菜類であるところに、人間の勝手なイメージづけがありそうだ。
 ボースの、植物の生体実験は続き、麻酔薬のクロロフォルムを嗅がせてみると、植物も動物と同じように麻酔にかかって昏睡し、新鮮な空気を送ってやると蘇生する。ボースは、大きな松の木にクロロフォルムを使い(注射したのか?)、麻酔状態のまま「根こぎにして移植」したところ、通常見られる致命的なショック状態に陥らず、松の木は枯れることなく移植に成功した。人間の手術の際の全身麻酔と同じで、昏睡していた松の木は、移植された後に、無事に意識を取り戻したに違いない。
 おそらくボースの論文を、原文か翻訳か知らないが、読了していた花田の書いている通り、カフェインも実際に試してみて、キャベツやトマトが興奮し、寝付けなかったりしたことも、きっとあったのだろう。こうしたボースの実験を見ていると、わたしたち尾崎翠の読者は、いやでも小野二助の研究論文「肥料の熱度による植物の恋情の変化」(肥やしの温度が、植物の発情に与える影響の実験)(「第七官界彷徨」)や、松木博士の「樹につながれた豚の鼻先が、白いパンに向かって伸びる実験」(「地下室アントンの一夜」)などを思い出さないわけにはいかない。
 ボースの実験が、生命の連続性をいうわりに、「打撃」(ブロー)を加えたり、クロロフォルムを嗅がせたり、西洋医学的であるのに対し、尾崎翠の登場人物たちの試みる実験は、被験植物や被験動物と、実験者の間に、亜細亜的な心やさしい共棲感覚が働いているように見える。しかし、ボースの実験を媒介に、花田と尾崎翠をつなぐ前に、花田テーゼのなかで大きな位置を占める鉱物に関して(砂漠論なども、その白眉である)、その位置づけを押さえておきたい。

05年11月15日
「ルネッサンス以来、ヨーロッパでは、生命のあるものを極度に尊重する傾向があり、鉱物よりも植物が、植物よりも動物が――殊に動物のなかでは人間が、一段とすぐれたもののようにみなされてきたようだが、むろんこれは人間的な、あまりにも人間的な物の見方であり、近代の超克は、われわれが、こういう人間中心主義を清算し、無生物にはげしい関心をもち、むしろ、鉱物中心主義に転向しないかぎり、とうてい、実現の見込みはなかろう。ヒュームは二十世紀芸術の特徴を、生命的・有機的なものから、幾何学的・無機的なものへの移行に求めたが、要するに、これは、新しい芸術家の視線が、動物や植物よりも、主として鉱物にむかってそそがれているということだ。鉱物の結晶のするどい幾何学的な直線に、動物や植物の曖昧な曲線よりも、はるかに魅力のあることは否定しがたい。わたしはドン・ファンを、このような鉱物の魅力に憑かれていた、われわれの先駆者の一人だったと考える。」〜「ドンファン論」1949年『人間』。『アヴァンギャルド芸術』1954年未来社刊所収。



 さて、Yummyさんのご教示を受け、慌てて注文した『植物の神秘生活』だったが、実は大枚3800円を支払って(ぼくも、クドイね。実は、20年ほど前の本なので、定価としては安い! 今なら平気で5〜6千円するだろう)購入したのは、インターネットで目次を検索したところ、ボース同様に、もうひとつ気になる名前を見つけたからだった。それが、「ヤコブ・ベーメ」で、以下は、やはり「清輝・断簡零墨、片言隻句」に引用したものだ。(今回の文脈上、一部加筆し、一部カット)

05年11月19日
「学校の書庫の入り口には、ここは幾多の学者の魂のさまよっているところだから脱帽をしてはいられたい、という意味の奇妙な札がかかっていたが、やれやれ、やっと解放されたともおもわないで、死後もなお、書物に執念をのこしているのがアカデミシャンというものであろうか。わたしはそういう魂にあまり敬意を感じなかったので一度も脱帽したことはなかった。しかし、その書庫から、ヤーコブ・ベーメだとかマイスター・エックハルトだとか、ドウンス・スコトウスだとか、一見、なにが書いてあるのだかさっぱりわからないような本を借り出してさかんに読みふけった。
 むろん、わたしは神秘主義に心をひかれていたわけではない。プラーグの大学生のように、ひとりぼっちで、貧乏で、自分の影さえ手ばなさねばならないような窮境にあったわたしは、それらの書物をデータにつかって、一篇の読物をでっちあげ、前途を打開したいと考えたのだ。すべてはわたしの計画通りにはこんだ。作品は週刊誌に発表され、ほぼ一年間のわたしの生活を保証したが、しかし、わたしは、もう二度と、そんなくだらない物語を書こうとはおもわなかった。まさしくプラーグの大学生と同様、わたしもまた、自分の影を悪魔に売りわたしたような気がしたのだ。」〜「読書的自叙伝」初出未詳。『乱世をいかに生きるか』1957年山内書店刊所収。

 博引傍証の花田の文章に登場する、膨大な人名や書名は、最初から分らないものとして読み過ごしていることが多いのですが、「読書的自叙伝」の「ヤーコブ・ベーメ」は、以前から気になっていました。先ほど、アマゾンから本が届き、長年の疑問が氷解したところです。Yummyさん、改めて、有り難う。

 ここで語られている、神秘主義者の難しい書物をデータにつかって「でっちあげた一篇の読物」というのが、1931年『サンデー毎日』懸賞小説の「大衆文芸」入選作の小説『七』だ。花田は「くだらない物語」というが、「七」という数字にとり憑かれたドイツ人研究者、ペーテル・ペーテルゼンの運命を描いて、かなり高踏的なものである。そして、ペーテルの心のなかで「七」が特別な位置を占めるのは、どうやら「中世のあの難解な哲学者、ヤーコブ・ベーメに対する彼の深い研究と愛の故で」あるらしい。
 これのどこが「大衆文芸」だったのか、大正や昭和初期の時代の雰囲気には、今の常識では分りにくく、魅力的なものを感じるが、それでは『植物の神秘生活』では、「ヤコブ・ベーメ」はどのように語られているか。
 ベーメが登場する章の中心人物は、IBMの研究員で、1970年代に、人間と植物の心の交流を、科学的に実験したマルセル・ヴォーゲルだ。彼は、植物とコミュニケーションし「歓喜と充足に満ちあふれた恋人同士のよう」な関係になれたという。そしてヴォーゲルは、次のように考えた。植物と人間が親しく交わるときには、両者のエネルギー交換、いや混合ないし融合さえ生じる。感受性の異常に鋭い人なら、植物の中へ入り込むことだって、できるのではないか?
 そこで、ヴォーゲルが想起したのが、「若い頃インスピレーションを受け、別の次元でものを見ることができるようになったと述べた」「16世紀ドイツの神秘主義者ヤコブ・ベーメ」だった。

「ベーメは、一本の発育盛りの植物を見つめていて突然、自ら意志してその植物に混ざり、その植物の部分となり、植物の生命が『光に向かってもがいている』のを感じることができたと語っている。彼はその植物の無邪気な望みを共有し、『楽しげに伸びて行く葉と喜びを分かち』合うことができたと言う。」(『植物の神秘生活』)



 そして、実際にヴォーゲルは、デビー・サップという「もの静かで控えめな少女」を実験台に、彼女が植物の内部に入り込むことに成功したというのだが、残念ながら、この『植物の神秘生活』は、植物の世界がテーマなので、ベーメに関しては、若き日の神秘体験が紹介されているだけで、例えば花田のペーテル・ペーテルゼンのように、数字の神秘を信奉していたというような話題は出てこない。試みに、『七』の一部を引用しておこう。

