2017/08

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 進退窮った、とはまさにこういう事態を言うのだろう。進むわけにも、退くわけにもいかない。わたしは洋式便器に満々と湛えられた水に浮かぶ、自らの糞便を凝視して、立ち尽くすのみ。何をして良いか分からないのだ。カリフォルニアのスタンフォード大学に隣接する、パロ・アルト市の「テラス形式」の洒落たホテルの一室。外は抜けるような青い空から強烈な陽射しが降っているが、わたしはトイレに籠もって、便器をひたすら覗き込んでいる。



 トイレが詰まったのだ。もともとトイレット・ペーパーを使う量が人一倍多いわたしは、紙を使用する直前にいったん水を流したのだが、その直後、ふと脚の間を覗き込んで心底仰天した。水が逆流し、力強くモリモリと盛り上がってくるのだ。その先頭部分には、排出したばかりの我が糞便を押し立てている! 便器から溢れ、足元にこぼれ出るのではないか、と恐慌を来たしたわたしは、思わずビビって腰を浮かしたが、幸いなことに便器の縁のくびれた辺りで水位は止まった。しかし、どうして、こんなことが、今、わたしに? 
 心理的にはパニックに近いが、まだお尻を拭いていない。対処するにしても、とにかくお尻を拭いてからだ。しかし、その紙を便器に入れるわけにはいかない。いっそう詰まらせることになる。室内を見渡すと、隅に屑篭があった。わたしはいつも以上に紙をたっぷり使い、それを折り畳んで屑篭に入れる。屑篭に申し訳ない気がしたが、緊急避難で止むを得ない。
 人は人生において、何回ぐらいトイレを詰まらせるものだろうか。わたしは自宅で一度、国内のホテルで一度。そんなものだ。小学校の頃に見せられた衛生映画で、拭き取る紙が薄いと黴菌が手に沁みてくる、というシーンが頭に焼きつき、わたしのトイレットペーパーの消費量は平均の倍以上。詰まりかけることは良くあるのだが、ちょっと時間を置けば、ペーパーが溶けて流れ出すことが多い。
 しかし、今、スタンフォードのこのホテルで、まだわたしは紙を使っていないのだ。確かに、アメリカ風のランチやディナーで、食物の摂取量は普段より多いが、それにしてもトイレを詰まらせるほど、山ほどの量を排出したとは思えない。詰まりそうな繊維質の食べ物が多かったとも考えにくいのに、この便器は、満々と水を湛え、糞便さえ浮かべて、一向に流れ出す気配を見せないのだ。



 因果関係を把握できないこの事態は、わたしにとって、突如降りかかった不条理としか言いようがない。このブログで、わたしは度々尾篭な方面に言及してきたが、妙な関心を示すと、向こうからやって来るものなのか? しかし、こんな状況に際会し、「シメタ! ブログのネタができた!」と喜ぶ人はいないだろうね。わたしは肝を潰し、茫然としている。
 しかし、途方に暮れているだけでは、進展はない。わたしは当事者として、この不条理に立ち向かわなければならないのだ。ひとつ対策が浮かんだ。クローゼットに行き、日本から持ってきた安物の針金ハンガーを持ってくる。これをバラして、一本の針金にし、便器の排水口を突っつこうという作戦だ。針金の留めてある箇所を外し、折れ目で屈曲はあるが、首尾よく伸ばすことには成功した。これを便器の底に向かって押し込んでいくが、そして結構奥まで進むのだが、何の変化もない。そこで、針金を突っ込んだまま、ぐるぐる回転させてみるが、これも手応えなし。他に方法が考えられないので、何度も試してみるが、力を入れすぎた反動で針金が飛び跳ね、飛沫がこちらに飛んできて、思わず「ギャッ!」と逃げる。
 ハンガー作戦は、まったく無効だった。妙な形に伸びたハンガーは、お役御免で、これも屑篭行きとなる。では、他に自分で打つ手はあるか? どうも無さそうだ。脂汗が全身の皮膚にまつわりつき、気分が沈々と滅入ってくる。一番素直な解決法は、廊下を行き来しているメイドに頭を下げ、開通してもらうことだが、どうも乗り気になれない。宿泊客とメイドという、きわめてシンプルな機能的関係に過ぎないのだが、自分の糞便を他人の眼に晒すことに抵抗があるのだ。何故か?



