2017/04

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 先般の尾崎翠・鳥取フォーラムが始まる直前、わたしは鳥取県立図書館の郷土資料コーナーで、尾崎翠のファイルを読んでいた。この図書館は、フォーラムの会場の県民文化会館に隣接している。わたしが読んでいるファイルは、図書館が翠に関する新聞記事などを独自に集めたものだ。かつて、映画『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』を製作する前の97年、シナハン(シナリオ・ハンティング)で訪れた時には2冊だったファイルが、現在では3冊になっている。この図書館の、地道で継続的な努力がうかがわれる。



 その最初の時、わたしはこのファイルで、翠が日本海新聞に寄稿した「大田洋子と私」に出会った。戦中の1941年(昭和16年)に書かれた、翠最後のエッセイで、当時は全集未収録。わたしはこのエッセイを初めて読んで、一気にシナリオの展望が拓けた。そこには、失意と絶望の翠ではなく、カラカラと笑っている翠が、すっくと立っていたのだ。
 翠が帰郷した後の後半生に関して、当時は「生ける屍として」という見方が主流だった。この言葉は、創樹社版全集の翌80年に編まれた、同じ創樹社のアンソロジー『第七官界彷徨』の稲垣氏の解説「尾崎翠の人と時間」にある。しかし、翠は生涯最後のエッセイで、自らの文学的な「沈黙」を「黄金の沈黙かも知れない」と称し、誇り高く背筋のピッと伸びたところを見せる。書くのも小説だが、読むのも小説だ。書くことだけに、意味があるわけではない。
 しかも末尾では「世の中といふものはまことに冠婚葬祭の世の中であった。私がもし自然主義作家の席末でも汚してゐたとしたら、こんな生活を克明に描破して洋子へも健在を謳はせたかも知れないと思ふのである」と、かつて批判してやまなかった自然主義的な文学観を、ユーモラスに皮肉っている。翠の批評精神は健在だった! これの何処が「生ける屍」であろうか。
 筑摩版定本全集・下巻の解説で、稲垣氏はこのエッセイについて「母の看病に明け暮れたり、畠づくりをする生活が、創作に専念していた頃の感覚や想念の桎梏から脱しさせてむしろ明るく健康になった、と答えている。文学を犠牲にしたのだとするとこういう記述はかえって痛ましくも感じさせる」と書いている。この人は、いったい何を読んでいるのだろう。どこにも「母の看病」とか「畠づくり」とか書いてない。「文学を犠牲に」といったブンガクブンガクしたブンガク観が、ここで翠に笑われていることに気づかないのか。



 翠はこのエッセイで「帰郷して二ヶ月もするうち、健康はとみに盛返して来た。(中略)郷里は山が近いから空気は美味しいし」と書いている。しかし、稲垣氏は同じ解説で、唐突に「帰京後しばらくして翠は神経科の病院に入院した。精神分裂症の疑いがあると医師は診断し、電撃療法など含む治療を行った」としている。入院は知られた事実だが、電撃療法って? 一体どこから仕入れてきた情報なのだ。
 しかも続けて「翠は一応日常生活には復帰する。しかし、それと引き換えに翠は、彼女の創造的な文章世界の表現を可能にしたぎりぎりの感性や、まだまだ大輪の花を咲かせたかもしれない想像の能力を、次第に過去のものとされることになった」とまで書いているのだ。まるで、精神病院で廃人にされた映画『カッコーの巣の上で』みたいじゃないか。
 書くたびに尾ひれがついていく稲垣式評伝。氏は、定本全集の翌99年に、雑誌『鳩よ!』11月号で、おそらくは松下文子の翻訳草稿「エルゼ嬢」を、尾崎翠の未発表作品として麗々しく発表して大ポカをやらかす。この問題が巻き起こした波紋については、前々回のブログの、日出山陽子さんにお会いしたところでも書いたが、見逃せないのが、同じ号に掲載されたエッセイ「尾崎翠とともに生きて」(迷惑な話です)の、次のようなオドロオドロシイ記述である。
「彼女は精神病院に何度か入れられた。悪いことに、1940年ごろの戦中、ナチスのドイツから精神分裂症のための電撃ショック療法なるものが導入される。(中略)施術後はダラリとよだれなど垂れて、腑抜けのように温和しくなる−どういう理由でか尾崎翠もその新療法を免れなかった」。



