Salix babylonica & Water lily

  • 2005.09.10 Saturday
  • 16:19


 目撃した瞬間に、魂を吸い取られるような物体があって、かつてわたしは水族館で水くらげの変幻自在の姿形を目にし、茫然としてしまったことがある。何度見ても胸騒ぎはおさまらず、水海月の悠々たる不定形をテーマに、薔薇族映画を企画するまでに昂じた。撮影の際には、わざわざ大金をかけて、生きたクラゲをレンタルする専門業者に来てもらい、水槽で揺らめく水海月を延々と撮って、プロデューサーの浜野監督にさんざん文句を言われたものだ。
 その後も何度かわたしのピンク映画や薔薇族映画に、水海月は出演したが、水族館に出向いてデジタルカメラで撮影し、パソコンの液晶に写して複写する方法を思いつき、以前のように専門業者の出張を依頼する必要はなくなった。



 9月3日に札幌市の男女共同参画センターで『百合祭』のシネマ&トークのイベントがあり、この入念に準備された素晴らしいイベントについては、稿を改めて報告するが、その一方でわたしの目を奪ったのが、中島公園と北海道大学キャンパス、それに旧北海道庁の、枝垂れ柳と睡蓮の花だった。
 かつて2001年の『百合祭』制作直後に、中島公園に隣接した渡辺淳一文学館で10日間に渡る自主上映を行なったが、その際に毎日公園を横切って通った。あの時も、わたしの目は枝垂れ柳の朦朧とした葉の集合に惹き付けられ、心騒いだものだった。



 改めて今回、中島公園の池に面した枝垂れ柳に見入ったのだが、正直なところ、この不思議な枝っぷりの樹木が柳であるとは、まるで思わなかった。わたしの知らない種類の樹に違いないと思い込んで、夢中でデジカメに向かったのだが、北海道大学のキャンパスを散歩していたら、ここにも同じ樹があって、名前が貼り付けられている。そこには「Salix babylonica 和名 sidareyanagi」とあった。なんだ、なんだ、やっぱり枝垂れ柳だったのか! わたしの知っている柳はもっと小さいので、ここまで大木になった柳は見たことがなかったのだろう。



 一方、睡蓮の花には最初、北大キャンパスで出会い、次に旧北海道庁「赤レンガ」の庭の池で、改めてじっくり向かい合った。ビデオカメラの液晶画面に映るピンクの睡蓮の花は、色が滲んだようになって、息を呑むぐらい美しいものだった。
 枝垂れ柳といい、睡蓮といい、北海道固有のものではなく、日本全国、どこにでも存在するものだが、わたしはなぜか今回、この二つによって札幌市の印象が刻印されたのだった。



 枝垂れ柳の魅力は、わたしには水海月にも共通した、曖昧でゆらゆらと霞むような形象にあるように思われる。このブログの冒頭に掲げた「木陰−影−あぶく−儚ー仄−微−なるたけそんなのが好い」という尾崎翠のフレーズに通じるような何か。
 「Salix babylonica」は「サリックス・バビロニカ」と読み、サリックスは、ケルト語の「sal(近い)+ lis(水)」が語源といわれる。バビロンという以上、イラクのチグリス・ユーフラテス河畔が原産地なのか。
 一方で、ラテン語の「salire(跳ぶ)」が語源で「生長が速い」の意という説もあるとか。



 一方、睡蓮は、英語で「Water lily」というらしい。『百合祭』の英語タイトル「リリィ・フェスティバル」に偶然近い。正式の学名は「Nymphaea colorata」。どう読むのか知らないが、「Nymphaea」は、水の女神である「Nympha(ニンファー)」と、「colorata」(彩色された)に由来するという。



「ももしきの 大宮人(ひと)の かづらける しだれ柳は 見れど飽かぬかも」
                           (万葉集)
「やはらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」 石川啄木

 ネットから孫引きしたが、万葉集の頃から歌人の心を、枝垂れ柳は騒がせたらしい。わたしにも歌人の心があったのか? まさか。



 睡蓮と蓮(ハス)は違うのだという。ハスは葉や花が水面から立ち上がるが、睡蓮は、葉も花も水面に浮かんだまま。もっとも、熱帯睡蓮という種類は、花が水面から立ち上がるらしい。



「道のべに 清水長るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」 西行
「田一枚 植て立去る 柳かな」 芭蕉

(同じくネットから孫引き)



 睡蓮は園芸上の呼び名で、和名は「ヒツジグサ(未草)」。ヒツジは時刻を表し「未の刻(午後 2 時)」に咲くといわれているが、実際は明るくなると開き,暗くなると閉じる。それで「眠るハス」になったのか?



 枝垂れ柳の原産地は中国で、奈良時代に渡来し、その後日本全土に植えられた。そういえば、中国の山水画に柳が描かれていたような、いないような。日本では言うまでもなく、幽霊の出没するポイントとして著名だったが、今時のお化けは学校のトイレあたりに現れるのか。



 ハスの葉っぱも、艶やかで、ひどくセクシーだと思う。わたしは、まるで「ハス・フェチ」になりそうな…


 
↓最後に、本ブログ定番の消火栓。札幌の消火栓は、みんな黄色だったが、北大キャンパスで見かけた消火栓には、大きな案内板(?)がついていて、何か可笑しかった。



*北大卒業者カップルを家族に持つ知友から「大きな標識は、積雪のためではないか」という指摘を受けた。なるほど! まさにその通りに違いない。支柱の丸いカーブも、強度を増すような気がする。降り積もった雪の中から、丸い標識が顔を出している景色を見てみたいと思った。
コメント
いえいえ、私のはお遊びですから。

モノクロのほうが、自分のなかで色を再現するのか、カラーより色彩豊かに感じるのです。
『ベルリン 天使の詩』の天使たちが、常にモノクロの世界にいたように。

一年の多くを雪に覆われる生活をずっとしていると、夏の色彩の豊かさにめまいがすることがあります。香港とかには住めそうもないですね(笑)
北海道は、冬に真っ白くなって視覚がリセットされる感じがします。
無色は、色彩豊かだとも思えます。
写真ありがとうございました。
  • キキ
  • 2005/10/04 12:22 AM
キキさん、こんにちは。睡蓮は、第一に自分の見た目、第二にデジカムの液晶画面、が素晴らしくて、息を呑むようだったにも関わらず、パソコンに入力したら案外で、いささかガックリ来ていたのです。なるほど、モノクロ写真であれば、別の世界が展開したかもしれません。シルクスクリーンを使うようなハイブロウなことはしたことがありませんが、わたしも暗室で現像をしたことがあり、あの印画紙に像が浮かび上がってくる瞬間の何にも換え難い歓びは、後にまさしくオタク的だったと思いました。
 メールで、札幌の楽しかった宴会の集合写真をお送りしましたが、着きましたか?
あの池の睡蓮に気がつかれたのですね。
学生時代、せこせこモノクロ写真を撮っていたとき、よくあの睡蓮をモデルにしました。
暗室で、シルクスクリーンをかぶせて水滴をにじませたるように印画紙焼き付けをしたとき、その艶っぽさを再現出来たようで、喜びを覚えたものでした。

嬉しくなってコメントしてしまいました。
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