2017/09

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 オーストリアのインスブルックを、4月11日の朝8時20分に出た列車は、ドイツのミュンヘンを経由して、夕方6時にベルリンに着いた。インスブルックは灰色の雲に覆われ、雪がちらつく冬、ミュンヘンは一転して青空や線路脇に咲き誇る花々が眩しい春、そこから北上しつつ少し季節が戻って、再び寒々しい景色が続く。始発から終点まで、季節の境い目を行きつ戻りつする列車の旅だった。
 ベルリンでわたしたちを迎えてくれたのは、新都心になりつつあるポツダム広場の個性的な映画館「アルゼナル」の企画担当、ステファニーさんと、インスブルックでの上映がなかったため、ベルリンに先行していたシンガポールのタニア・サン監督だ。タニア監督は、今回の「フォーカス・オン・アジア」では7本の短編が招待されたが、小柄で丸っこい体格、人懐っこい笑顔と、よく気がつく親切で、皆に愛されている。どう見ても学生のようにしか見えないのだが、ニューヨーク北の大学で映画、特に編集を学び、シンガポールに帰った後は自分の会社を作って、監督作品だけでなく、プロデューサーとしても活躍している31歳。これを知ると、誰もが絶句するが、実に有能な人なのだ。



「アルゼナル」では「フォーカス・オン・アジア」の全作品を、ナイトショーで連続上映したが、オープニングに選ばれたのが、タニア監督の短編2本と、このブログでも紹介したフィリピンのディツィー監督のドキュメンタリー『ライフ・オン・ザ・トラックス』だった。タニア監督が編集を担当し、女性たちが共同制作したドキュメンタリー『Ah Guai Pua』は、中国からシンガポ−ルに渡ってきて、生活のために悪戦苦闘しながら、80才を迎えた老女に、自らの人生を語らせている。
 現在住んでいる貧しい家に、若い女性映画製作者たちを迎え入れ、しかし語る内容は、この人生において良いことなんかひとつもなかったという、徹底して虚無的なものだった。例によって、英語字幕の一部しかわたしには理解できないのだが、胸襟を開いた老女の、その胸のうちには、ぽっかりと大きな穴が開き、ろくでもない人生の記憶が木魂しつつ、現世の向こうから吹いてくる風が吹き渡っている。
 嘆くわけでも、後悔するわけでも、誰も恨むわけでもなく、淡々と語る老女は、絶対的な孤独と向かい合っているようだが、そこには主観に汚されない、どこにでも転がっている石ころのような人生があるようだった。わたしはカメラの前で語る彼女と、それを実に丁寧な編集で美しい作品に仕上げた女性たちの、両方に感動した。
 タニア監督と初めて遭遇したのは、クレティーユのショッピングセンターのレストラン街だったが、その時彼女は香港のヤオ・チン(游靜)監督と一緒だった。「ハーイ、サチさん!」という、ヤオ・チン監督の明るい声とともに現われた二人と、浜野監督、わたしは、イタリアンの店で料理をシェアしながら食べたが、これが今回のツアーで一貫して続いた「ご飯シェア」的コミュニケーションの始まりだった。



 ヤオ・チン監督とは、02年の香港国際映画祭で初めて出会い、大学で教鞭もとる彼女の、香港郊外の湖畔のほとりの家を、数カ国の女性たちと訪ね、屋上でバーベキューをした。そして、04年のハワイで開催された「ガール・フェスト」でも、映画館の扉を開けて突然出てきた彼女は「ハーイ! サチさん!」と大きな声を上げて、浜野監督と再会を祝し、抱き合ったのだった。その際も、日系のアン・ミサワ監督の運転で一日ドライブを楽しんだり、何かと交流の深いヤオ・チン監督なのである。
 香港でも、ハワイでも、さらに今回のヨーロッパ・ツアーでも、ヤオ・チン監督は『レッツ・ラブ・香港』、浜野監督は『百合祭』で、両者とも、その後の作品が撮れていないという、難しい状況にあるが、二人とも陽気で、意気盛んだ。香港国際映画祭で初めて香港を訪れた時には、超近代的なビルが天を突く、そのど真ん中の広場で、フィリピンからメイドで出稼ぎに来た、もの凄く大勢の女性たちが、週に一回、地べたに座り込み、持ち寄った食べ物を一緒に食べる、まことに前近代的な光景が展開され、その「超近代」と「前近代」の圧倒的な同居に眩暈がする思いだった。