 唐突に新事実がデッチ上げられ、書くたびにアクドクなっていくのも、稲垣式なのだが、ちょっと待て。翠が帰郷して一時「神経科の病院に入院して静養」(創樹社版年譜)したのは32年のことだ。「電撃ショック療法が導入」されたとする40年ごろといえば、ちょうど「大田洋子と私」が書かれた時期の前後ではないか。年譜や解題・校異に関しては、79年の創樹社版がもっとも詳しくて、信頼が置けるという、おかしな98年の筑摩版定本全集。それもこれも、研究者ではない、単なる評伝作者の稲垣氏が占有している弊害である。
 しかし、どちらの年譜を見ても、次に尾崎翠が「再び幻覚症状や耳鳴りはげしく、神経科の病院に入院し」たのは、53年5月のことだ。40年ごろにナチス(!)から導入した「電撃ショック療法」によって、翠の作家的な想像力が失われたと言うが、翠はとっくに筆を擱いている。何を考えているのだ、オッサン。
 稲垣氏は、どこまでも悲劇的で、無残きわまりない後半生を演出したいようだ。『鳩よ!』の何とも恥ずかしいエッセイで「こういう晩年について、私は書くに忍びない」とまで書いている。それなら、書くな。次兄哲郎の末娘で、映画にも出演して頂いた山名礼子さんに直接聞いた話では、戦中、レストラン「ロゴス」で鳥取一中の「モボ」と仇名された男性教師と「晴れやかで明るい談笑」(翠フォーラム04報告集に寄稿)をしていたのも、翠なのだ。どうやら、文学談義だったらしい。貧乏に伴なう苦労は多々あったようだが、知性の輝きを失うような翠ではない。
 山名さんに限らず、甥や姪の方々のどんな話にも「ダラリとよだれなど垂れて、腑抜けのように温和しく」なった翠など、出てこない。創樹社版全集の栞に、もっとも親しく暮らした甥の小林喬樹さんが、翠の人となりについて書いている。
「伯母は湿っぽさのないからりとした性格でユーモアに富んでおり、豪放闊達かつ磊落な男っぽいとも言える人」。
 これが実像に、もっとも近いのだろう。



 稲垣氏は、精神医療をめぐる、ずさんな状況証拠から「精神病院の電撃ショック療法」なるものを持ち出してきた。最近の『迷へる魂』(04年筑摩書房)の「おぼえがき」では、精神科医の、翠には「精神異常などなかったと思う」という言葉を引用しながら、次のように書く。
「かつて精神の病いとされ、それに伴なう処置があったとすれば、いかに不当だったことか−」。慨嘆してみせるが、稲垣クン、君以外に、誰もそんな「不当な処置」があったなんて言ってないぞ。ここで具体的に「電撃ショック療法」を明示しないのは、何か都合の悪い事情ができたに違いない。出したり引っ込めたり、鬱陶しいジジイだが、絵に描いたような「マッチポンプ」の手法である。
 まったくもって油断ならない、稲垣氏の尾崎翠評伝だ。今回、鳥取県立図書館で尾崎翠のファイルを読んでいたわたしに、ひとつ気になる記事があった。1977年(昭和52年)5月24日から3回にわたって連載された「尾崎翠さんと高橋丈雄氏のこと」というエッセイである。筆者は坂本義男という方。肩書きは「米子商工会議所専務理事・同市文化財保護審議会委員」とある。時期的に言って、最近このファイルに追加されたものではないだろう。わたしも以前読んでいるはずなのだが、なぜかハッキリした記憶がない。
 坂本氏のエッセイによれば、この一ヶ月ほど前に「よみがえる幻の女流作家、岩美町出身故尾崎翠さん」という無署名記事が、日本海新聞に掲載された。その中に、
「このころ尾崎さんは十幾歳年下の劇作家と同棲していたことから、家人が上京して二人の仲をさき、尾崎さんを鳥取に連れ戻した。これがもとで尾崎さんは大きなショックを受け、病院に入院」
 と書かれてあった。実は坂本氏は、東京に住んでいた若き日に、高橋丈雄とともに「ある文芸研究雑誌の編集記者生活」をして、親しく付き合った仲だった。また、尾崎翠が帰郷後の1933年(昭和8年。『第七官界彷徨』が出版された年だ)の暮れに、高橋の紹介で、鳥取市内に翠を訪ねたこともある。