「僕等は人生の中で常に何かを求めている。何かを? その何かは、僕等には謎なんだ。それはたった一つの言葉だ。たった一つの数だ。一つの心理だ。(中略)僕は思う。人生の調和(ハルモニア)も、釣合(シンメトリア)も、かかって七という一つの数字に尽きる、と。だがね。僕はもっと確かめたいんだ。もっとはっきり知りたいんだ。」(「七」1931年。ペンネーム小杉雄二。単行本収録は、1959年『泥棒論語』未来社刊)

 花田清輝、22歳。後年の老獪きわまる文体とは異なる、瑞々しい文章が、ここにはあるが、わたしたち、尾崎翠の愛読者が注目するのは、翠が「第七官界彷徨」を発表したのが、奇しくも同じ1931年で、いずれも「七」という数字がキーワードになっているという暗合であり、この不思議なシンクロニシティーについては、以前、映画『尾崎翠を探して・第七官界彷徨』のパンフレットに書いたとおりだ。(拙文「お散歩、漫想家の領土を」。時に、尾崎翠、34歳)。
 しかし、今回、わたしたちは、花田が京都で、孤独のうちに親しんだヤーコブ・ベーメが、伸びゆく植物の内部に入り込み、葉っぱと無邪気な喜びを共有できたと語っていることを知り、ここでもまた、同時期に東京で書かれた「第七官界彷徨」の、次のような愉快な寝起きの問答を、思い起こさないわけにはいかない。

一助「人間が恋愛する以上は、蘚が恋愛しないはずはないね。人類の恋愛は蘚苔類からの遺伝だといつていいくらゐだ。(中略)その証拠には、みろ、人類が昼寝のさめぎわなどに、ふつと蘚の心に還ることがあるだろう。じめじめした沼地に張りついたやうな、身うごきのならないやうな、妙な心理だ。(後略)」
二助「蘚になった夢なら僕なんかしょつちゅうみるね。珍しくないよ。しかし、僕なんかの夢はべつに分裂心理学の法則に当てはまってゐないやうだ」(中略)
一助「その患者は僕に対してただにだまってゐて、隠蔽性分裂の傾向をそつくり備へてゐるんだ。これは、よほど多分に太古の蘚苔類の性情を遺伝されてゐるにちがひない。(後略)」
二助「平気だよ。種がへりしたんだ。僕は動物や人間の種がヘリの方はよく知らないが、なんでも、いつか、何処かで、尻尾をそなへた人間が生まれたといふじゃないか。医者がその尻尾をしらべてみたら、これはまったく狐の尻尾であつて、これは人間が進化論のコオスを逆にいつたんだといふ。じつにうなづけるじゃないか。人間が狐に種がへる以上は、人間の心理が蘚に種がへるのも平気だよ」(尾崎翠「第七官界彷徨」。1931年『文学党員』&『新興芸術研究2』。1933年『第七官界彷徨』啓松堂刊)



 尾崎翠は「『第七官界彷徨』の構図その他」で、この問答を指し、「遠いみなもとをフロイドに発してゐるものです」と書いているが、それは主に、翠が独自に練り上げた「分裂心理学」にかかわる部分である。蘚苔類への同一化や、「種がへり」については、花田と同じように、神秘派「ヤーコブ・ベーメ」を読んでいなかったとは限らないし、ましてJ・C・ボースは、この問答で援用されている進化論の始祖チャールズ・ダーウィンの息子、フランシス・ダーウィンに、クライスト・カレッジで教わっているうえ(あんまり関係ないか)、1929年にヨーロッパに戻った時には、賛辞と非難の渦巻くなか、ロマン・ロランが出たばかりの『ジャン・クリストフ』を、ボースに謹呈している。その献辞は「新世界の顕示者へ」だった。今でこそ、知られていないが、当時は、植物の世界と人間の世界との間に架橋する、異端の科学者として、一部で著名だった可能性もないではない。
 当時の時代の雰囲気を知りたいと思うが、論理で日本的な状況に風穴を開けた、若き日の花田と、感覚で「第七官界」という未知の世界を探索した翠が、一見、好対照に見えながら、人間中心主義からの脱却という点で、そうとう類縁性の高い、精神的なポジションにあったことは、間違いないと思われる。ついでながら、やたら貧乏で、ひどく孤独、という共通項も、二人にはあった。
 花田の「七」の語り手である、日本人の、若くて、友達のいない、男の哲学教師が、大学の書庫の奥で、埃をかぶっていた、ペーテル・ペーテルゼンの著書に出会って、ボンへの留学を思い立ったように、翠の「こほろぎ嬢」の、人間嫌いで、粉薬の中毒患者である女主人公は、古ぼけた図書館の隅で、まことに「影の薄い詩人」である、アイルランドの「ゐりあむ・しやあぷ氏&ふいおな・まくろおど嬢」に出会い、恋をした。この二人は、精神的に恋仲であると同時に、肉体的には同一人物であるが、花田と翠の軌跡は、時に驚くような近似値を示すことがある。
 ペーテル・ペーテルゼンは、ギリシャのピタゴラス学徒についての研究書を一冊書いただけで、その後、何も書けなくなってしまったが、作家としての尾崎翠もまた、「こほろぎ嬢」を含む連作を書いた後、文学の世界から、ふっと姿を消した。若き日の花田は、「七」の、孤独な哲学教師が、誰も読まないペーテルの本に出会って、すっかり魅惑されたのと、まったく同じ式で、翠の「第七官界彷徨」に出会ったのではないだろうか。
 後に花田は、翠の作品の読後感を回想して、次のように書き、翠再評価の狼煙となったが、今回、J・C・ボースからヤーコブ・ベーメと、花田と翠の境界領域をたどってみると、尾崎翠読者には、よく知られた、このフレーズに込められた、花田式の乾燥した「哀しみ」が、これまでよりは、多少は深く、理解できたような気になってくるようである。

05年11月19日
「これは、ここだけの話ですが、今でもわたしは、ときどき、いっそひとおもいに、植物に変形してしまおうかと考えることがあります。そして、そんなとき、きまってわたしの記憶の底からよみがえってくるのは、尾崎翠の『第七官界彷徨』という小説です。十代のおわりに読んだきりですが、そのなかに描かれていた苔の恋愛のくだりなどはすばらしくきれいでした。したがって、かの女は、相当、ながいあいだ、わたしのミューズでしたが、その後、風のたよりにきいたところによると、気がくるってしまったということです。」「ブラームスはお好き」1960年。新鋭文学叢書2『安部公房集』解説。『恥部の思想』1965年講談社間所収。


(なお、「十代のおわり」というのは、実際には「二十代のはじめ」であり、花田の記憶違いですが、年長の「天才」(花田「旧人発見」)女性作家への憧憬、共感としては、「十代のおわり」が、いかにも相応しいように思われます)。


 1〜2年のサイクルで、周期的に頭髪をすっぱり剃り落としたくなるが、それが、ほとんど例外なく、木枯らしの吹き始めた冬の季節に限られているのは、いったい、なぜだろうか? 髪の生え際が後退し、だいぶ薄くなったとはいえ、毛髪というガードを消失して、大気にむくつけく露出した頭蓋には、寒気が容赦なく沁み込んで来る。
 見てくれもあって、帽子をかぶることが多いが、しかし、わたしは深夜、新宿駅から歩いて帰ってくる途中、中央公園を横切りながら、不意と、かぶっている帽子を脱ぎ、樹木のあいだを渡ってくる寒風に、坊主頭をさらして、「アタマ呼吸! アタマ呼吸!」と呪文を唱えてみたい衝動を抑えられないのだ。わたしにとって、頭髪を剃ることは、停滞した頭の内部に寒風を吹き込み、何とか脳細胞をリフレッシュしようとする、儚い試みなのだろうか。



