遅滞していた脳細胞がハッと目覚める鳥取・翠フォーラムの2講演と活弁上映だったが、思わぬ出会いもあり、さらに岩美町浦富海岸のランドアートには唸った。

  • 2005.07.23 Saturday
  • 13:35
 わたしが尾崎翠フォーラムの実行委員会と、決定的に袂を分かちながら、如何ともし難く7月9日のフォーラムに引き寄せられて行ったのは、ひとえに9日に行われた川崎賢子さんと佐々木孝文さんの2講演、および澤登翠さんの活弁上映に対する好奇心ゆえであった。翌10日には、第一回目のフォーラム以来、4年ぶりの『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』の上映もあり、どうせ両日参加するなら、最初から辞めなければよかったじゃないか、と言われそうだが、しかし、そういうものではないのである。わたしなりに「筋」というべきものがあって、わたしはそれに従って「一観客」として参加した。


●岩美町・浦富海水浴場の一方の突端に忽然と現われる「ランドアート」。竹が組み合わされているのだが、岩美町に製作の本拠を置くアーティスト、大久保英治氏の作品だ。県立山陰海岸自然科学館の背後を登っていったところにある。手前の竹の柵に沿っていったところが、入り口●

 実のところ、今回の三人の方々とは、これまでいくつかの縁があった。川崎賢子さんとは、昨年のフォーラムでもお会いしたが、かつて岩波の市民セミナー「『尾崎翠』を読む」の5回シリーズのうちの1回を受講し、「恋するテキスト−尾崎翠的世界におけるセックス/ジェンダー/セクシュアリティ」と題されたお話には、すっかり興奮してしまった。何しろ当時の「変態」をめぐる言説から始まるのだから、嬉しくなってしまう。01年11月のことだったが、つい浮き浮きして、岩波の人に、このエキサイティングなお話は単行本になるのかどうか聞いたところ「セミナーブックス」として出るということだった。これが遅れに遅れ、今年には刊行されるらしい(時間が経っているので「セミナーブックス」ではないかも知れない)。
 佐々木孝文さんとは、映画『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』の完成直後に、鳥取市歴史博物館「やまびこ館」の学芸員としてオープンを準備している彼とお会いした。その時は「やまびこ館」で、映画の一部をビデオで流したいという、有りがたい申し出を頂いた。その後、フォーラムの実行委員にもなられたが、これまでは、もっぱら現場で首に手ぬぐいを巻き、裏方に徹されていた。01年には「『永遠の妹』と『九百人のお兄さん』−大正・昭和の鳥取文壇と尾崎翠−」という、新たなコンテクストからの「研究ノート」を発表し、今回の講演はその延長線上にあるに違いない。期待するなという方が無理である。
 また、今年の2月2日に下北沢タウンホールの「活動弁士、澤登翠の世界」という「活弁付きシネマ&トーク」を観に行き、これには衝撃を受けた。澤登さんと浜野監督が、鳥取空港でばったり出会い、松本侑壬子さんの紹介でお話した際に、澤登さんが大の尾崎翠ファンであることを知ったのは、映画の製作前のことである。その縁で、03年の尾崎翠フォーラムでも上映&講演をして頂いたのだが、残念ながらその時は浜野監督もわたしも海外にいた。それで、今年の2月に初めて澤登さんの活弁を目にし、耳にした。戦前の時代劇と、アメリカの「チビッコギャング」シリーズの2本立てだったが、和洋の対照的な世界を見事に活写しながら、目まぐるしく人格の入れ替わる活弁のスペクタクルに圧倒され、これこそ「第七官界の一人芸術」ではないかと驚倒した。
 当初、浜野監督と共に岩美のカワカミ課長のお宅を訪問するまで、大山(だいせん)の宿坊にでも籠もっていようか、などと考えてもみたが、あえなく方針転換。大山で再生した志賀直哉の主人公みたいに、意固地を張り通すタイプじゃ、わたしはなかった。