 この日本海新聞の記事が書かれた頃は、高橋丈雄の名前が、まだ特定されていなかったようだ。また、この記事では「同棲」がクローズアップされ、家族に二人の仲を引き裂かれたショックで入院したように書かれている。「年下の劇作家」が高橋丈雄であることを知っている坂本氏は、「どうもおかしい」と思い、この記事の切抜きを、四国の松山で暮らしていた高橋丈雄本人に送って「率直に真相を照会した」。すると高橋から長い返信があり、翠の病気は二人の仲を引き裂かれたせいではなく「ある覚醒剤の常用がたたっての強度のノイローゼ」であったこと、二人の数日間の同居は、決して「同棲」というようなものではなかったことなど、かなり詳細に書かれてあった。
 坂本氏は、前掲記事の誤りを正すべく、この連載記事となるエッセイを書いた。昭和52年当時でも、鳥取で「同棲」という言葉は、それなりの世間的なインパクトがあったに違いない。二人の優れた作品を理解している坂本氏には、このような「芸能界的なスキャンダル」扱いが、我慢できなかった。義憤というか、大いなる義侠心のようなものが感じられるが、エッセイも私心のない、真情あふれる文章である。
 実はわたしは、この記事を読み、どこか気になりながらも、フォーラムの開始時間が迫って、慌てて県民文化会館に向かった。そして、帰京後、妙に脳裏にチラツイテならないのだ。というのは、やはり定本全集下巻の解説で、稲垣氏がこれまた唐突に、尾崎翠と高橋丈雄の「性の交渉」やら「年長の女としての愛欲」など、二人の「同棲」について、見てきたようなことを書いているのである。
 しかも、二人の「一週間あまり同棲」した時期を、従来の帰郷直前の1932年(昭和7年)から、何の根拠も示さずに「1930年の秋ごろ」に繰り上げているのだ。坂本氏が紹介している高橋丈雄の手紙は、稲垣氏の恣意的な操作を引っくり返す、傍証になるかも知れない。わたしは図々しくも、今回のフォーラムで面識のできた県庁の方にお願いして、二度もコピーを送ってもらった。坂本氏の3回連載の記事と、それに先立つ「よみがえる幻の女流作家」という記事である。県庁の方に感謝!