 ワンルームの自室に閉じこもり、いくら非社交的な生活に終始しているとはいえ、『百合祭』や『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』の上映など、公的な行事に参加する機会も少なくない。そんな折に、頭ツルツル坊主では、いささか異様に見えるらしく、浜野監督などは露骨に嫌な顔をする。そうした周囲の忌避的な気配を察しながら、それでもハサミをバッサリ入れて髪を切り落とすのは、さすがに相当酔って、弾みがついている時のことが多く、一度などは、その勢いのあまり、つい眉毛まで剃り落としてしまった。
 頭を剃ること自体は、何度も繰返しているので、自分でも鏡のなかで見慣れた光景であるのだが、さすがに両眉が消え失せた時だけは、鏡に目を走らせるたびに、「うわっ!」と思わず内心で声をあげたほど、見慣れない表情が、そこに現出した。化粧をする女性にとっては、眉のない自分と向かい合うことは、珍しくないかもしれないが、男の場合、相当に異様なのである。
 かつて読んだ梶原一騎原作のマンガ『空手バカ一代』で、大山倍達が、山の中で孤独に修行中、人里が恋しくなって、フラフラ降りて行ったりしないよう、片側の眉を剃り落とし、自らを戒めた、というようなエピソードがあった。また、深作欣二監督の『仁義なき闘い』の「頂上作戦」だったか、どちらかといえばベビーフェイスの梅宮辰夫が、両眉を剃り落として、ヤクザの迫力を、精一杯醸し出そうとしていた。どちらも、眉を剃ることによって、人外の境に出るといった含意があったのだろう。



 男のミュージシャンが化粧することが、当たり前になっている現代においては、眉を剃り落とすこと自体、そんな大それたものではなく、おそらく目慣れの問題にちがいない。しかし、わたしが周期的に髪を剃ったり、時に眉を落したりする背景には、自分の生来の、生地の顔に対して、どこか馴染めない感情を、わたしが潜在的に抱いている可能性はないだろうか。花田清輝は、「仮面の表情」というエッセイで、次のように書いている。

「いつもなにかをせせら笑っているような、図々しい、不敵な顔の背後に、内気で、小心な、弱々しい顔の隠れていることもあれば、始終、生き甲斐を感じているような、希望にみちた、快活な顔の内部に、幻滅に悩んでいる、いたましい、あわれな顔の潜んでいることもある。どちらが、ほんとうの顔で、どちらが仮面なのであろう。むろん、見馴れた顔が仮面であり、その仮面の落ちた瞬間、あらわれてくる顔のほうが、ほんとうの顔であるなら問題はないが、あるいはその新しい顔もまた、たいして変りばえのしない、新しい仮面であるかもしれないのだ。もうひとつ仮面を! 第二の仮面を! ニイチェ風にいうならば、人間の顔は、一切仮面であり、わたしたちは着物をきたり、ぬいだりするように、次々に、仮面をつけたり、はずしたりして、生きつづけており、したがって、もしもわたしが、あなたのほんとうの顔をとらえようと考えるなら、嫌でもわたしは、あなたの仮面を手がかりにするほかはない。」
(1949年発表。『アヴァンギャルド芸術』1954年未来社刊所収)

 わたしもまた「着物をきたり、ぬいだりするように」、髪を伸ばしたり、剃ったりしているようだが、しかし、その程度では「仮面」とも「ほんとうの顔」とも、はるかに遠い、ちょっとしたバリエーションに過ぎない。わたしが、花田のこのエッセイを思い出したのは、両眉のない自分の表情が、どこか能面のように見えたせいかもしれないが、それでは髪だけでなく、両の眉まで落した顔が、わたしにとって、ちょっとした仮面といえるだろうか。
 いや、世の中にはドラスティックな変化を、敢然として行なう一群の人たちがいて、整形手術で、文字通り顔面を変化させてしまう。いわば「肉付きの仮面」だ。この手のドキュメント番組にぶつかると、つい最後まで見てしまうのだが、彼女たちのなかの少なくない人たちが、二度、三度と手術を繰返すのは、花田の言うところの「もうひとつの仮面を! 第二の仮面を!」というモードに入っているためだろう。
 人はなぜ、仮面をかぶるのか? 花田は、次のような例をあげている。

「きびしく表情の限定された、はっきりした輪郭をもった仮面をかぶることによって、あなたのたえず動揺する顔を―ささやかな刺激にもすぐ反応を示し、たちまち表情を変えてしまう、あなたの敏感な顔を、人眼にふれさせたくないと思っているためであろうか。それともあなたの顔の特徴を際立たせることによって、人眼をひこうと試みているためであろうか。あるいはまた、あなた自身の顔に飽きあきして、あなた以外のものの顔をもちたいと望んでいるためであろうか。いずれにせよわたしは、あなたのほんとうの顔を、みたことがない。」(同上)

 仮面の動機として、最初が防御、つぎが顕示とすれば、最後が倦怠で、おそらくわたしに根深くあるのは、最後のモティーフだろう。日常見飽きた、もっともらしい自分の「仮面」を脱ぎ捨て、見慣れない、ちょっぴり異様な「仮面」にチェンジしてみたいという、内から聞えてくる囁き。



 そういえば、わたしが頭を剃るようになったのは、エロ本の編集をしていた頃で、『元気マガジン』(白夜書房)という風俗情報誌を創刊した時には、創刊記念に、スタジオを借りて、男のスタッフをメインにヌード撮影し、3周年記念には、女装会館「エリザベス」に出向いて、男のスタッフ全員で女装した。
 創刊号の、男のスタッフは全裸、女のスタッフは水着かホットパンツという記念写真は、しかし、何でエロ本なのに男のスタッフがヌードになるのか、今から考えると、はなはだバカげている。当時の白夜書房は、爆発的に売れた『写真時代』などでも、編集部員が裸のモデルを務めるのが常態であり、外注編集であるわたしの風俗情報誌でも、カメラマンとともに風俗店に取材に行ったライターは、わたしも含め、「風俗ギャル」のお仕事を説明するため、裸の彼女たちと一緒に、自分も裸になって写真を撮った。そんな背景から、スタッフヌードを思いついたのだろうが、見せられた読者は、エライ目ざわりだったにちがいない。
 3周年の女装の方は、編集長のわたしが、渡辺恒夫氏の『脱男性の時代−アンドロジナスの文明学』(勁草書房刊)などを読んで、心密かに憧れていたためだろうが、島本舐めダルマ親方や、ラッシャー三好くんの「ヒゲ女装」といった珍品に笑ったり、発行人の末井昭さんの赤いドレスを着込んだ、堂々たるマダム振りに呆気にとられるなど、話題は少なくなかったものの、肝心のわたしは目の前の鏡に現出した、あまりに身もフタもない、ありふれたオバサン顔に、すっかりゲンナリして、二度と女装する気持ちを失った。まあ、男のスタッフ全員が、女装した写真をカラーで見せらたエロ本読者は、その後の購読意欲を失ったことだろう。
 そのせいか、間もなくやって来た廃刊号の表紙の写真では、ヌードモデルの悩ましい肢体の手前に、わたしの丸坊主の頭のてっぺんが写っていて、そこに口紅で赤く「Bye-bye!」と書いた。ささやかな惜別のつもりだったが、エロ本編集長としてはあまりにも無責任だったかもしれない。
 自分の女装には懲りごりしたが、その後、誘われて女装専門誌『クロス・ドレッシング』(光彩書房)の創刊に携わり、キャンディ・ミルキイさんをはじめとする、業界の面々と知り合った。創刊号のグラビアでは、女装会館「エリザベス」の美人たちの一人として、三橋順子さんが登場していたが、現在のように、女装家として活発に評論、研究活動を展開する以前のことで、わたしのインタビューに対しても、非常に寡黙だったのを覚えている。なお、この創刊号は、記録的な返品を招き、三号雑誌まで届かず、二号で早々と廃刊した。



