2017/07

01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31

<< >>


 知人の殺人評論家が、新著を送ってくれました。蜂巣敦(はちす・あつし)という、名前からして禍々しいのですが、本名なのだそうです。殺人評論家になるべく生まれてきたような名前ですが、新著は『殺人現場を歩く』(ミリオン出版)。表紙には「かつて・ここで・人が・殺された」とあり、写真家と組んで18の殺人現場を訪れたドキュメントです。
 古いところでは、80年の新宿西口バス放火事件、88年から89年にかけての宮崎勤事件、新しいところでは今年3月の板橋スナック4人密室殺人事件などが取り上げられています。そこで人が殺されたことなど、近所に住んでいる人たちは忘れたいに違いありませんし、凶行現場となった家やマンションの一室に、それと知ってか知らずか、無関係の人が現在住んでいるケースもあって、殺人評論家がカメラマンを引き連れて訪ねて来るのは大いに迷惑なことだったでしょう。
 当たり前のことですが、殺人があったからといって、そこに特別な景色が展開しているわけではありません。わたしたちの近所と変わりない風景が写されていますが、逆に言えば、わたしたちの近所が明日、殺人の現場となっても何の不思議もないということです。実際、この本で取り上げられている新宿タバコ店経営者連続殺人事件の犯人が逮捕されるきっかけとなった、西新宿の会社役員夫妻が殺されたマンションは、わたしのすぐ近所です。一昨年のことですが、毎朝お風呂代わりに通っている年金センターのサウナからの帰り、コンビニで買い物して帰ろうとすると、目の前のマンションが封鎖され、警察官やら報道陣が詰め掛けているではありませんか。一体何事が起こったのかと思って、自室に帰りTVをつけると、ワイドショーでそのマンションが映し出されていました。
 戸山公園のホームレスが、被害者の運転手をしていて、逮捕してみたら99年と、この事件の直前に起こったタバコ屋2店の強盗殺人の犯人でもあったという、なんだか脈絡のあるような無いような変な事件です。今ではそのマンションも、当然のことですが、何事もなかったかのように人が出入りし、わたしもその前を通って事件を思い出すこともありません。
 この本には事件直後のタバコ屋の写真と、昨年の取材時の写真が載っています。自販機は撤去されているものの、古い民家は不動産屋の事務所として使われているそうですが、こうして写されると何か妙なオーラが漂っているような気がします。もっとも、わたしがそうであるように、日常接する近所の人たちは、今やほとんど思い出しもしないことでしょう。



 わたしの近所で起きた殺人事件だけでなく、わたしの知人が被害者として巻き込まれた殺人事件も、この『殺人現場を歩く』には登場します。92年の市川市一家4人殺害事件です。殺された父親は、事件当時は編集プロダクションを経営していましたが、結婚する前はわたしたちのライター仲間でした。結婚した相手、つまり殺された母親もライターで、わたしも何度か会って一緒に飲んだりしています。事件の第一報は、父親やわたしが原稿を書いていたスポーツ新聞のデスクからもたらされ、その時点では生き残った長女が共犯として疑われていました。母親の連れ子だったせいもあるでしょう。
 しかし、事件の概要はすぐ明らかとなり、この長女こそ酷い体験を強いられた最大の被害者であったことが明らかとなります。この事件については、すでに『19歳の結末・一家4人惨殺事件』(祝康成/新潮社)というノンフィクションが公刊されていますが、お通夜で並んだ4つのお棺、その一人は4歳なのでとても小さく、それを見ながらわたしは殺人に対する感覚が大きく変わるのを覚えました。
 ワイドショーで接する事件ではなく、生身の人が殺されたことを肌身で実感した時に、誰もが経験することでしょう。最近、被害者の遺族が声を上げていますが、わたしのように特に親しかったわけでもない知人が殺人の被害者となった場合でも「死刑制度撤廃」とは絶対言いたくない。特にこの事件では犯人が19歳で、本人も十数年後に出所した時、人生を生き直すために、教科書や参考書を差し入れてもらい、獄中で資格でも取ろうとしていたそうです。
 これまでの修羅のような人生とは別の人生を、という願いは分からないではありませんが、一昨年、最高裁で死刑が確定しました。死刑撤廃は世界の大勢のようですが、わたしはあの並んだお棺を思い浮かべる時に、殺す人間は自らが殺されることを承認しなければならない、死刑は国家による殺人というが、人間は等しく人間でなく、人間以外のケダモノたちも多数含まれているので、国の権力が人間以外のケダモノを殺したって「殺人」には当たらない、とわたしはあくまで主張し続けます。
 もっともこの本で、蜂巣氏は犯人や被害者の感情や内面に深入りすることなく、事件の起きた現場の風景を眺め、年月が経って風化していても、その痕跡がどこかに残っていないか、景色を読もうとしています。市川市の現場マンションは運河に面し、高圧線に囲まれていますが、その静かな写真からは日常生活の根本的な危うさが、気持ち悪いくらい伝わってきます。
 しかし、世の中にはわけの分からない殺人事件が一杯あるのですね。わたしも記憶にある井の頭公園バラバラ殺人事件では、ほとんど同じ大きさに揃えて捨てられた肉塊からは、血がきれいに抜き取られていたことを初めて知りました。10年近く経って、いまだに未解決です。
●蜂巣敦著『殺人現場を歩く』ミリオン出版刊1700円。