●足元には砕石が敷かれ、上部は空に向かって抜けている。何かが籠もる「巣」のようではあるが、まるで閉鎖的ではない。雨が流れ、空気が流れる●

 直前の方針転換は、見事に大成功だった。川崎賢子さんの講演「尾崎翠を読む−尾崎翠のいる文学史」は、「『歩むこと』をキーワードに」したもので、昨夜一人ビールを飲みながら「歩行」の「おもかげをわすれかねつつ〜」の詩を想起していた身には、心躍るタイミングだった。この「忘却だけが目的の、目的地に着かない歩行」の前に広がる風景は、東京近郊のようでもあるし、鳥取のようでもある。川崎さんは「おもかげ」を、鳥取の面影村や面影小学校との掛け言葉として、その風景は「人間がそこから出てきた場所・立ち去ってきたところと、今現在住んでいる場所との間」、翠に即して言えば鳥取と東京の間の「往還で紡がれた」「抽象的、メタフィジックな風景」ではないか、と言う。
 岩波市民セミナーのように「変態」論で始まらないところに、中高年の多い鳥取の聴衆への心づかい、サービスが感じられたが、だからと言って誰にでも分かるように優しく噛み砕くことなく、「散歩を通じての身体の流動化」「移動することと、うつろうこと」「詩の中で消滅を夢見るが、作中の少女の身体は消えない」といった凝縮された小気味いいフレーズが、速いスピードで展開し、こちらの二日酔いの頭の速度では、理解が追いつかないのだった。
 これはもう活字になった段階で、じっくり味読させて頂こうという気になったが、しかし、歩く都市空間と田園空間、乱歩や海野十三の推理小説における歩く光景、ボードレールの遊歩するフラヌール(遊歩者)、ポーのストーカーのような歩く人とドッペルゲンガー、等々該博なバックグラウンドから速射砲のように繰り出されてくる言葉の数々を聞いているのは、まことに心地良いものだった。前回の市民セミナーでも感じたのだが、川崎さんの講義は、わたしには時に、美しい音楽のように聴こえる(論理的な理解は、ギブアップということか?)。


●目の高さに空いた、窓のようなものからは、間近に海が見えるのだが、この日は雨模様で煙っている。しかし、芸術家は、遥か遠くにユーラシア大陸を臨んでいるのだ(カワカミ課長談)●

 翠の初期作品においては「歩くことが方法論」であり、陸と海の境界を歩きながら諸感覚をフルに活動させていたのが、後期作品になって、いつの間にか「散歩嫌い」「外出嫌い」「人間嫌い」がモティーフになってくる、という辺りから、川崎さんのお話は佳境に入ってくる。「歩かない散歩」はいかにして行われたか?
 「詩人の靴」における津田三郎の「眼の散歩」および視覚と嗅覚の交感、「新嫉妬価値」における「耳鳴りの漫歩」と「クロオズアップ」などのシネマ・アイ、「こほろぎ嬢」の、桐の花の匂いにまつわりつかれる「鼻の散歩」、など枚挙に暇がないのだったが、その行き着いた果てに「地下室アントンの一夜」があり、「引きこもりの先駆け」のような土田九作の「観念の移動」が「人間と動物の間」「意識と無意識の間」において行われ、「生起するまま、うつろうまま」描かれた「内的独白」は、ジョイスの「ユリシーズ」に通じるものだと評価される。歩かないが、歩く以上の方法で「世界の彼岸へ」向かう、というまことに颯爽とした評言は、本HPの資料コーナーに収録した石原深予さんの「地下室アントンの一夜論」に通じるものがあり、同じ会場にいた石原さんはどのように聞いたことだろう。
 この一連の中で「映画漫想」における「隠遁と驀進」の、引き裂かれつつの再編統合、というところで、「影への隠遁」の章の一節に触れて頂いたのは、当ブログにとって望外の喜びでした。もちろん、わたしだけの閉ざされた喜びではあるが。
 最後に、川崎さんは「第七官界彷徨」を取り上げ、「足の散歩を封印したテキスト」と位置づける。そして、二助が町子に、柳浩六邸への道のりを説明するのを「匂いの地図」「記憶の中の無意識の世界を描く地図」と指摘されたのには、すっかり舌を巻いた。「歩むこと」をキーワードにすることで「解体に瀕しながら、オルタナティブを」模索した翠の文学の特質が、ここまで語れてしまうのだ。
 そして、これまで尾崎翠は異端の作家だったが「尾崎翠が真ん中にいる文学史が、これから作られる」と締め括ったのは、まるでブーメランが戻ってくるように、鳥取の聴衆の皆さんへの、温かい励ましとサービスであったろう。さっそく翌日の「日本海新聞」の記事では、このフレーズを使っていた。
(なお、以上の要約めいた紹介は、川崎さんの講演が音楽のように聴こえるわたしの、貧寒な頭脳に飛び込んできた断片をつなぎ合わせたもので、今年中には発行されるフォーラムの報告集をお読みください)