 女ジェンダーを装いながら、女の領域に、じりじりと接近する女装が、おそらくセクシュアリティの型としては、わたしにもっとも近いことを自覚しながらも、わたしが再び女装する気になれなかったのは、よほど自分の散文的な「オバサン顔」が身に沁みていたのだろうが、ここで本格的な女装を体験していれば、「仮面」と「ほんとうの顔」をめぐる、花田的な弁証法を、身をもって味わうことになったろう。
 そうなのだ。花田の仮面論は、「ほんとうの顔」を導き出すためのものであった。

「仮説が、科学的発見のための不可欠の前提であるように、仮面が、わたしに、あなたのほんとうの顔を発見させないとはかぎらない。思うに、あなたが、仮面を一刻も手ばなそうとしないのは、あなたもまた、わたしと同様、あなたのほんとうの顔を知らず、仮面を駆使することによって、あなた自身の顔のいかなるものであるかを、ひたすら探求しているためではあるまいか」(同上)

 わたしが、自分の「ほんとうの顔」を探求するべく、頭を剃ったり、眉を落したりしているかといえば、はなはだ疑問であり、正直なところ、身にまといついている余分なもの、余計なものを、すっぱり削ぎ落としたい衝動の方が、強いかもしれない。
 今年の夏、頭を剃る代わりに、腋の下を剃ってみたら、非常に風通しがよいことに気づいた。引き続き、サウナの洗い場で、鏡に向かって腕を上げ、腋毛を剃っていたら、隣のオヤジにギョッとした顔で見られたが、陰毛を剃るよりはましだろう。陰毛もまた、特に必要とするものではないが、お風呂代わりにサウナに通っている以上、特殊なマニアに思われる可能性がある。やめておいた方が、無難だ。
 わたしが、自分の顔に、すっかり飽きあきしていることは間違いないが、これが仮の顔であり、「ほんとうの顔」が別にある、というようなロマンチックな思いに駆られたことは、残念ながら一度もない。剃髪、剃毛は、あまりにも日常的な自分の顔にウンザリし、ちょっぴり異様なもの、非日常的なものを導入し、マーキングする行為といった方が、近いかもしれない。だいたい、「ほんとうの顔」なんて存在するのだろうか?



 花田は『復興期の精神』の巻頭に置かれた「女の論理―ダンテ―」を、次のように書き始めている。

「三十歳になるまで女のほんとうの顔を描きだすことはできない、といったのは、たしかバルザックであり、この言葉はしばしば人びとによって引用され、長い間、うごかしがたい真実を語っているように思われてきたのだが、はたしてこれは今後なお生きつづける値うちのある言葉であろうか。人間の半分以上をしめている女のほんとうの顔がかけないで、男のほんとうの顔がかける筈はない。バルザックはこの言葉によって三十歳になるまで小説をかくなと忠告しているのであろうか。それとも男の正体は簡単につかまえることができるが、女の内奥の秘密をあばくためには多くの経験が必要であり、若さのうむさまざまな慾望が、作家の対象をみる眼をくもらすという点を強調しているのであろうか。おそらく多くの人びとは、そういう意味にこの言葉をとり、至極もっともだと同感するのであろう。まことにおめでたい。」
(1941年発表。『復興期の精神』1946年我観社刊所収)

 なぜなら「男のほんとうの顔」が書けるぐらいなら「女のほんとうの顔」だって書けるはずだ、と花田は続けるのだが、バルザックの言葉には、小説家のほとんどが男であった時代背景が反映しているにちがいない。男の作家にとって、自分と同性の「男のほんとうの顔」は書けるような気がするが、他者である女の顔が、そう簡単に書けないのは自明のことだ。ジェンダーなんて概念のなかった当時のことだが、花田は、しかし、ここで男女の性差や、「ほんとうの顔」という、問題設定自体に疑問を投げかける。

「なぜかれは、女のほんとうの顔、といい、男のほんとうの顔―或いはまた、人間のほんとうの顔といわなかったのであろうか。そこにバルザックの決定的な古さがあるように思われる。男が男であり、女が女であるというような形式論理的な考え方は、今日においては、もはや捨て去られるべきではあるまいか。いや、古いといえば女のほんとうの顔、男のほんとうの顔、総じて人間のほんとうの顔を描き出そうと努めることそれ自体が、すでに古いのではなかろうか。」(同上)



 かつて若者の間で「自分探し」とか「アイデンティティ」といった言葉が流行り、今でも息長く使われているようだが、この「自分探し」こそ、ここで言われている「ほんとうの顔」への希求に他ならない。しかし、60年以上も前の、戦時中の1941年に、花田はすでに「ほんとうの顔」を探求すること自体「古い」と断言しているのである。いや、「ほんとうの顔」というモティーフ自体が古いのではなく、アプローチの方法に問題があると言っているようだ。

「とはいえ、それはいささか性急な結論であるかにみえる。人間のほんとうの顔に対する探求が古くなったわけではなく、それはそれとして相変わらず興味があるが、ただその描きだし方に問題があるのであり、現在ではバルザック風の具体的な定着の仕方が、それとは反対の抽象的な定着の仕方に、次第に席を譲りつつあるにとどまるとみるほうが、いっそう穏当なのではあるまいか。一言にしていえば、それは人間中心の思考方法が徐々に克服されつつある過程の必然的な表現であり、人間に対する愛情や嫌悪が、些細な問題として後景に押しやられ、人間以上の観念に対する熱烈な関心が、漸次人びとの間に高まりつつある証拠であるらしく思われる。ベアトリーチェに対するダンテの関心は、フィレンツェの女としてではなく、むしろ神学の化身としてであった。はたしてかれは、女のほんとうの顔を描きだすことができなかったであろうか。」(同上)