 臭気に関しては、ほとんど意識に上らなかった。眼前で起こった出来事に圧倒され、そこまで意識する余裕がなかったというのが正しいだろう。他人が入ってくれば、イヤでも臭気の問題に直面し、わたしは恥ずかしいと思うだろうが、どうやらそれは付随的な問題で、わたしはこの水上に浮かぶ糞便、というモノ自体を、人に見られたくない。たとえ、相手が清掃の専門家であるメイドでも、抵抗がある。おそらくメイドにとって、それは珍しくない経験だと信じたいが、それでも踏み切れないのだ。
 しかし、どうして浮かんでるのか? 通常、一塊になって水の底に沈んでいるものだが、わたしの眼前のそれは、大小に千切れて、水面の各所に展開している。おそらく下から逆流する水の力によって、断片化し、表面に浮かび上がったのだろうが、水が鎮まった今、浮かんだままということは、本来水より比重の軽いものなのだろうか。東南アジアの水上トイレで、水に浮かんだ糞便を魚が食べるという話を読んだことがあった。
 まあ、しかし、そんなことはどうでも良い。問題は、この水上の糞便を間に挟んでは、人と向かい合えないということだ。わたしは懸命に考える。誰となら、この事態を共有できるのか? 脂汗を流しながらの結論。それは親、あるいは祖母。遠い過去において、わたしの糞便を始末してくれた人たちだ。しかし、祖母はとっくに亡くなり、両親は会津の山の中で暮らしている。カリフォルニアには間に合わない。しかし、たとえ一緒に旅行していたとしても、老いた親にわたしは見せることをしないだろう。わたしは便器に浮かぶ糞便を見つめながら、ニンゲンの根源的な孤独を思った。



 別な角度から考えてみる。どうしても他人と分かち合えない、我が糞便とは何モノであるか? わたしの口から摂取され、咀嚼されて、わたしの体内の長い消化管を延々と経巡り、旅をしてきたモノたちだ。ただし、生体の維持に必要な成分は吸収され、血肉となっているので、そうしたポジティブなパートとは隔離された、ネガティブなパートである。しかしこのネガティブは、フィルムにおけるネガと同様に、ポジと反転関係にあるのではないか。
 フィルムにおいてはネガこそオリジナルであって、ネガを焼いてポジ・プリントを製作するのだが、あるいは糞便には、体内に摂り込まれたポジを反転した、原基としてのネガが刻まれている可能性はないか。それを人に見られることは、わたしにとって肉体をメクリ返して見られることに等しい。それで、わたしはメイドに見られることも拒もうとする?
 どうも、論理に若干無理があるようだ。第一、このわたしの眼前で水上に展開する糞便は、すでにわたしに対する親密さを失い、ただわたしをひたすら困却させるだけの、何か見知らぬモノと化している。わたしの体内から排出されたことは疑いを入れないが、わたしとの有機的な繋がりは、とても感じることができない。
 だが、しかし、これがもし他人の糞便であったら、わたしはこのような雪隠詰めの状態に、よく耐えられるだろうか? 絶えられないに違いない。今ではわたしとは切れたモノではあるが、つい先刻までわたしと一体であったモノでもあるのだ。わたしと糞便は、他人に対して排他的な関係で繋がっている。
 それでは、わたしはメイドのそうした困惑を先回りして、彼女にとって他人の糞便である、これらのモノを見せたくないのか、とも思うが、そこまでわたしは親切ではない。明確な理由は分からないのだが、自らの糞便を他人と分かち合うことはできないという、動かし難い現実のみが、目の前にある。