●浦富海岸のもう一方、田後(たじり)港を見おろす突端には、ふたつのランドアートがある。いずれも空に向かって開かれた形で、自然科学館側の「巣」型とは対称を成す。何かを受信するのか?●

 川崎賢子さんのコンダクトによって、尾崎翠の内なる世界を求心的に旅してきたわたしたちは、次の佐々木孝文さんの「尾崎翠と鳥取人脈−モダニズム時代の『中央』と『地方』」で、一転し、眺望の良い外部の世界へと導かれることになる。創樹社版全集の稲垣氏の「解説」以来、翠の文壇的な「孤独」「孤立」が強調されてきたが、佐々木さんは「歴史社会学」からの実証的なアプローチによって、翠が鳥取出身の人脈と深くつながっていたことを、パソコンの写真をスクリーンに投影しながら、ビジュアルな親密感をもって解説した。
 鳥取人脈といっても、ローカルな地方文化人というわけではない。生田長江、生田春月、橋浦泰雄に時雄の橋浦兄弟など、「中央を方向付ける(力を持った)地方人脈」なのだ。中でも尾崎翠の生地、岩美町の橋浦兄弟は、二人以外にも多士済々で「山陰のカラマーゾフの兄弟」と呼ばれたというエピソードは可笑しい。橋浦泰雄の若き日のボウボウ髪は、今だって度肝を抜くだろうが、共産主義者にして画家であり、民俗学者として大成した傑物だ。他にも、癖の強い「変な」人たちが、鳥取にはゾロゾロいたのですね。
 あらゆる「運動」を嫌ったように見える翠が、1926年(大正15年)橋浦泰雄・時雄兄弟を中心に結成された「鳥取無産県人会」に参加し、そこで生田春月・花世夫妻と知り合ったというエピソードも、佐々木さんの文脈で見ると生き生きと甦ってくる。1930年に鳥取で行われた講演会に向かう途中で、春月は自殺したが、同じく講師として招かれていた翠が、春月を気遣って橋浦泰雄に宛てた書簡など3通が、石原深予さんと佐々木孝文さんによって発掘され、02年の尾崎翠フォーラムで発表されたことは記憶に新しい。
「私は一足お先に帰郷し、むかうでお待ちすることに決めてゐ増すけれど、生田氏にはなるたけあなた方と同道して頂いて、社の好都合のやうにし度く思ひます」(同書簡より)。
 翠には、春月の自殺の予感のようなものがあったのだろう。


●こちらの中央部には石が積まれている。「巣」の地面に敷かれていたのと、同じ砕石だ。高い崖のようなところに、石を運び上げる手伝いをカワカミ課長もやったとか。エライ労働だったらしい。大久保氏のプロジェクトを、岩美町がバックアップしている●