 ここから花田は、「女のほんとうの顔」を知るために、「女の心理や女の生理から出発」するのではなく、「女の論理」を明らかにすべく探求を始めるのだが、修辞(レトリック)と論理(ロジック)をめぐって、「女の顔」と「イエスの顔」を結びつける、花田の痛快な離れ業は、華麗なレトリックを謳われた花田にとって、レトリックがいかなるものであるか、自ら語り、かつ実践して見せたものといえよう。
 それは一方で、かなりハッタリくさくもあるのだが、言葉のサーカスを目の当たりにするような醍醐味が、そこにはある。それでは、花田は、バルザックに対抗し、「女の論理」を探求することで「女のほんとうの顔」を描くことができたのか? このエッセイの末尾は、「いささか顧みて内心忸怩たるものがある。すなわち、冒頭に掲げたバルザックの言葉を若干訂正し、以って結語としよう。三十歳をすぎても女のほんとうの顔を描きだすことはできない。」という、まことにトボケタものであった。
 また「人間中心の思考方法」の克服も、花田の終生のスローガンのひとつだったが、人間は失恋や片恋ばかりで、蘚だけが恋愛を成就する、奇妙な物語を描いた尾崎翠が「相当、ながいあいだわたしのミューズでした」(「ブラームスはお好き」1960年)というのも、充分にうなずけるところだろう。
 花田は、22歳の時に、「7」という数字に取り憑かれたドイツ青年を描いた「七」という初めての小説で、週刊誌の懸賞金を獲得したが、同じ1931年、尾崎翠は「第七官界彷徨」を発表し、こちらも、日常的な感覚を越えた「7」という世界への希求を描いている。どちらも「人間以上の観念に対する熱烈な関心」を持った主人公たちだ。論理的な花田と、感覚的な翠という、一見対照的な二人だが、どこか双生児のように似ていることも確かなのだ。
 そういえば「第七官界彷徨」の小野町子もまた、従兄弟の三五郎によって、長くて赤い髪をばっさり切られたが、町子の場合は、すでに赤い髪自体が、一般の規格から外れていた。わたしの場合は、頭を剃って丸坊主にしたうえ、両方の眉まで剃って、ようやく規格の外に出ることができるぐらいだろう。しかし、眉まで落すと、いくらか残っている社会生活をいとなむ上で、いささか支障が出るらしく、なかなか思い切れないのが実情であり、無念でもある。



 しかし、わたしは、花田の言う「仮面」を、あまりにも字義通りに受け止め、顔貌を変容させることにばかり気が向きすぎているようだが、花田の「仮面」が、頭を剃ったり、ひいては顔面の整形手術を受けるような形而下のものではなく、形而上の精神的なものであることは言うまでもない。「自分のほんとうの顔」を探り出すための、花田の処方箋は、例えば次のようなものだった。

「しかし、はたしてわたしたちのほんとうの顔は、みずからの内部をのぞきこむことによってあきらかになるであろうか。むしろ、それは、わたしたちが、おのれ以外のものに変貌しようと努め、おのれ以外のものでありながら、しかもおのれ自身でありつづけることによって―つまるところ、確固とした表情をもつ仮面をかぶることによって、かえって、はっきりするのではなかろうか。思いきって大袈裟な表情をした仮面なら、なんでもいい。わたしは、あなたが、たとえ滑稽にみえようと、曖昧な表情をした能面などではない、固定した顔つきの仮面をかぶりつづけられることに、まったく賛成である。」(「仮面の表情」)

 どうせ仮面をつけるなら、自分とはもっとも遠い、やたら大袈裟な仮面を! 日本的な能面よりは、ギリシアの喜劇用の仮面を! それによって、ほんとうの自分の顔が浮かび上がってくる! 
 これは、戦時下の日本にあって、西欧のルネッサンスを相手に、丁々発止の格闘を行なった『復興期の精神』という著作のネライを解説しているようにも聞えるが、当時、皇国少年だった吉本隆明のような、ある意味ナイーブな批判者たちに、その企図が読み取られることはなかった。
 しかし、乾坤一擲、思いきって「おのれ以外のものに変貌」しようとすることが、同時に「おのれ自身」でもあり続ける、花田式のパラドックスは、わたしたちに多くの示唆を与えているように思われる。現代の「自分探し」をする青年たちへの、わたしの不満は、自分により近い、似たような仮面を、とっ替えひっ替えしているように見えることだ。身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ、という昔ながらの言葉もあるではないか。(ちょっと、ニュアンスが違うかな?)
 などと、ジジイ風に、若い世代への不平を鳴らすわたしの仮面が、せいぜい丸坊主に頭を剃ることぐらいなのだから、情けないこと、おびただしい。も少し、派手な仮面はないものか、などと考えながら、サウナの洗い場で、全頭を剃り上げ、次に何気なく眉の端あたりに剃刀を当てていたら、手が滑って右の眉毛の、三分の一ぐらいを剃り落としてしまった。あら、どうしよう…。


 すでに多くの人がご存知でしょうが、mixi(ミクシィ)という「ソーシャルネットワーキング」のサイトがあって、100万人以上の人が参加し、その中にテーマごとに作られた「コミュニティ」には、25万人以上が登録しているのだそうです。参加者は、そこで日記を書いたり、各コミュ(コミュニティの略)の掲示板に書き込んだりするのですが、「友人の招待」がないと、中に入れません。そこが、匿名書き捨ての「2チャンネル」などとは、根本的に違うところです。
 わたしもまた、薄々存在は知っていましたが、特に興味もなく、必要も感じていませんでした。なかには、「大衆食堂の詩人」エンテツさんのように、友達の友達は友達、というmixiのシステムに、露骨に嫌悪を示す人もいて、誰がやってくるのか分からない吹きさらしの荒野に、ひとり昂然と立つのだという、無頼派の意気を示す人もいます。さすが男伊達であるなあ、と感心しました。
 ところが、たまたま愛読しているサイト、世界中からバカげたトンデモ情報をピックアップしてくる「Weekly Teinou 蜂 Woman」(週刊低脳蜂女、という意味か?)のメルマガに登録していたら、主宰者の女性から、mixiに招待してもいい、という知らせがあり、それを機会に参加させてもらいました。
 もとより、日記を書くつもりはありませんが、実にさまざまなコミュがあるのには、なんだかワクワクしてしまいました。さっそく、「尾崎翠」と「花田清輝」のコミュに登録しましたが、翠は270人、花田は30人ぐらいの参加者で、二人に対する、現在的な関心の度合いが現われているようです。
 面白がって、いくつものコミュに登録しました。わたしのマイナー好みを反映し、人数の少ないところがほとんどですが、「大島弓子」コミュは、1900人近くの規模を誇って、書き込みも活発です。逆に、もっとも少なかったのが、できたばっかりの「フェチ研」で、わたしが参加した時には4〜5人だったのですが、最近では14人に増えています。フェチ現象に対して、研究的にアプローチしようという管理人(コミュの提唱者)の姿勢に共感しました。
 他に「カール・ハイアセン」(変てこな、アメリカのミステリー作家。今では、フェチ研より少ない13人)「ダーク・スター」(J・カーペンターの長編第一作。45人)「ジョン・カーペンター」(さすがに、700人近くいる)「英国美青年系映画」(20人ぐらい。わたしは、ルパート・エヴァレットや、ダニエル・D・ルイスのファンとして参加)「ブレンダン・フレイザー」(軟派ズッコケ美男男優で、80人もいた)などに登録しました。
 笑ったのが、つい最近参加した「匂いフェチ」コミュで、わたしも尾崎翠には遠く及ばないものの、匂いについては感じるところ多いのですが、正面きって「匂いフェチ」の看板を掲げられると、少々腰が引けます。しかし、コミュを、ちょっと覗いてみたら、なんと「大島弓子」コミュと肩をならべる、1800人ぐらいを擁し、書き込みがまた、センスの好い(とわたしが感じた)女性たちで溢れているではありませんか。すっかり嬉しくなって、即登録してしまいました。ここの書き込みも活発で、吹き出すような内容です。