 光彩書房の多田編集長から『Hのある風景』という雑誌が送られて来ました。だいぶ以前に、飲み会でもらって瞠目し、この欄でも紹介した『知的色情』が3号雑誌で終わり、それを引き継ぐものだそうです。何でもこのシリーズ、最初の『激しくて変』が4号、続く『暗黒抒情』が2号、そして『知的色情』が3号と「敗北戦を戦ってきた」(編集長メッセージ)のだそうですが、相変わらず戦闘意欲満々で、カッコいい多田編集長です。タイトルとしては、やはり最初のものが、激しく変で良かったのではないでしょうか。今回の改題で「土俵際」に立ったそうですが「最後には本土決戦って手もあるしナァ」といきまく多田編集長の、揺るぎない自信の根拠はどこにあるのでしょうか。
 考えてみれば、わたしが知り合った20年前から、このスタイルは変わっていません。現状と先行きを猛烈な勢いで分析し、自信満々で新しい試みに挑戦しては、毎回「敗北戦」を戦いつつ、一方で奇妙な戦果を上げる。この号で描いてる作家たちも、そうした戦果の表われだと思われますが、中でわたしがもっとも愛着が深いのは、やはり早見純氏です。
 今回は「ワタシと早見純の20年近いつきあいの中で、一番のエロ漫」と編集長は絶賛していますが、確かに少女と父親の性交を細密な描線で、緻密に描いています。中でも抜き差しされる陰茎と陰唇の連続クローズアップ8コマには目を見張りましたが、その前に首を吊った母親の大きなコマがあって、悲痛なリリシズムを醸し出します。まさに「暗黒抒情」といった趣ですが、多田編集長はこの手の造語やキャッチフレーズ作りが大好きなのでした。編集長自身「早見ファンが喜ぶかどうかは別」としながらも、土俵際での「エロ増量」に大いなる自信を見せています。
 わたしは早見作品の、逆転した世界観の提示に感銘を受けた者で、今回のよくある話には惹かれませんが、描線のただならぬ気配には息を呑み、言葉を失いました。果たしてこれが「エロ増量」に結びつくのか、わたしは判断保留ですが、皆さんはどう思われるか。他の作品では、町田ひらくが達者な語り口で面白く読ませますし、巻末の華麗王女は相変わらず度肝を抜く描写です。さて、今回は何号まで?
●『Hのある風景』光彩書房刊920円。



 連載最終の今回、前号で予告したように、わたしが見てきた風俗シーンの回想を記して終わろうと考えていたのですが、そして八百屋の店頭での野菜との出会いによって、中年ストリッパーとしての新境地を切り開いた水沢さんや、ソープを引退した後、壁越しの一本抜きで歌舞伎町のゴッドハンドの異名をとった千景さんなど、心に残る人たちも少なくないのですが、あくまで個人的なノスタルジーに過ぎず、だから何だ? という気がしないでもありません。そんな時に、たまたま知友の殺人評論家や多田編集長が新刊を送ってくれたので、さっそく方針を切り替えた次第です。
 また、前号でこの連載コラムが「一体誰が読んでいるのか?」というテイタラク、と書いたところ、「私が読んでいる!」という読者の力強い葉書が一通、先ほど塩チン編集長の漫画屋からファックスされてきました。26歳の男性ですが、世の中広い、このコラムを読んでいるとわたしに告げてくれたのは、彼で史上二人目です。
 多田編集長の光彩書房で、かつてわたしが編集し、記録的な返品を招いた2号雑誌『クロス・ドレッシング』(女装マニア誌)をはじめ、わたしが編集したり書いたりするものは、そうしたごく少数の人たちとのコミュニケーションしか成立しないものだったのでしょう。そんなアマチュアでも生息できた古き良き(?)時代がエロ本業界にはありました。(もっとも、わたしがエロ本編集長を名乗っていたのは、白夜書房に改名する前の、末井編集長率いるセルフ出版の頃で、当時の何でもありのアナーキーな社風は、末井さんという特殊事情なしには語れません)
 現在わたしがピンク映画の監督として、多少なりとも成立しているのは(この業界でも、わたしの映画に対して「誰が観てるの?」式の批判は多いのですが)エロ業界でつちかったエロ表現への執着が、大いに身を助けているようです。といっても、せいぜい股間のドアップの多用ぐらいのことなのですが、映画青年風の監督たちには、なかなか抵抗があるようです。
 エロ本業界からピンク映画、さらには薔薇族映画と、いよいよ隘路にハマッテいくわたしですが、今回の読者からの葉書には励まされました。世に一人でもシンパシーを感じてくれる人のある限り、力を尽くしたいと思いますが、わたしの地味な性格上、多田編集長のような景気のいい進軍ラッパが吹き鳴らせないのが残念でたまりません。