 佐々木さんのグランド・デザインは「モダニズムとファシズムが交錯する」時代にあって、時代を方向づける場所に、鳥取県人がいた、というものだ。そうした時代認識の中で、アナキストの大杉栄が、面識のない明治の元勲、後藤新平のところに、生活費をたかりに行き、玄洋社経由で見事手中にしたエピソードを例にあげながら、「社会主義者と国粋主義者が同じ地平」にいて、不思議な交流があったという佐々木さんの視角の据え方に、わたしはワクワクし、エキサイティングなものを感じた。
 正反対の極にあるもの同士が、互いに認め合うというのは、よくあることだろうが、双方を視野に入れて、複眼的に評価するというのは難しい。花田清輝流に言えば、ふたつの中心を持つ「楕円の思想」だ。福岡出身の花田が、戦時中に郷土の先輩、中野正剛の東方会と交流があったことを、戦後、吉本隆明が鬼の首でも取ったかのように告発したが、そんな単調な攻撃が有効に見えて、支持された時代があったのだ(『復興期の精神』の初版跋に、戦時中の身の処し方が軽妙に記されている。花田読者には有名な箇所だが、これは「笑う清輝」で紹介しよう)。
 また、佐々木さんが紹介する、橋浦時雄の未刊分の日記も、当時の「社会主義」に対する庶民の気分を伝えて愉快なものだ。
「『あなたは僕のドコが好きなんです』『あなたの社会主義なのが好きなのよ』と云ふ。『社会主義と云ふやうな問題を取扱ふ人はキットあたまが良いんだわ』と賛美する。拡さんは泰雄兄にも少なからずひきつけられたらしい」(大正13年(1924年)7月7日)
 佐々木さんによれば「社会主義なのは」「高等不良少年」ぐらいの意味ではなかったかという。先日、岩美町の榎本町長を訪ねた際に、共産主義者だった橋浦泰雄には、今でも地元の反発が少なくないというお話を聞いたが、おそらく日記の会話は東京において成されたものだろう。
 ここで、佐々木さんの研究ノート「『永遠の妹』と『九百人のお兄さん』−大正・昭和の鳥取文壇と尾崎翠」(『Φ ファイ 人文学論集 鳥取』01年6月臨時増刊号)を開くと、橋浦泰雄を中心にした東京の「同郷人グループ」と、鳥取に留まり続けた吉村撫骨の生き方を、両極とした分裂が描かれ、尾崎翠はその「分水嶺」上にあったのではないかと指摘している。これは、川崎賢子さんの東京と鳥取の「往還」にも繋がるが、佐々木さんはここでも両極を押さえた上で、尾崎翠の故郷に帰ってからの文学的沈黙を「そこには『挫折』ではなく『第七官界からの帰還』をみるべきであろう」という結語は、見事に説得的だ。


●田後港の二つ目のランドアートから、陸側を臨む。こちらは雨風によって、相当傷みが進んでいて、自然の中で朽ちるのもランドアート、というアーティストの考えらしいが、町としては修復したい気持ちもあるようだ●

 川崎賢子さんの高密度、ハイスピードの内的宇宙から、佐々木孝文さんの俯瞰的、開放的な外部の眺望を経て、わたしたちは澤登翠さんの活弁による『椿姫』上映という、五感を越えた「第七官界」的世界に突入していった。
 上映前に澤登さんのトークがあり、アラ・ナジモヴァと尾崎翠について語られた。昨年のフォーラムで、リヴィア・モネさんによって、わたしたちの多くは初めてナジモヴァの写真を見、彼女の破天荒な生き方を知ったのだが、早くも今年、ナジモヴァ主演映画を澤登さんの活弁で観ることができるのは、わが宿敵とはいえ、翠フォーラムの企画を称えたい。(いつから「宿敵」になったのだ? オーバーになっていないか?)
 澤登さんは「映画漫想」の中の「(ナジモヴァは)技巧天国を教える」という言葉を取り上げる。これこそ「アンチ自然主義」を声高く標榜した翠の、文学にも通じる芸術観の表明であった。また、『椿姫』は、映画の発明から間もない1907年に、早くもデンマークで映画化され、12年にはサラ・ベルナール主演のフランス映画が作られ、そして今回のナジモヴァ版は21年の製作。さらに日本で、27年に岡田嘉子主演で撮影中に、彼女がソヴィエトに逃避行という『椿姫』をめぐるエピソードも、実に興味深いものだった。澤登さんは、この物語は「愛の高揚と障害を描いた、メロドラマの祖型」だと指摘する。
 また、このナジモヴァの独立プロ第一回作品である『椿姫』では、ナジモヴァの相手役のヴァレンチノと後に結婚する、セットデザイナーのナターシャ・ランボバに注目するよう、澤登さんは聴衆を促す。この映画は「女性たちの手によって作られた」という澤登さんの視点は、昨年のモネさんの「レズビアン文化」にもつながるものだろう。
 上映が始まり、澤登さんの活弁の放つオーラについては、わたしは紹介する言葉を持たない。実際に立ち会って、堪能してください。五感が震え、六感、七官へと誘われます。
 なお、瑣末なことを言えば、尾崎翠は、この映画でナジモヴァのカツラに着目していたが、わたしは独特の三白眼の使いまわしに魅せられた。現代にはありえない不思議な表情で、どこか面妖でもあり、時代の美意識について感じるものがあった。ここで憎まれ口を叩けば、澤登さんの活弁を乗せるには、マイクを含めた音響設備が、いささかお粗末であったのではないか。手弁当の素人集団とはいえ、日本で最高のゲストを迎えていることを銘肝すべきだろう。