 ヤオ・チン監督は、そうした香港の「現実」に、インターネットの「仮想現実」の世界を重ねあわせ、実験的な手法で二人のレズビアンのコミュニケーションの不能を描いた。かなり難しい作品で、今回わたしが「英語の問題もあって、ぼくにはよく分からないところがあった」と正直に話したところ、ヤオ・チン監督は目をつぶって眠る真似をし、わたしの肩を軽く叩いて「観ながら、スリープしてたんじゃない?」と笑った。図星である。
 ただし、それは香港で最初に観た時であり、今回のクレティーユでは、充分に目を凝らして観通したうえ、上映後にジャッキー・ビュエさんとのトークや観客との質疑応答があったので、ようやくヤオ・チン監督の世界の、とば口に立てたような気がした。もっともそれは、まったく一緒に観た田中久美子さん(パリ在住ジャーナリスト)の解説のおかげなのだが。
 二人のレズビアンの一人は、崩れかかったような映画館の座席で難民のように暮らし、もう一人はインターネットの世界でセクシー・アイドルとして縦横無尽に活躍するが、現実の世界では暗く他人に心を閉ざしている。映画館少女は彼女に惹かれ、アプローチするが、二人の心が交差することはない。ラストシーンで、映画館少女に「首筋が素敵」と言われたネット・アイドルは、首をすくめてセーターを口元まで捲り上げるが、その固く拒絶する孤独の表情が、わたしの胸を強く打った。忘れられないカットである。
 パリの街を歩いている時に、わたしが拙い英語でそれを言うと、いつも陽気なヤオ・チン監督が珍しくマジな表情になり「サンキュー」と言い、そして「あれは私だ」と言った。あらゆる映画監督が、このような思いを、ひとつ胸に抱いているのであろう。端くれであるわたしの場合は、それは街角に立つ変哲もない赤いポストであり、ピンク映画でその思いは誰にも伝わらなかったようだが。



 ヤオ・チン監督は、出くわすたびに、自分の口の前で、掌を口元に向けてパクパク動かし「ご飯食べた?」と言う。日本の中年以上の男なら、両手で飯を掻き込む仕草をするところだが、今回のツアーでは実によくアジアの女性監督たちがレストランに集い、料理をシェアしながら食べた。このシェアしながら食べる光景は、西欧の女性監督たちとの間ではまったく無かったものであり、アジア的コミュニケーションと呼んでも良いのではないだろうか(なお「大衆食堂の詩人」エンテツ氏が探求する「汁かけめし」は、アジアに通有の食事哲学であるようだ)。
 わたしたちは、同じ料理を分け合って食べながら、情報交換し、ヨーロッパ・ツアーの問題点などを出し合って、時にはタニア監督や浜野監督が代表になって、主催者に申し入れたりした。わたしが浜野監督に帯同し、ツアーの様子を写真に撮って世界に伝える(オーバーです)ことは、シンガポールの財団には了解されていたが、パリの現地コーディネーターであるクレティーユ女性映画祭のスタッフには、どう見ても男であるわたしの面倒まで、なぜ見なければならないのか不審らしく、時にはわたしも辛い思いをすることがあった。
 この資金提供した財団と、クレティーユのスタッフとの間に充分なコミュニケーションが無かったことが、参加した女性監督たちにとっても多くの困難を生んだのだが、溜め息をつき「アイム ギブアップ」などと弱気なわたしを励ましてくれるのは、タニア監督やヤオ・チン監督であり、はるかに年上のわたしは、思わず涙ぐみながら、アジア人同士の心がつながる連帯のようなもの、を初めて感じたのであった(なお、わたしの記録写真は、約束通りシンガポールの財団のホームページでも使われているし、クレティーユの報告書でも使われることになっている)。


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