<03年8月『漫画バンプ』(東京三世社)掲載>


comment

最初のコメントで、見出しのどぎつい言葉が検索エンジンに引っかかり、アクセスが増えるのではないかと推測した。これをせせら笑ったのが浜野監督で、死刑制度賛成みたいなことを書くと、これまでの読者が退くだけだ、と言った。この間の経過を観察した結果、どうやらどちらも正しかったようである。確かに一時的には、アクセスが急増した。検索エンジンでも「殺人評論家」のトップに来ていた。しかし、何度もそんな言葉をクリックする人が、いっぱいいる訳ではない。2,3日でアクセスは急降下し、むしろ以前より下回る日々が増えた。これは浜野監督の言うとおり、気色悪いことが記されているブログなど、見る気が失せたということだろう。諒解できることだ。今回の取り敢えずの結論としては、妙に意図的なことをやって、アクセスを増やそうとしても仕方がないし、また『漫画バンプ』の旧原稿も時おりアップしたい。いささかエグイことが書いてあるが、これもまたわたしが書いたものに他ならない。

いつも応援ありがとうございます。きょうは市場の島ダコの姐さんのところで小さいけれど、すさまじいシャコ貝の艶かしさに圧倒されました。あれが海ではまるで花園って言っていました。一度、見てみたいとも思いますが、スゴソーですね。なんだかぐじゃぐしゃ宇宙だーと、一人で吼えていますよ。方言ではアジケーというのだけど、味がいいのか、濃いのかとちゃっと分からないナー。沖縄語、まったく日常から消えてますね。日本帝国、万歳!でしょうね。

  • 河合民子
  • 2005/05/16 11:16 PM

河合さん、「サンニン」の花は、現在のブログにも蕾や花の写真がありますが、引っ越す前のブログで検索したら、より大きな写真がありました。わたしには見たことのない、生々しさが漂います。花もまた生殖装置でしたね。

http://navy.ap.teacup.com/showmyn/

ブログひとつをあっという間に満杯にして、次に引っ越すエネルギッシュな筆力には、ただただ目を丸くしています。

「女」ではなく「女性」というのか、と思って口が裂けても「女性」とは書かないと心に決めています。こういう視線こそが差別的と思います。変だと思ったのはパソコンで変換できない字があって、どうもこれもそうかと初めて差別語というものの存在に気がつきました。前に新聞社の依頼で原稿を書いたのですが、私にはまったく差別の意識はなく、昔の童謡の歌詞を原稿に放り込んだから、うんもすんもなく没にされてしまった。それから気をつけてはいますが、あの歌詞の言葉の響きと、そういう人たちをからかった子どもたちの強烈さが、波を蹴るという風景のなかで展開されていて興味深いものでした。イメージの喚起力の高さという意味です。

差別の問題は言葉ではどうにもならないはずよね、「自己の保つ視線」の問題と強く思います。

  • 河合民子
  • 2005/05/15 4:03 PM

この仕事に転職してから^^;、二つの会社から『差別語一覧』というのを送付されました。ひとつは、自分の原稿を書くときの注意マニュアルとして、もうひとつは「書評」を書くときに、他人様の本の中にどれだけ差別語があるかを報告するためです。

でも、「差別語」そのものは教員時代に教務課からも冊子を渡されていて、講義や会議では絶対に使用してはいけない言葉として刷り込まれた記憶があります。

おっとどっこい、じつは若気の至りで、すでに40歳の頃、ある全国的な詩誌に「差別語だけ」を用いた「詩」を書いたことがあります^^;

その結果、頭のゆるい自称「良識派」のおじちゃん詩人とおばちゃん詩人たちから、真面目に糾弾されたことがあります。あの人たちは、言葉を置き換えれば「差別の本質」がなくなるとでも思ってるんだろうか??

河合姐さん。どう思います??

ああ、キジムナ君を斬っていたときですね。差別した気はなかったけど、馬鹿にしたかった、というのがありますね。う、これも差別になるのかな。…何か差別ってメンドイね。ドサ周りの匂いってあるよね、独特の。オレってカッコいいだろうと、…え、ぜんぜーんと思っても芝居の人はもう最高潮っていう感じかな。その感じに馴れ合っている観客という垢じみた匂いのやさしさかも、と、あのキジムナ・バッシングの日々を思い出しています。

スロウさんは、まったく別物ですよ。

ヤマザキさん、「サンニン」の花のイメージって、ヴァギナ・デンタータって感じですよね。何か、参っちゃうのよね!!!