 翠との突発的な「恋愛」と別れについて、高橋丈雄は創樹社版の栞に「恋人なるもの」という回想を、誠実な筆致で綴っている。坂本氏の伝える高橋の手紙の内容は、言葉の使い方までこの「恋人なるもの」とそっくりなのだ。この手紙が書かれたのが1977年(昭和52年)、創樹社の全集が出たのが2年後の1979年。坂本氏によれば、高橋の手紙は次のように始まっている。
「尾崎翠の件お知らせ下さって有り難う存じました。彼女の生涯にとって僕との事件は、唯一の運命的な『何か』であったような気がして、心が痛みます。あの事件の真相を知るものは、僕と彼女以外誰もいない筈です」
 その返信は、詳細なものだった。坂本氏は「この手紙をそのまま発表すれば、一番手っ取り早く実情が公開できるのだが、高橋氏からいずれ近いうちに真相を書いて送るから、このたよりは活字にしないでくれとのことであるので、私が代って取りあえず前掲記事の誤りを正しておきたいと思う」と書いている。
 この「真相」が、坂本氏に送られたのかどうか知りたいところだが、米子商工会議所に坂本氏について問い合わせたら、氏はすでにお亡くなりになっていた。高橋丈雄の手紙については、ご遺族に問い合わせてみるという。親切に応えて頂いた米子商工会議所には、感謝以外ありません。
 しかし、高橋が坂本氏に約束した「真相」と、創樹社版全集の栞の「恋人なるもの」が、ほとんど重なることは間違いないだろう。以前読んだはずの坂本氏の記事の印象が薄かったのは、高橋丈雄の回想とダブっていたせいかも知れない。すべては1932年の夏の「十日あまり」(「恋人なるもの」)のことなのだ。なお、日付に関して、より具体的な林芙美子の1932年の日記によれば、20日間から一ヶ月弱の出来事であったようだ(『巴里の恋』中央公論新社。2001年刊)。
*林芙美子の日記については、本HPの次の編集後記を参照。
http://www.7th-sense.gr.jp/kouki/kouki_010831.html



 稲垣氏が、筑摩版定本全集、下巻でいきなり展開した、1930年の秋ごろの「一週間の同棲」「年上の女の愛欲」説は、これらの事実を真っ向から無視、あるいは全て虚偽としているわけだ。「一週間の同棲」(創樹社版では10日間)を、2年前に持っていった手前、この下巻の解説では、帰郷直前の錯乱の中での同居が省略されている。勝手なものだ。これに関しては、林芙美子の日記で裏づけが取れる。しかし、わたしが不可解なのは、どうして稲垣氏が「同棲」の時期を、わざわざ繰り上げる必要があったのかということだ。
 下巻解説によれば、「第七官界彷徨」にとりかかった1930年(昭和5年)の秋ごろ、翠が自分から大岡山の高橋の下宿を訪ねたことになっている。
「一室で二人っきりで二十四時間×7倍の時間。もちろん幾度か性の交渉も重ねた。けれど、別にどうってことはない。あっけらかん、というのではないが、高橋も彼なりに一匹の働き蟻が美しい砂浜のくずれ落ちる細かい砂粒の中を這い昇るように、抱きしめてくれた翠に報いようとした、奉仕もした。翠は翠で年長の女としての愛欲と同時に自制も働いたであろう。二人の交情は少しチグハグだった。彼女は同棲を打ち切って、また上落合のトタン屋根の二階に戻って、「第七官界彷徨」の執筆に打ち込むしかなかった」
 ほとんど通俗ポルノのようなクソジジイの妄想だ。稲垣氏にとって、二人の「交情」は蟻地獄のイメージらしい。これこそ坂本義男氏が懸念した「低俗醜聞扱い」の見事な具現化に他ならない。また、稲垣氏は高橋について次のようにも書く。
「高橋は年がはるかに若いし、ペシミストとはいうものの東京育ちのソツのなさもある。娼婦相手だったが多少の女性経験もしていたし、翠に対して軽はずみな行為はしない。そのため、翠はよけいに彼に対してどこまでも愛を注ぐことになった」
 ここには、本HPに松山在住の児童文学者、松江翠さんが書いてくれた「その後の高橋丈雄」とは、まったく異なるキャラクターが描写されている。「娼婦相手云々」は、おそらく想像に過ぎず、人権侵害に当たるのではないか。他にも「新しがり屋だが、基調は懐疑派の東京人」など、どうも「東京育ち」に対する偏見のみから書いているようだ。驚くほど不幸な青少年時代を送った高橋が、単純な「東京育ち」でないことや、若い日から死や宗教に惹かれたことなど、松江さんの貴重なエッセイを参照してください。
●「その後の高橋丈雄」
http://www.7th-sense.gr.jp/bun/bun1_Ttakeo.html
 稲垣氏は、わたしが一度だけ面会した際に「事実を越えた本質的な真実を書かなければならない」とご高説を垂れたが、氏にとってはこれが「事実を越えた真実」なのであろう。