 いや、今回わたしが、mixiについて触れたのは、個人的な経験を披瀝したいためではなく、実は、この「影への隠遁」ブログで、SOSを発信しようか、と考えたのです。というのは、思いつきで、コミュをひとつ、わたし自身が開きました。「花田清輝」コミュの書き込みが、それほど活発でないのを横目に、自分の好きな花田の名文句を、自慢しあうようなことはできないものだろうか、などと考えているうちに、自分でコミュを作って、そこで毎日、1フレーズずつ、ピックアップしたらどうか? と思いついたのです。
 コミュを作成するのは、手続きにしたがって、名乗りを上げればいいのですが、同じようなコミュに参加しながら、別にもうひとつ作るのは、ルール違反という気がしないでもありません。しかし「花田の文章、毎日引用」という、きわめて個人的なアイディアに酔ったわたしは、さっそく「清輝・断簡零墨、片言隻句」という、すぐには判読しにくいようなコミュを作成しました。面倒な漢語で、わたし自身も、辞書を引き、漢字を確かめなければならなかったことは言うまでもありません。
 わたしは、さっそく、いい調子で、誰にあてるでもなく、毎日書き込んでいたのですが、ふと気づいてみると、発足後の一ヶ月間に、誰もそのコミュに参加しなかった場合は、自動的に消滅するという決めがあったことを思い出しました。実際のところ、開始して2週間ほど経っても、参加者はまるでなく、登録しているのが、わたしのみ、という状態が続いていました。それは、そうだろう、と納得します。ただでさえ、花田の読者が少ないところに、花田の文章の一部分を、個人的な好みで拾ってきたのを、わざわざ読んでみよう、なんて酔狂なひとはいません。
 わたしは、その書き込み用に作った「1デイ×1フレーズ」というトピックの冒頭で、次のようなことを書きました。

「毎日、花田のフレーズをひとつピックアップするという「目標」を掲げました。経済困窮の結果か原因か、歌舞伎町のスポーツセンターのサウナで汗を流し、屋上のプールに浮かぶ以外、これといって決まった日課のない生活の中で、何か「目標」とか「義務」とか「強制」とか、そういったものが、わたしにもあって良いのではないか? たまたま偶然からmixiに参加することになり、さっそく花田清輝のコミュニティにも入ってみたのですが、ほとんど動きがありません。そこで、ひとつ自分で花田に取り組んでみようではないかと、だいそれた野望を抱いたわけです。果してどこまで可能か分かりませんが、パソコンがつながっている限りは試みてみましょう。」

 自問自答というか、まるで他人に呼びかける気のない、頭のおかしなオヤジがぶつぶつ独り言を呟いているようなものです。スポーツセンターも、目下住んでいるワンルームマンションの、お湯代が高すぎるという理由で、お風呂代わりに通っているのですが、こんなのを読んだら、わたしだって、まあ参加する気にはなれません。しかし、半月ほど続けてみると、これが消滅してしまうのは、個人的に困る。この際、ブログでSOSを発信し、それでも誰の参加も得られなかったら、「カニグズバーグをめぐる冒険」のやみぃさんにお願いして、サクラで登録してもらえないだろうか、などと考えていました(なんで、やみぃさんなんだ?)。
 そこに、不意打ちのように、参加者が現われたのですね。花田のエッセイのタイトルを、ハンドルネームにしている男性で、その方のつながりから、さらにもう一人、女性が登録してくれました。これで、登録者3名! めでたく自然消滅の危機は免れたのです。
 ですから、このブログでmixiについて書く必要はなくなったのですが、もし、すでにmixiに参加されている方があったら、気のむいた折りにでも覗いてみてください。実際、個人的なメモみたいなもので、花田読者以外にはまったく面白みのないものだと思われます。いや、花田読者にだって、面白くない?
 誤算は、自分が考えているほどには暇でなかったことですが、目下、深夜12時までには書き込もうと、シンデレラのような心境で、毎日を送っています。さて、いつまで続くことやら。ちなみに、記念すべき(?)第一回目にピックアップしたのは、次のフレーズでした。

「わたしは、ちと大きなことばかり、考えすぎていたようだ。」

〜「蝉噪記」(林達夫著作集4『批評の弁証法』平凡社71年。原題「解説」。花田清輝全集第14巻所収)


 子豚が踊る? 花田清輝の「動物記−ルイ十一世−」(『復興期の精神』所収)には、ルイ十一世が「風笛の音につれて踊ることをおぼえた子豚のむれをみてたのしむのをつねとした」というエピソードが紹介されているが、しかし豚とは、音楽に合わせて踊る動物だったのか? わたしもこれまでサーカスや、いかがわしい見世物の類を結構見てきたが、豚が芸を披露するのを一度も見たことはない。花田によれば『家畜系統史』という本のなかで、著者のケルレルが「豚にもまったく知性がないわけではない」例として、王の前で踊る子豚を紹介しているのだとか。ケルレルにとっては、あくまで豚の知性が問題だったが、花田は「この無邪気さと奇怪さとのいりまじった古めかしい舞踏図」は「むしろ、ルイ十一世の知性にたいして、いっそう多くの興味をいだかせる」と言う。豚の知性と、王の知性が、比較対置されるレトリックに、わたしは毎度吹き出してしまう。



 そんな本があったのか!? と誰もが目を剥くような文献のさわりを引用しながら、それを鮮やかに転倒して見せる、いかにも花田らしい導入部だが、確かに子豚の踊りを眺めて楽しむ国王というのは、興味惹かれる光景だ。多くの名セリフや印象的なシーンが、ふんだんにちりばめられた『復興期の精神』だが、この「舞踏図」は、わたしにとって、もっとも愉快なイメージのひとつである。このエッセイによれば、ルイ十一世は、武力を持った貴族の封建領主と、自由や利益を求める市民の間に立って、両者を対立させながら、その均衡の上に独裁的な権力を築こうとした、フランスで「最初のブルジョア的な国王」だそうだ。その彼が、幼稚にも風狂にも見える子豚の踊りに、なぜ惹きつけられたのか? それは「晩年の娯楽だったのではあるまいか」と花田は言う。
 貴族と市民に、それぞれ美味しそうな餌を見せびらかして分断し、権謀術数によってフランス全土の統一を図っていた頃のルイ十一世には、子豚の踊りを眺めて無聊を慰めるようなところはなかったが、一度だけ動物に異常な関心を持ったことがある。剛胆候と呼ばれたブルゴーニュ候シャルルの居城、ペロンヌ城に、軍隊無しで腹心数人と乗り込んだルイ十一世は、一方で和議を進めながら、もう一方で市民を扇動して反乱を起こさせたが、案に相違して反乱はあっという間に鎮圧され、ペテンを見破られたルイ十一世も捕らわれてしまった。
 王を生かすも殺すもシャルルの思いのままで、絶体絶命の窮地だったが、冷静な機略と舌先三寸で何とか切り抜け、パリにやっとの思いで帰って来た。市民たちは、これまで自分たちをたぶらかしてきた国王の大失敗に喝采を浴びせ、快哉を叫んだが、これに怒ったルイ十一世のとった報復行動が奇抜である。なんと、市民の飼っているオウムや九官鳥を徹底的に調べ上げ、「ペロンヌ」だとか「シャルル」だとか口走る鳥は、ことごとく絞め殺させたのだ。どれほどいっぱいのオウムや九官鳥がパリ市民に飼われ、その前で王を嘲笑する会話が成されたのかと思うが、ルイ十一世はそれでも憤懣抑えがたく、市民の飼っている犬や猫も全て撲殺させた。
 おかしな復讐もあったものだが、これがフランス全土を統一することを目指して奮闘していた頃、たった一度だけ動物に関心を示したケースだという。その後、ルイ十一世は絶対的な権力を握るに至るが、その頃から極度の人間不信が募り、家臣を威嚇するために、城の中の並木を切って、数百の絞首台を並べたりした。誰からも好かれず、荒涼とした孤独の裡に、晩年を過ごすことになったが、子豚の群れが踊るのを見て愉しんだのは、この時期ではないかと花田は言う。事実、死の床でルイ十一世は、室内に多くのネズミと数匹の猫を放し、猫がネズミを追いかけ、食い殺すのを、我を忘れ見入っていたとか。一見ほがらかに見える子豚のダンスだが、こういう病的な精神の慰めだったことを考えると、急に陰惨な翳りを帯びてくる。



