2017/11

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 鳥のような奇怪な顔貌をしたキース・キャラダインが、わたしに忘れ難いのは、アラン・ルドルフ監督とのかつてのコンビ作『トラブル・イン・マインド』や『チューズ・ミー』が強く脳裏に刻印されているせいだが、そのアラン・ルドルフの新作『セックス調査団』にはひどく失望せざるを得なかった。たまたま原作の『性に関する探究』(アンドレ・ブルトン編・野崎歓訳・白水社93年刊)を発行当時に読み、これを何とかピンク映画にでっち上げる方法はないものかとさんざん考えたものの、一部を借用するぐらいしか思いつかなかった。それをアラン・ルドルフが映画化したとあって、大いに期待したのだが、いささか低調な結果に終わったように見える。



 原作は、1920年代にブルトンがシュルレアリストを集め、セックスに関する率直な報告や討議を行った記録であり、エルンスト、アルトー、アラゴン、エリュアール、マン・レイといった、わたしには名前ぐらいしか知らない、著名な芸術家たちが参加している。しかし、奇抜さにおいて読者を驚倒させるような発言は案外少なく、当時はタブー破りの勇猛果敢な表明も、今では女性週刊誌のセックス記事より素朴な印象を与えることも確かだ。
 例えば冒頭の「男には女の快感がどの程度まで分かるか?」「男色をどう考えるか?」「オナニスムをどう思うか?」といった議論は微笑ましいぐらいであり、「どの部位に射精してみたいか?」に対する答でも「目の上・髪の中」「腋の下、乳房の間、腹の上」など、現代ニッポンのAVが、そうそうたるシュルレアリストたちの願望を実現していることが分かる。しかし、ニヤリとさせられる発言も多く、わたしの好みで言えば次のようなものだ。
プレヴェール「スリッパを履いている女を見るとセックスしたくなる」
ブルトン「剃毛していない女性器がまだ存在するとは、嘆かわしいことだ!」
ジェンバック「女がやって来て言うんだ。“素敵なネクタイしてるわね。あなたの逸物を吸いたいわ”」
ブルトン「(ペニスを)女の耳の穴でこすって楽しむというのはどうだろう?」
サドゥール「じゃあ鼻の穴は?」
ブルトン「男には玉二つの間にサオがあるのに、女の乳房の間にはどうして何もないのだろう?」
 等々。女性の参加者はきわめて少なく、男の側の性的ファンタジーの言いたい放題となっている面もあるが、男たちがクローゼットの奥の暗がりに仕舞い込んでいた性意識をあからさまにするところに、このディスカッションの意義があったのだろう。シュルレアリストだって、常人と懸け離れた性生活を送っていたわけではないのだ。「いつだって不十分な勃起ばかりなのだ」というアラゴンだけが、「これまでの議論の一切は、あまりにも男の側からの意見が勝ちすぎている」と指摘している。しかし「(不十分な勃起を)残念に思うかい?」とブルトンに聞かれたアラゴンが「他のあらゆる肉体的失望感についてと同じで、特別にではない。つまり、ピアノを持ち上げられないのが残念なのと同じように、ということさ」と答えているのが、可笑しい。



 意外なのは「愛」や「夢魔」について、あたかも実在するかのように誰もが発言していることで、わたしたちには馴染みの薄い「夢魔」は、アラン・ルドルフの映画のメイン・モチーフとなっている。夢魔には二種類あって「淫夢男精」が「睡眠中の女性を犯す男の悪魔」、「淫夢女精」が「睡眠中の男を誘惑する女の悪魔」。ブルトンは「夢魔は想像上のものではない。明確に定義できる夜の事件なんだ」と力強く断言する。しかし、エルンストの次の告白は可笑しい。
 「身体的にも、心理的にも、愛に関してのぼくの体質には合わない状況で射精するという事態になった。夢の中で男を犯し、快楽を感じる瞬間に目が覚めたんだ。自分の膝の上に着衣の男が乗っていて、しかもそれは、名前は言えないが、実際に知っている男だったんだよ。目が覚めても射精に至るまで続いたんだ。ところがそれが身体的にも、精神的にも、あらゆる点で吐き気を催すような人物なんだ」
 ブルトンによれば「淫夢男精が相手を誤ったようなものだな」ということになるが、このシュルレアリスムの領導者は、男色に対して、一部の例外を除いては好意的ではないようだ。
 アラン・ルドルフはこうしたバカげた(?)挿話に興味を示さない。舞台をパリから同時代のアメリカ東部の大学都市に移し、芸術家たちの性に関する討論を記録する速記係の若い女性二人を配して、物語を構成した。当然、性格の対照的な二人の女性と、男性参加者たちの微妙な心理的アヤが描かれるが、さらにこの討議のパトロンとして富豪役のニック・ノルティが登場してくる。
 この老いてセクシーなタフガイ・スターは、この映画のプロデューサーの一人でもあるのだが、ドラマの終盤、株で財産を失った富豪は、かつて少年時代に雌ロバと性交した経験を、真偽不明の半ば冗談のように語る。もちろん、原作には存在しないキャラクターであり、この雌ロバの挿話は、バルダンスペルジェ(今では何者か不明)が語っていた。彼が14歳で、雌ロバは2歳。
 「たいていはロバを車につないで森に連れて行ってから、装具を外してやるんだが、まるで誰かの服を脱がしているような気分をはっきり味わったものだよ。最初のうちロバはいつでも抵抗なしだったのが、後では盛りがついているときにしかやらせなくなった。こういう類の動物相手の性交は、田舎ではよく行われているものだよ」



 原作でもインパクトの強いエピソードだが、しかし今回アラン・ルドルフが採用したような、オーソドックスな物語化によってしか、この討論の記録は映画にならなかっただろうか? 二〇年代のアメリカの性意識がピンと来ないために、いっそうわたしには隔靴掻痒なのだろうが、耳の穴や鼻の穴でこする実験や、エルンストやバルダンスペルジェの愉快な経験を、もっと即物的に、ドキュメンタリータッチで描く方法はなかったろうか? わたしには心残りである。誰かわたしに再映画化させてくれる、寛大な資本家はいないだろうか。
<04年12月。『レモンクラブ』(日本出版社)掲載>

*映画の公開に合わせたのか、04年に『性についての探求』と改題新装版が、同じ白水社から刊行された。しかし、本当に改題されるべきだったのは『セックス調査団』という、意図不明の映画のタイトルの方だったのでは?



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