 高橋丈雄の回想によれば、翠と知り合ったのは1930年の冬、宮本顕治などと作っていた同人誌『文学党員』の創刊号が出たころだ。翌1931年2月号に、翠の「第七官界彷徨」の一回目が発表された。稲垣説の「1930年秋ごろの同棲」なんて、二人が出会う前の話ではないか。下巻の年譜を見ても、1930年の最後のところに「十二月、かねてから作品を通じて関心を寄せていた高橋丈雄と交際深まり、その高橋と、保高徳蔵、榊山潤、杉本捷雄、逸見広らの間で新雑誌『文学党員』発刊の話が起こり」とある。年譜と「解説」が食い違っているのだ。この辺の底抜け具合いが、いかにも稲垣氏らしい。
 わたしは「第七官界彷徨」完成前に、翠が高橋丈雄と「性の交渉を重ねた」というのは成立しないと考える。この作品を読むことによって、高橋は「やや、僕と同質の、世捨てびとめいた心情を、そこに感じ取ったのであった」(「恋人なるもの」)。翠もまた、その前年に発表された高橋のデビュー戯曲「死なす」を読んで、関心を抱いた。そういう作家同士の共感を抜きにして、いきなり「性の交渉」はないだろう。
 高橋丈雄によれば、知り合って1年半後の、1932年(昭和7年)の「酷暑のころ、一通の奇怪なハガキが彼女から来た。『身辺に魔手を感じます。すぐ来てください』。鬼気の迫る文面だった」。ここから激動の日々が始まるのだが、わたしはここで、稲垣氏が一貫して無視し、しかし高橋丈雄の「恋人なるもの」にも、坂本氏に宛てた手紙にも共通している、ひとつの興味深い事実を指摘したい。このハガキは、実は高橋だけでなく、まったく同じ文面のハガキが、十和田操にも届いていたのだ。これをどう解釈するか?
 創樹社版の年譜によれば、この年の2月に『文学クオタリイ1』に、翠の「歩行」が再録されたことをきっかけに「従来知り合っていた高橋丈雄、榊山潤等のほか、十和田操と親しくなり、井伏鱒二や衣巻省三とも知った。十和田の三田豊岡町のアパートをしばしば訪ねるようになった」。
 翠のハガキを読んで驚いた高橋が、十和田に電話すると「彼のところへも同文のハガキが舞い込んでいた。すぐ、二人で、西武線中井駅付近の彼女の下宿を訪うた」。翠を含めた三人は、日頃から仲がよかったのだろう。しかし、なぜ翠はSOSのハガキを、二人の男性作家に送ったのか、それもまったく同文で。わたしはここに、翠が作品の中で繰り返し夢想した「三角形=トライアングル」が成立していることに、興味を惹かれるが、これはわたしの推論になるので、ひとまず措く。