●こちらの中央部には植物の杉。もう一方の石=鉱物と対照的な緑が美しい。雨ざらしの中で、周囲の竹は朽ち、植物は成長していく。なお、大久保英治氏は、この浦富海水浴場の両翼から向かい合ったランドアートを、さらにスケールアップさせて、鳥取砂丘と、対岸の韓国の両方でランドアートを製作した。ユーラシア・アートプロジェクト参照●

 ほとんど参加するつもりのなかった尾崎翠フォーラムを、直前に翻意したおかげで、期待を上回る2講演と活弁上映に立ち会えたのだが、さらに思いがけない出会いまであった。HPの「尾崎翠参考文献目録」でお世話になっている、石原深予さんと森澤夕子さんにお会いできるのは、予測していたが、『臨床文学論−川端康成から吉本ばななまで−』(彩流社)の著者、近藤裕子(ひろこ)さんに久しぶりにお会いし、短い時間ながら親しくお話させて頂いたのは嬉しかった。97年に発表された「匂いとしての<わたし>−尾崎翠の述語的世界」は、わたしにとって忘れ難く刻印された論文だったが、近藤さんは今年間もなく尾崎翠の研究の歴史をまとめられると言う。楽しみだ。
 わたしは今回、自分がフォーラムにとって場違いの存在であることを深く自覚し、フラフラ顔見知りの間を歩いたりせず、自分の席で、ほとんど置き物のようにジーッとしていたので、実はご挨拶すべき人たちにも失礼してしまった。これもまた、わたしなりの「筋」のつもりだったが、今から考えると間違っていたかも。
 当然、交流パーティーにも出席しなかったのだが、そんなわたしに「会いたい」と言ってくれた人があったことを、翌日、浜野監督に聞き、その名前を知って驚愕した。「ヒデヤマさんて言ってたかな?」と浜野監督は呑気に言うが、もしそれが「日出山陽子さん」だったら大変なことだ。79年の初めての創樹社版・尾崎翠全集で、未発表作品の探索や年譜製作に大いに力のあった人だ。稲垣氏の主宰する雑誌『イデイン』にも「尾崎翠に関する幾つかの資料について」という文章を発表されている。
 それが、いつからかプッツリと名前が見えなくなり、創樹社版では年譜のクレジットが、稲垣氏と日出山さんの連名になっていたのが、筑摩書房版の定本全集の年譜では、竹内道夫氏との連名になり、協力者としても名前が上げられていない。そこで、2000年に「雑誌『鳩よ!』4月号の歯切れの悪い訂正記事について」という稲垣批判の文章をHPにアップした時に、「創樹社版の『年譜』に、稲垣氏とともにクレジットされていた女性研究者の名前が、筑摩版では外されているのも、恣意的な感を免れません」と書いた。
 2日目の『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』の上映前に、前夜パーティーでお会いしたと言う石原深予さんに紹介されたのは、やはり日出山陽子さんであった。わたしのHPの一文を目にする機会があったというお話には、すっかり恐縮したが、昨年出た『迷へる魂』(筑摩書房)の「おぼえがき」と称する、相変わらず長いだけの駄文で、日出山さんのお名前が再登場してくるのは、稲垣氏周辺が拙文を読んだせいではないか、という人もある。
 わたしには、稲垣氏が拙文の指摘を気にするようなタマだとは思われないので、何か稲垣氏お得意の打算があってのことだろう。この「おぼえがき」には、発掘した作品の収録を、筑摩書房に了解した石原深予さんも、刊行当時、激怒していた。わたしは、日出山さんにHPを読んで頂いたことを、まことに光栄に思うが、インターネットならではのコミュニケーションである。
 短い時間ではあったが、日出山さんにお話をうかがい、資料探索に従事されただけでなく、実妹の早川薫さんや、親友の松下文子さんにも直接インタビューされていることを知った。ぜひ、時間の封印を解いて、尾崎翠に関するメモワールを書かれることを、日出山さんにお勧めしたが、もちろんわたしのHPに書いて欲しいなどと図々しいことは言ってない。明確に稲垣氏批判を掲げている本HPなどではなく、ぜひニュートラルなメディアに発表されることを、心から切望している。
 なお、尾崎翠作品を扱う際の、稲垣氏に対する根底的な疑念・批判は、以前、HPの編集後記で書いた。「『朱塗りの文箱』に封じられた謎」という一文で、そこで展開した推理・推測には間違いもありそうだが、未見の方にご一読頂ければ幸いだ。
http://www.7th-sense.gr.jp/kouki/kouki_020917.html