 打つ手を失い、わたしは便器を凝視して、時おり溜め息をついたり、唸ったりしながら、立ち尽くすのみ。これは、どこかで読んだシチュエーションに似てないか? そうだ、サルトルの小説「嘔吐」の主人公、アントワーヌ・ロカンタンだ。実は、4月にパリのリュクサンブール公園でマロニエの樹を眺めていたら、「嘔吐」の主人公が吐き気を催すのは、マロニエの樹の瘤ではなかったろうかと、急に気になり始めた。それともプラタナスだったか? 確か瘤のできる樹だった気がする。特に好きな小説ではないのだが、高校時代に読んで、ほとんど分からなかったものが、10年ほど前に改訳が出て、たまたま読んだら、妙に身に沁みた。編集やライターといった無闇と人の関係が多い職種から、ピンク映画の脚本という地味な職種に転じ、日常的に付き合う人たちがすっかり減って、ロカンタンの孤独なモノローグとシンクロしたのだろう。
 それで、パリではマロニエの瘤の写真をいっぱい撮った。帰国後に小説をチェックしてみると、ロカンタンが吐き気を催したのは、正しくはマロニエの木の根株だったのだが、ついでに改めて読み始め、カリフォルニアにも携帯していたのである。
 どこか形而上的なマロニエの樹と、わたしの形而下きわまる糞便とを同一視されては、ロカンタンが怒るかもしれないが、わたしはどこに共通したシチュエーションを感じたのか?
 普段見慣れてるはずのマロニエの樹の、ゴツゴツ節くれだった根株の塊が、不意に日常的な装いを剥がれ、嘔吐を催す「実存」として、ロカンタンの眼に立ち現われたように、今、わたしの前にも我が糞便が、詰まった便器の水上にぷかぷか実存する。確かにこれは、言葉や習慣で、わたしの日常生活の中に過不足なく位置づけられた在り方ではなく、ひどく露わなモノそのものとして存在し続けているのだ。わたしはここで吐き気を催しても良いのだが、そんな余裕はない。



 いや、ロカンタンにあって、マロニエの根株は彼の身体の外部にあったが、わたしにとってこの糞便は、わたしの内部を通過しただけでなく、今やわたしの肉体の一部を構成するものの、ネガでもあった。やはりロカンタンの孤独には、お金を持った知的エリートの、観想的な生活といった印象が付きまとう。もし彼が嘔吐に止まらず、実際に吐いていれば、その吐瀉物と我が糞便は、消化器官の入り口と出口から排出されたモノとして、好一対を成すのだが、彼は吐かない。酒に酔っても吐かないと、わざわざ言明しているぐらいだから、実に吝嗇な野郎だ。
 まあ、わたしも以前は大酒するたびに吐いていたが、吐瀉物だって、食べた中身が半溶解常態で衆目に晒され、異臭も発して、人に見られたくない存在ではある。だが、酔った友人が路上で吐くのを手助けしている姿は、日本の夜の繁華街や駅周辺では、日常目にする光景だ。また、欧米の映画を見ると、死体を目にするたびにお決まりのようにトイレに駆け込み、ゲーゲー吐いているが、日本人はあまりやらない。しかし、同じ消化器官の上端と下端から排出される2種類のモノに関して、日常的な序列は確実にある。
「嘔吐」自体には、吐瀉物が含まれないので、それに対応するのは「便意」ということになるが、サルトルのおかげか、嘔吐にはどこか精神性が付きまとって、悲劇の欠片が感じられるが、便意はひたすら喜劇的だ。かつて水木しげる御大の「河童の三平」という傑作マンガがあり、繰り返し語られるウンコのエピソードに大笑いした。子供は糞尿譚が大好きだ。



 同じく実存するマロニエの根株と、水上に浮かぶ我が糞便だが、ロカンタンとわたしと、彼我の違いはどこにあるか? 正直なところ、わたしはどうも、ロカンタンがイケ好かないのである。カフェのマダムと定期的に寝ながら、性欲の捌け口の肉そのものとして扱う一方で、数年前に別れた恋人のアニーとは「完璧な瞬間」や「特権的状態」を巡って、愚にもつかない議論をし、ひたすらひざまずく。こうした肉と精神の使い分けも、一種の女性嫌悪だろう。
 また、正統的な教育を受けていない「独学者」も戯画化される。いささか愚鈍ではあるが、図書館の本をアルファベット順に全て読破しようと志し、7年かかって「A」から「L」まで来ながら、図書館内で高校生の可愛い男の子の手や足をそっと撫でて、警備員に捕まり、人生の破滅の危機に瀕している執達吏の書記。あと6年あれば、図書館の全ての本を読み切れるだろうという壮大なプランが挫折した彼には、仕事を首になったり、世間で「変態!」と囃される以上に、もう二度と図書館には足を踏み入れることが出来ないのだ、という事実の方が衝撃だったに違いない。
 他人とうまく折り合いがつけられず、いつもギクシャクしながら、ひたすら図書館の本にすがっている、ブッキッシュな姿は、哀れっぽく滑稽だが、どうもわたしには身につまされてならなかった。わたしもまた、あれほどの野望は抱かないが、ちょろっとした独学者の一員ではある。だから、他人の生活を、どこか高みから見下ろすようなロカンタンの視線に、ムッと来るのだろう。
 余談だが、浜野監督のドキュメンタリーを撮りたいと申し入れてくれた、パリのハンサムな映像作家ジュリアンの妻・ジュリーのお母さんが日本人で、お宅に招かれたことがある。このお母さんは精神科のお医者でもあったが、「嘔吐」の対象がマロニエの「瘤」であったかどうか、わたしたちより数歳上のお母さんに尋ねようと、サルトルの名前を出したところ、歯牙にもかけず一笑された。ああ、ボーボワールと結婚しない、理想のカップルとか言われながら、陰でさんざんいろんな女と関係を持っていた、とんでもない男ね、といった具合だ。このお母さんは「第二の性」全何巻だかを読破して人生が変わった、というぐらいだから、ボーボワールに思い入れが強いのだろうが、現代のパリではサルトルの評価も地に堕ちている気がした。