 翠は、二人に同じハガキを出したにも関わらず、十和田が痩せ細って幽鬼のような表情の彼女のために、パンと牛乳を買いに行くと、高橋に「恋情を突然告白」する。「予想もしなかった」高橋だが、ここで自分が拒否すると精神病院に送られることになるだろう。高橋は、自分が住んでいる大岡山の高台の森の中の家で「頭を休ます」ことを提案する。高橋の側に「恋情」はないが、「場合によって結婚したっていいではないか」と、そこまで高橋は言った。二人は、大岡山に向かう。
 そして、目下のところ、わたしにとって最大の謎が「恋人なるもの」の次の一節だ。蚊帳の中で、翠は子供の頃のことなどを喜々として話す。これなら大丈夫かな、と思う高橋。そして「夜更けて、話がとぎれてしまった。このとき、彼女はやっとの思いで囁いた。襲いかかってくる人、好き。」
 この後は、改行されて「翌朝。あァ、あたし、少女時代の気持ちに還ったわと、嬉しげに歌を歌い」と続く。映画の脚本で、わたしはこの夜更けの言葉「襲いかかってくる人、好き」を、ひどく常識的に、セクシュアルなステップへの誘い水として描いた。しかし、本当にそれで良かったのか? この改行の間に、いかなることが起こったのか、これこそ坂本氏宛ての手紙のように「真相を知るものは」高橋と翠しかいない。
 と、ここまで辿ってきて、取りあえずは事実経過をめぐる稲垣氏の、定本全集「解説」のタワゴトを確認して頂きたい。ここからは、わたしの解釈であり、推論に過ぎないのだが、尾崎翠のセクシュアリティから考えてみたいのだ。高橋丈雄の誠実な回想に、嘘はないが、男性としてのバイアスはかかっていると見るべきで、彼の理解からも遠いところに、翠はいた。
 作品からすると、男女一対の異性愛というのが、翠にとって一番遠いところにある関係性のように思われる。時には二次元(スクリーン)の対象も含めた、多方向の、両性愛に近く、カップルを目指す「対幻想」からは、遥かに遠いセクシュアリティ。「どの二人も組になっていないトライアングル」(「地下室アントンの一夜」)が、度々語られる所以だ。
 作品と人生を一緒くたにしてはならないだろうが、わたしは尾崎翠の作品や人生を思う時、セクシュアルな実質的欲動を伴わない「Aセクシュアル」といった言葉が浮かんで来てならない。



 SOSのハガキを、二人の親しい男性作家に送ったのは、翠にとって、一種の賭けだったのではないか。どちらか一方がやって来るかも知れないし、二人が連絡を取り合って一緒に来るかも知れない。いや、おそらく二人が一緒に駆けつけることは、分かっていたろう。そこに出来上がったトライアングルの中で、翠が高橋に向かって「恋情を告白」したのは、異性愛に基く対幻想に馴染まない翠の、幻覚や妄想の中でこそ敢行できた、乾坤一擲のセクシュアリティの実験だったのではないだろうか。
 この延長線上にあるのが「襲いかかってくる人、好き」だと思われる。にも関わらず、この一夜、二人の性的経験は、基本的になかった、擬似的にあったとしても、この夜だけのこと、とわたしは考えている。そして、翠の実験結果は、この地上の現実に、自分のセクシュアリティに見合う関係性は存在しない。結婚なんて論外だ。甥や姪を「男親のような」立場から育てることに、何のためらいもなかった。このような確かな根拠のない推論は、唾棄すべき稲垣式に近づいてしまったろうか。
 ここでわたしは、稲垣氏がわざわざ「同棲」を2年繰り上げ、濃密な「性の交渉」をデッチ上げたのは、異性愛者としての翠の肖像を、念を押すみたいに、シツコクあくどく描きたかったためではないかと気づくのだ。どうして? 氏の心理を分析するのは至難の業だが、もしかしたら、そう、もしかしたら、わたしたちの映画が影響を与えた可能性がまったくないわけではない。筑摩版定本全集の出版と、わたしたちの映画の鳥取先行ロードショーはほとんど同時期だったが、稲垣氏が「採点以前」と評した『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』の一番最初の、わたしの台本は、「尾崎翠レズビアン説」をめぐって、現代の女の子二人が時空を超えて彷徨するものだった。
(まあ、「あんな台本、相手にしてない。思い上がるな」と稲垣氏は言うだろうが、定本全集上巻の栞で、山田稔氏が書いた美しい文章に、稲垣氏はどんなリアクションを示したか。山田氏は、翠の長兄が高橋丈雄に与えた「駒下駄」に関する稲垣氏の解釈を、「それは無理だろう」と書いたら、いきなり逆上して、あの下駄は鳥取から持ってきたのだと、有りえない珍説を下巻解説で展開した。哀れむべし、氏の負けず嫌い?)