  • 河合民子
  • 2005/05/15 12:56 AM

>相当ハードながら「文化人」的扱いは受けているのではないでしょうか。

いえいえ^^;
会社からすればわたしは一種の広告ですから。それなりに営業的な要素は大いにあると思います。河合さんがかつて言っていた「ドサ周り(中央集権的差別語かも)の芸人」という評がわたしの場合もかなり近いと思います。出張講義の時に場外展示される主要なコンテンツが会社の出版物だったり、各種イベントだったりすることもありますし^^;

スロウハンドさん、リンクのコーナーに「誰を斬っているのか書評ブログ」と書いたので、気を悪くしてるのではないでしょうね。「誰を斬っているのか分からない」のではなくて、仰るような縛りを逆用し、批評されている対象を想像しつつ批評を読むという、かなり高級な(わたしには)作業を要求するところが、大変面白くもあり、面倒でもあります。もっとも、大概の書評は未読の本について書かれているわけで、それで分かったようなつもりにならないだけ、エッセンスが立っている(変な言い方ですが)気がします。スロウハンドさんの講演旅行は、掲示板の方でも時折拝見していますが、相当ハードながら「文化人」的扱いは受けているのではないでしょうか。フィルムとともに流れていく浜野監督やわたしは、時に旅芸人のようであるなあ、と思うことがあります。わたしはパンフレットの販売係でもあるので、テキヤのようでもあるような。

  • kuninori55
  • 2005/05/14 8:03 AM

まあ、誰を斬っているのか分からないブログの主としては、何もいう言葉がない。4月1日に「個人情報保護法」が発令されてから、たとえば仕事受注の契約上しりえた個人情報は、外部にもらせないとかなんとかあって、ペイの安いモノカキとしては大変なわけです。7時に経堂集合、あら、同じ小田急、わたしは町田です^^;
講演旅行のときは、4時に起きて、東京駅7時台発の新幹線集合なんてのが結構ありますぜ^^;

尾崎翠をめぐるブログであったはずなのに、わたしはいったい何をしているのだろう。翠もまた「変態心理」のユーモラスな探求者であったが、わたしはいささか図に乗りすぎているかも知れない。反省。

  • kuninori55
  • 2005/05/13 7:49 AM

自注:『漫画バンプ』は既に廃刊した、古いタイプのエロ劇画誌だったが、塩チンが編集するこの雑誌にわたしは10年以上(!)3ページのコラムを連載した。塩チンによれば「難民救済」的な意味合いもあったようだが、エロ本不況でその余裕もなくなり、連載が打ち切られた1年後ぐらいには、廃刊となった。わたしは自分の書いた原稿や脚本は、用が済むとみんな捨てているが、今回パソコンのドキュメントをチェックしたら、ほんの少数だが『漫画バンプ』の原稿が残っていた。自分でもいくらか愛着のある回があったのだろう。今回掲載したのは、最終回である。
 旧い駄文をわざわざ引っ張り出してきたのは、その愛着以外に、もうひとつ理由があった。このブログの管理者ページで「アクセス解析」をページ別に見ると、なぜか「エロ本業界の友」がダントツに多いのだ。多いといっても、まあ、たかが知れているのだが、わたしの少ない知友しか読まないはずなのに、なぜそんな以前のページへのアクセスが? いろいろ考えているうちに思い当たったのが、各種検索エンジンが機械的にサーチした中に「エロ本」という用語があり、それがたまたまヒットしたのではないか。そう考えると「ヴァギナ・デンタータ」や男女の「小用考」が絶えず上位に来ている理由が、明快に了解できる。わたしも思春期には、性的な用語を国語辞典で芋づる式に辿った覚えがあるが、もっともその種の期待でこのブログにやってきた諸君には、まるで役に立たない内容で恐縮至極。
 シモネタ・パワーは大したものだが、そこで試みにドギツイ用語を見出しに並べてみたら、わたしの推測が正しいかどうか検証できるのではないか? その結果が「殺人評論家、暗黒漫画家、エロ本編集長」となったわけだが、昨日の結果を見ると、なんとこれまでの最多アクセスを記録している。けっして飛びぬけた数ではないが、最多であることは間違いない。引き続き「アクセス解析」を観察してみるが、もっとも、いたずらにシモネタ用語で誘導したところで、それに応え得る内容ではなく、単純に失望させるだけ。今後は自粛しよう。

  • kuninori55
  • 2005/05/13 7:43 AM









trackback