 この「動物記」においては、花田の関心がケルレルとは逆に「ルイ十一世の知性」に向かい、踊る子豚の群れのエピソードが、比較的あっさり片付けられているのが、物足りないと言えば物足りない。陰惨で孤独な王と、無邪気に踊る子豚は、どのようなコミュニケーションを持ったのだろうか? 『復興期の精神』は日本の戦時下に書き継がれた西洋のルネッサンス論だったが(「動物記」は1943年発表)、60年代になって書き始められた独特な小説、これのどこが花田自身の批評と違うのか、誰もが首をヒネル小説において、花田が「日本のルネッサンス」と見定めた室町末期から戦国時代に生きた人物群像が描かれる。
 そして、そのトップバッターとして選ばれたのが『鳥獣戯話』の主人公、武田信虎であり、息子信玄によって甲州から追放され、戦国の世をさ迷うことになった、この度外れたキャラクターは、実の息子にクーデターを起こされる直前に、獰猛な大猿を座敷に放し飼いにして、踊りを教えたり、剣術の稽古をつけたりした。フランスの王の前で踊る子豚の群れと、日本の殿様に踊りを仕込まれる大猿は、好一対をなすものではないだろうか。
「動かざること山のごとく〜」という、例の有名な「風林火山」の標語は、孫子の言葉から取られたというが、花田によれば、これは猿の群れの集団戦闘技術に他ならず、武田の兵学の基礎を作った信虎は、昔ながらの一騎打ちを、てんでんバラバラにやってるような合戦を、猿の集団から学んだ戦略・戦術で圧倒した。人間を猿より劣ったものと見て、猿並みに引き上げようとした信虎は、当然のことながら家臣や領民から忌み嫌われ、ついには、後に名将と謳われる息子、信玄によって、領地から追い出されるのだが、その直前に「猿屋」から買い取ったのが「白山」という名のオスの大猿だった。
 この凶暴な猿は、誰にも馴染まず猿屋を手こずらせていたが、信虎にだけは出会った瞬間から親愛の情を示した。信虎が、屋敷で白山を放し飼いにした座敷は「竹の間」といって、自分の名前の「虎」にちなんで、四方に竹が描かれていたが、花田曰く「今やその竹の林に、虎とともに猿が住むことになったのである」。もちろん、掛け軸は引き裂かれ、畳は排泄物によって汚されたが、信虎は一向に気にせず、白山に芸や剣術を教え込んだ。
 迷惑したのは「掃除坊主」たちだったが、京から下ってきた有名な歌人、冷泉為和などは、信虎の「猿をまわして御覧にいれたい」という招待を受け、竹の間でご馳走を振る舞われたのはいいが、周囲を徘徊する白山に肝を冷やした上、頬を舐められて飛び上がり、大げさな反応にビックリした白山に組み敷かれ、噛み付かれて失神した。信虎が、この京で食い詰め、諸国の大名に招かれるまま、権威ぶって地方を遍歴する歌人を、快く思っていなかったことは言うまでもない。



 ルイ十一世同様、信虎もまた人間どもに嫌われた孤独な殿様だったが、どうしてまた生きた大猿を飼い、同じ部屋に住んだのか? 甲州の軍勢の主力は騎馬隊であり、猿は馬の守り神でもあるので、軍隊のマスコットにしようとした? 人間にすっかり絶望した信虎が「人生の伴侶」として大猿を選んだ? 人間の群れが猿の群れに劣ることを痛感した信虎が、群れを離れた場合の両者の知恵を、比較検討しようとした? 自分に馴染もうとしない家臣どもを、猿を使って苛めてやろうと試みた? 花田はいろんな推測を上げるが、「その動機を、はっきり、こうだと断定するわけにはいかない」と言う。
 この白山が起こした事件をきっかけにして、信虎の周囲で殺傷事件が相次ぎ、人間を猿より下位に見る暴君として、実の息子のクーデターにあうのだが、その後の数奇を極める人生は、この第一章の「群猿図」から第二章「狐草紙」、第三章「みみずく大名」と、引き続きたっぷり描かれる。しかし、普段は武田信玄の陰に隠れて、ほとんど注目を浴びない、誰もが嫌っていたクソジジイに、どうして花田は着目したのか。
 もちろん半世紀以上も前に、花田によって描かれたルイ十一世の肖像が、どれほど歴史的な妥当性をもっているか、わたしに検証することはできないが、検索してみると「毒蜘蛛」などと仇名されているので、相当嫌われた国王であったことは間違いない。武田信虎にしても、これは「小説」であり、史料には偽書がまぎれ込んでいるのだが、面白いのは、ルイ十一世と武田信虎(追放後、足利将軍の御伽衆になってからは「無人斎道有」)の、花田の取り上げ方に、精神的な類縁性があることだ。
 両者とも、人間を動物より劣位に置き、もっぱら動物と親しみながら、その一方で、人間に対する直接的な暴力である武力を、言葉を駆使した知略(謀略とも言う)によって乗り越えようとするのである。ルイ十一世がシャルル豪胆候の城内に、自ら乗り込んで交渉しながら、その一方で市民を扇動し、暴動を起こさせたのも、武力を制するに武力を持ってするのではなく、権謀術数という外交的手段によって強敵を倒そうとしたのだった。市民に嘲られた際には、直接市民に報復しないで、彼らのペットを虐殺することで満足した。
 信虎は、息子によって追放されるまで、妊婦の腹を割いて胎児の成長を観察するなど、暴君としての血生臭いエピソードにも事欠かないようだが、徒手空拳となってからは武力とすっぱり縁を切り、話術によって一世を風靡して、落書きで織田信長の直接的な暴力と渡り合ったりする。それだけではない、天下を狙う信玄に追放されたのか、それとも親子が裏で繋がっているのか、大名たちを疑心暗鬼にさせる立場を利用して、さまざまの秘策をめぐらし、道有=信虎の死後、信長が本能寺で死ぬのも、自分を追放した武田が滅亡するのも、道有の「捨て罠が効果を発揮したのかもしれないのだ」と花田は言う。



 ここには、花田が一貫して掘り起こそうとした「非暴力の伝統」がクローズアップされているが、ルイ十一世にしろ武田信虎=無人斎道有にしろ、なんと凄まじい「非暴力」であることだろう。そこには、非暴力ということで連想されがちな、平和を希求するヒューマニズムなど欠片もない。花田は、この事情を次のように解説する。「武力と武力の角突き合い」という「一つの修羅を生きるかわりに」、言葉を武器とした「もう一つの修羅を生きようと思っただけのことなのである」。ルイ十一世も信虎=道有も、武力に生きた華々しいヒーローである敵たちのように早死にすることなく、狂気じみた孤独を片手に、しぶとく長生きした。
 59年に突発した花田・吉本論争は、埴谷雄高の「吉本勝利」判定などもあって、学生などの間では「ヨシモトに完膚なきまで論破されたトンデモ評論家=ハナダ」というイメージが流布するが、翌60年に発表されたこの小説「群猿図」に登場する、獰猛で信虎の愛人に色気を示し、信虎追放のきっかけを作ったオス猿は、どこかヨシモトを思わせないでもない。痛烈な吉本批判を含むエッセイ「『慷慨談』の流行」が収録され、同年に刊行された単行本は、『もう一つの修羅』と題された。