 高橋丈雄と親しく、翠とも面識のあった坂本義男氏は、日本海新聞の3回連載の記事で「同棲説」を一蹴し、最後に次のように結論づけている。
「以上のように高橋氏と尾崎さんとの同居は数日間であったが、けっしてそれは世に言う男女的な同棲ではなかったのである。いかに強度のノイローゼとはいえ、尾崎さんは知性秀でた教養に富む芸術家であり、高橋氏もまた人間愛あふれる友情に厚い人柄ではあるが、高潔孤高を持した誇り高い作家である。そう簡単に世の常の恋愛ごっこなどできる人たちでないことは、私などはもとより周囲のもののよく知るところであった」
 稲垣氏は、時計のネジを逆に回して、坂本義男氏のこの至誠の文章に、再び立ち返るべきではないか。


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8月23日付の石原さんのコメントを読むと、稲垣氏は案外杜撰な方法論として、意識的に「妄想」を展開しているのかも知れません。間違いを分かっても、筑摩は動かないと思います。岩波新書の『ワインの常識』(下記の『ワインの話』は間違いでした)を徹底的に批判した単行本『「ワインの常識」と非常識』(山本博著)を刊行した人間の科学社に、稲垣氏および岩波書店からのリアクションを聞いたところ、「まったくない」と笑っていました。相手が小さいと見ると、無視を決め込むのが大手出版社のやり口のようです。やみぃさんは、原著者のカニグズバーグに誠実な手紙を書き、それによって岩波は動かざるを得ないところまで追い込まれました。詳しくは、リンクを参照してください。

「事実」なるものとそれを表す言葉との一致が真理と言われるわけですが。

その一致不一致の確定は大変に難しい。特に過去の、物証もあまりない「事実」については。

しかし、言葉の側だけ見ても内部矛盾があるってのは、それ以前の話ですよ。稲垣氏の文章を直接確認したわけではなく、山崎さんの引用を見る限りですけど。

確かに本人はすっかり入り込んでいるので修正は無理かも。筑摩が社の良心と長期的な名誉のために動くかどうか。
たぶん、後は、勇気の問題です。

  • まこと
  • 2005/08/23 12:05 PM

やみぃさん、こんにちは。ふと考えてみれば、やみぃさんとぼくは、良心的と目される出版社を相手に、文句を投げ付けているのでしたね。何気なく、やみぃさんのHPの「カニグズバーグをめぐる冒険」を久しぶりに拝読したら、言葉の翻訳をめぐる具体的な対比が面白くて、しばらく止められませんでした。もちろん、以前読んでいるのですが、やみぃさんの言葉に対する感覚が、こちらの何か忘れてしまった記憶を喚起するようです。そして、本についている「解説」への違和の表明も、ぼくの尾崎翠全集の「解説」なるもの批判と重なって、そうだ! そうだ! と共鳴しました。良心的出版者の良心的な編集者って、一体どういう仕事をしているのでしょう。稲垣氏の岩波新書『ワインの話』の件で、その頃『世界』の編集部にいた人に事情を聞こうとしたら、社内で箝口令が敷かれていたようでした。建て前にしろ、『世界』って戦後民主主義の担い手だったんじゃないの? 筑摩で尾崎翠の最初の文庫から定本全集など、全て担当した女性編集者と、全集発刊前に稲垣問題を話し合おうとしたら「稲垣先生がいなかったら、全集はできない」の一点張りで、感情的な反発を受けました。著者や編者に何も言えない編集者って、何だろうと思います。

ブラボー!
よくぞ言ってくださいました。

  • やみぃ
  • 2005/08/05 6:41 AM









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