 いや、わたしは、詰まったトイレを前に、難局を打開できない苛立ちを、サルトルや「嘔吐」にぶつけているだけではないのか。女性嫌悪だけでなく、同性愛嫌悪も感じさせる「嘔吐」だが、1938年に出版されたことを考えると、時代的な制約と言うべきだろう。自らの孤独と向き合うロカンタンの語り口には、依然として心惹かれるものがあり、その時代には少数の高等なインテリのものだったが、いまやすでに大衆的な孤独となって、わたしなども、ついシミジミしてしまうのだ。冒頭部分の「なんでもないのに奇を衒ってはいけない。日記をつけるときは、つぎのことが危険だと思う。すなわち万事誇張して考えること、見張っていること、たえず真実を歪めることである」というロカンタンの自戒は、こんなわたしのブログを綴る際にも通用することだろう。
 わたしは、たまたま遭遇した些事を「奇を衒い、誇張して」語っているだろうか。その気味がないでもない、などと反省的思惟に陥るのは、ロカンタンなど引き合いに出したせいで、「河童の三平」の時代は良かった、あれはウンコのユートピアである、などと考えていたら、「墓場の鬼太郎」「ゲゲゲの鬼太郎」のキタローつながりではないだろうが、記憶の彼方から、わたしの目下の窮境をピッタリと言い表す言葉が、不意に飛び込んできた。「絶対矛盾的自己同一」というヤツである。
 断っておくが、わたしは「善の研究」で知られる西田幾多郎の著作を読んだことは一度もないので、おそらく高校の倫理社会とか、大学の概論、あるいは誰かの引用で読んだ言葉なのだろうが、それがどういう意味であるか考えたことなど、まったくなかった。しかし、今、外国のトイレのなかで抜き差しならず対峙している、わたしと、便器に浮かぶ自らの糞便の関係を表わすのに、これ以上に見事な表現はあるだろうか。



 いまや相容れない関係になっているように見えるが、両者はかつて一心同体であり、しかし外部に分離された後は、あまりにも露骨なモノ自体として実存するので、同じく体外に排出された子供などと違って、有機的な連関はすでに失われているものの、これが誰のものでもない、わたしのモノであることを、先方はその存在をもって強く主張し、わたしもまた承認するので、わたしたちは矛盾しながらも同一の「わたしたち」に帰属する。
 まあ、実際にこんなことをトイレのなかで考えたわけではなく、また「絶対矛盾的自己同一」を辞典などで引いてみると、まるで出鱈目の解釈なのだが、あの脂汗流れる雪隠詰めを一言で表現するのに、わたしの実感に沿って、これほどしっくりした言葉は無いのだった。
 さて、わたしが最終的にどうしたかと言えば、悶々とした濃密な時間を、延々と過ごした後、フロントに行ってトイレ詰まり用の道具を借りて来て、何とか自力で開通させた。直接的には誰の目に触れることも無く、何とか打開したわけだが、その際に、似たような半球型のゴムの道具が、日本では内部から吸引するのに対し、アメリカでは空気を押し込んで、強制的に押し出す方式であること、アメリカの便器の底には排出口の向かいから流れる強い水流があって、中途半端な開通では底部だけを水が流れ、表面に浮かぶモノは浮かんだままであることなどを発見したが、わたしはこの、カタルシスのついにやって来ない自問自答、あるいは堂々巡りに、もう疲れた。次の機会に報告することにしよう。
 ひとつ言えることは、直後にメイドの使用法に関するレクチャーも受けたが、あのトイレには明らかに欠陥があったということである。実際、わたしは深夜にもう一度、半球型のゴムの道具を使う羽目に陥った。アメリカのトイレには、くれぐれもご注意を!



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