●突如登場したのは、カワカミ課長のお宅でご馳走になった岩ガキ。あまりの大きさと、馥郁たる海の香りに茫然自失し、食べるより先に記念写真●

●岩美の海の刺身の数々。ホテルの自室での、なんともシブイ食事で始まった今回の鳥取行だったが、ふふふふ、豪華絢爛の食卓で締め括られた。もちろんカワカミ・ファミリーとの、一年に一度の愉しい語らいあってのご馳走である●
コメント
イシハラさん、「第七官界彷徨」とランドアートに共鳴するものを発見してくれて有り難う。岩美の人たちも喜んでくれると思います。カワカミ課長は、ランドアートの大久保氏に、このブログの記事を伝えてくれたとか。素人解釈で冷や汗モノですが、ご指摘の通り「山陰のカラマーゾフの兄弟」を生んだ地は、この現代に至っても奥が深いです。町村合併を拒否し、独立自存の道を選択した岩美町とは、今後も付き合っていきたいと考えています。
フォーラム、とてもよかったですよね。今年は講演も映画もともりだくさんでしたが、みんな最高!でした。ランドアートはすごいですね。岩美って、「山陰のカラマーゾフの兄弟」を産んだ土地だけのことはありますね…「足元には砕石が敷かれ…」を見たら「第七官界彷徨」の「仰向いて空をながめているのに、俯向いて井戸をのぞいきこんでいるよう」を想起しました。また、石が積まれているものを見て「わあ卵や!」かわいい〜と嬉しくなったら、よく見ると石だったのでおもわず笑いました。やはり「第七」で、二助の、包みを剥いてある心づくしのチヨコレエト玉だと思ったら栗だった、というときの「アアコハ栗ナリキ」の心境です。賢子さんの講演はわたしも音楽を聴いているようで心地よかったです。こんな態度はまじめに講演をきく姿勢ではないかもとビクビクしていましたが、山崎さんもそうだったとわかりひと安心です。ラフカディオ・ハーンの講義は聴いている学生を酔わせたとのことですが、わたしはそのような講義を聞いたことがなく、どんなのだろうとおもっていたのですが、賢子さんのような講義だったのかもしれないなとおもいました。
  • ishiharamiyo
  • 2005/07/29 12:04 AM
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