 パリの生活街区を歩く時、アメリカの路上などと比べ、威圧的な緊張感のようなものが少ないのは、フランス人が比較的小柄だから、という説もあるが、私が巨躯によって心底ビビらされたのは、アメリカ体験ではない。両国の国技館に相撲見物に行った時、トイレの帰りに誤って、出を待つ力士の控え室のようなところに迷い込み、いきなり目の前に巨大な肉塊が林立しているのに出くわした時には、慄然とした。土俵で照明を浴びた力士の肌は美しいが、眼前に迫る分厚い皮膚のようなものは、凄まじい稽古によって、ほとんど爬虫類か甲殻類の表皮のように見えたのである。わたしは日本製の巨漢に圧倒された。
 花田清輝の「極大・極小−スウィフト−」(『復興期の精神』所収)は、ドストエフスキーが「悪霊」の冒頭で「ガリヴァ旅行記」を引用しているエピソードから始まる。小人国からロンドンに帰ってきたガリヴァが、自分を大人(おおびと)に思うそれまでの習慣が抜けず、街中でつい大人気取りで、通行人や馬車に向かって「どいた、どいた、うっかりしていると踏みつぶすぞ」などと怒鳴りつけ、逆にみんなから冷笑され、罵倒され、馭者には鞭で叩かれた。しかし、花田は言う。「これがドストエフスキー一流の出鱈目」であり、スウィフトの原作でガリヴァがロンドンでそういう仕打ちを受けるのは、小人国からではなく、大人国から帰って来た時なのだ。それまで大人(おおびと)ばかり見慣れていたので、普通人が小人のように感じられ、それで「どいた、どいた」などと言ってしまった。



 ここからの論理展開が花田の独壇場で、「ドストエフスキーが記憶力のいい男でなかったことは確かだが−しかし、この間違いには、何か微妙なところがあるように思われる」。なぜなら、ロンドン市中で余計なことを言い、馬鹿にされたり鞭で叩かれる結果は同じなのに、ドストエフスキーのガリヴァは小人国で暮らし、スィフトのガリヴァは大人国で暮らしてきたのだ。前者は小人の中で自分を大人(おおびと)だと考える習慣が身について、普通人を小人扱いしたが、後者は大人の中で暮らすうちに自分も大人であるような気がし始め、結果として普通人を小人扱いした。
 どちらも一理あるようだが、どちらか一方が正しいなら、もう一方は間違いでなければならない。大人国にいたので普通人が小人のように見えるのが正しいなら、小人国にいたら普通人が大人のように見えるはずだし、逆に小人国にいたので自分を大人のように思い込み、普通人を小人扱いするのが正しいのなら、大人国にいた場合、自分を小人と思い込む習慣から、普通人は大人に見えなければならない。この辺の論理がややこしく、わたしは初めて読んだ時、大いに面食らい、戸惑ったものである。頭の中で何度もシミュレーションしてみるのだが、錯綜すること、はなはだしい。
 しかし、花田はさらに歩を進め、「翻って考えるならば」スィフトのガリヴァが大人国から帰って普通人を大人(おおびと)と比較し、小人のように感じるのは「客観的な意味において正しい」。また、小人の間で自分をすっかり大人と思い込んだドストエフスキーのガリヴァもまた「主観的な意味において、無理もないことだといえる」。したがって、彼らに加えられる冷笑や鞭は、まったく違う動機にもとづかなければならない。普通人の世界に限定すれば、スウィフトのガリヴァは、大人国に比べ普通人が圧倒的に小さいことを正しく認識しているが、ドストエフスキーのガリヴァは、自分が大人であるという錯覚をもとに、普通人を矮小化しているので、普通人から酷い仕打ちを受けるのは止むを得ないことなのだ。



 ここまでの経過を「大人と小人と普通人とに関する紛糾(てんやわんや)」と花田は呼ぶが、こんなことを考えることに、いったいどういう意味があるのだ! と怒り出す短兵急な人たちも少なくないだろう。しかし、ああでもない、こうでもないと言いながら、単なる二転三転ではなく、螺旋を描きながら異なる次元へと軽やかに移動していくところに、花田の文章の醍醐味がある。この「極大・極小」でも、さんざん「てんやわんや」した後、「習慣とは何か」を問い、「ガリヴァ旅行記」の風刺の方法、さらには狂死するスウィフトの人生の結末まで見事に繋いでいくのだが、わたしはもう少し、スィフトのガリヴァとドストエフスキーのガリヴァについて拘ってみたいのだ。
 新潮文庫の「悪霊」(上下巻・江川卓訳)を参照すると、あった! 第一部第一章が始まって直ぐの2頁目に「前世紀のあるイギリスの風刺小説」として紹介されている。しかし、小人国から帰ってきたガリヴァに擬せられているのが、旧世代のインテリの代表選手で、貴族に寄食しているヒューマニスト、ステパン・トロフィーモヴィチ氏なのだ。こうなると、ドストエフスキーのガリヴァは、小人国で暮らすうちに自分を大人(おおびと)と思い込み、普通人を小人扱いするガリヴァ以外の何者でもない。何しろステパン氏は、かつて自分が書いた詩だか論文だかを、いまだに傑作だと思い込んで、若いニヒリストたちに読んでもらいたがっているような、お目出度い先生である。(なお、江川卓訳では「スウィフトの原作では、この話は大人国からの帰国後のことになっている」という訳注が付いている)
 これはドストエフスキーの記憶違いなどではなく、意図的な改変あるいは歪曲に他ならないが、主観や妄想によって現実を捻じ曲げる、いかにもドストエフスキー的なガリヴァだと言える。ここでわたしは反省的に考えるのだが、わたしたちは、もし自分がガリヴァであったなら、ドスト・タイプになるか、スィフト・タイプになるか? あるいは、目の前の誰かがガリヴァだったとして、どちらに好感を抱くか? 
 明らかに迷惑なのはドスト・タイプで、花田もまた「率直に言えば、小人の間で大きな顔ばかりしていて、それが癖になり、普通人の間でまで威張りちらすガリヴァには、私は最初から好意を持っていないのだ。これに反して、大人の間で絶えず痛めつけられ、背伸びばかりしていて錯覚を起こし、たまたま普通人の矮小な姿をみるにおよび、思わず注意を促すガリヴァには、心から同感せざるを得ない。前者の態度は安易であり、後者の態度には、努力の跡が認められる」と書いている。



 わたしは自らを振り返って、時にドスト的、時にスウィフト的なガリヴァになっていないか、実に冷や冷やモノではあるが、かつての日本では大人国が男社会、小人国が女社会、或いは官と民、大人と子供、といったアナロジーで棲み分けしていたよう記憶があるが、最近ではどうなのだろう。しかし、その一方で、鼻持ちならないドストエフスキーのガリヴァも、「努力の跡が認められる」と花田に評価されたスウィフトのガリヴァも、相対的に自分が大きい方を選んでいることは見逃せないと思うのだ。
 例えば、小人国で暮らすうちに小人に自己同一化し、帰ってきて普通人が巨人に見えたり、大人国で暮らすうちに自分を小人だと感じる習慣が身につき、普通人が巨大に見える選択を、二人のガリヴァはどうしてしなかったのか? 人は自分が矮小化された状態のまま持続することに耐えられず、どこかで自己回復を図ったり、いやそれ以上に自分を大人(おおびと)と思い込む瞬間が欲しいのかもしれない。しかし、もしガリヴァが女だったら、事態はどう変わったか? パリまで来て、あいも変わらず花田の文章について考えているわたしだが、「てんやわんや」はまだまだ続くのである。