愉快なフェティシズム研究(6)アナル・バース&アナル・ヴァイオリン
- 2005.09.17 Saturday
- 06:08
牛の頭と書いて「ごず」。牛頭天王は、祇園精舎を守る守護神だとか、逆に迷惑な疫病神だとか諸説あるようだが、ここでは言うまでもなく、三池崇史の03年の秀作『極道恐怖大劇場・牛頭GOZU』を指す。あの映画のラスト近くで吉野きみ佳が、姿を不意に消してしまった哀川翔を「産み直す」シーンがあり、女の太腿の間から大の男のヤクザがズルズルと這い出してくるのだが、この奇想天外な物語にして、男を産むのは女の子宮というテーゼに囚われているのかと、いささかの感慨があった。
というのは、フロイトに「アナル・バース」という用語があり、肛門から再び産まれ直したいという奇怪な夢想を意味するというのだ。フロイト説によれば、子供の性的成長のステップに「肛門期」があり、その段階に固着すると、肛門から産まれたいという願望が生じることがあるという。もっとも、この場合でも、その肛門の持ち主は、やはり女なのだろうね。
しかし、子宮からではなく、肛門から産まれたいなら、男の肛門でも一向に構わないではないか。『牛頭』の場合、もし哀川が、彼を必死に探す弟分の曽根秀樹、あるいは秀樹の実父で、気色悪い旅館の使用人役の曽根晴美(息子のために製作費を出資。名古屋では有名な役者らしい)の肛門から産まれ直してきたら、物語はまったく違ったものになったろう。
もっとも、きみ佳は消えた哀川を名乗っており、いわばきみ佳と哀川は雌雄同体なので、きみ佳から哀川が分離してくるのは物語の必然なのだが、せめて前の穴からではなく、後ろの穴から這いずり出て来て欲しかった、というのはわたしだけの偏頗な願いか。
わたしは数年前『美尻蜜まみれ』(大蔵映画)という、お尻をテーマにしたピンク映画を撮る際に、お尻=肛門をめぐってどんなフェティッシュが存在するか、セクソロジー辞典の類にあたったのだが、そのなかでもっとも心惹かれるバカげた欲望・執着が、この「アナル・バース」であり、また「アナル・ヴァイオリン」だった。
肛門とヴァイオリン、なかなか素敵な組み合わせだが『現代セクソロジー辞典』(R.M.ゴールデンソン、K.N.アンダーソン著。早田輝洋訳。1991年。大修館書店)によれば「東洋の肛門マスターベーション装置」なのだという。日本も東洋のはずだが、こんなオナニーは見たことも、聞いたこともない。この「装置」は、ガット(羊などの腸で作った糸)の弦を、固ゆでの卵あるいは木製か象牙製の玉に付け、この卵か玉を肛門の中に挿入した後、弦をピンと張って、ヴァイオリンの弓でかき鳴らす。
この演奏によって引き起こされるガットの芸術的な(?)震動が、アナルの内外に複雑精妙な快感を生み出すに違いない。しかし、肛門の中に入れた本人が、弓を使って弾くのは、いくらなんでも無理であり、それは「セックスパートナー」が担当するというのだが、それでは男に対しては女が、女に対しては男が「マスターベーション」のお手伝いをしたり、あるいは前戯に使ったのかというと、必ずしもそうではないようだ。
というのは「この装置は特にオットマン帝国の宦官の間に人気があった」と記述されているので、去勢した男同士が、お互いに弓を弾き合って楽しんだ可能性がある。(オットマン帝国とは、オスマン帝国のこと。イスラム教だが、中国みたいに宦官は存在したのか)。
陰茎や睾丸を切除したトルコ族の男同士が、肛門に卵や玉を挿入し、そこから弦を張って、ヴァイオリンの妙なる調べを奏でている図には、思わず惹き付けられるものがあるが、しかし「今日でも電動製の同じような物が、ヨーロッパ、アメリカ合衆国、日本で用いられている」というのは、いくらなんでも「ありえねー!」。
原著は、アメリカで1986年に刊行されているが、そんなオナマシンは日本で見たことがない。アメリカにはあるのか? しかしこの「装置」のどの部分を電動にするのだろう? 考えやすいのは玉をバイブにすることだが、それでは単なるアナル・バイブで、本来のヴァイオリン演奏による妙なる震動を、アナル感覚で味わうことは出来ない。もしかしたら、一人で楽しめるように、ヴァイオリン演奏が、自動ピアノみたいに電動になっている? まさか。そんなことをしたら、とんでもなく大掛かりな装置になるので、これも考えにくい。
いささか不可解なところもあるが、少なくともオスマン帝国には存在したわけで、わたしはこれをピンク映画で再現してみた。使ったのは固ゆで卵だが、いくら硬く茹でても、ヴァイオリンの糸を張るのは至難の業だ。引っ張ると、卵が壊れてしまう。恐らく、かつては中央アジア産の玉でも使ったのではないか。
もっともピンク映画なので、実際に固ゆで卵を肛門に挿入するわけではなく、卵が入った(つもりの)カットの後には、女優、男優のお尻に貼った前張りにガットをつないで撮影した。最初はこれをピンと張るのが難しかったが、次第に助監督や役者諸君も習熟し、ヴァイオリンでクラシック音楽を奏でる、ピンク映画には稀な美しいシーンが出来上がったのである。
<05年1月。『レモンクラブ』(日本出版社)掲載>
というのは、フロイトに「アナル・バース」という用語があり、肛門から再び産まれ直したいという奇怪な夢想を意味するというのだ。フロイト説によれば、子供の性的成長のステップに「肛門期」があり、その段階に固着すると、肛門から産まれたいという願望が生じることがあるという。もっとも、この場合でも、その肛門の持ち主は、やはり女なのだろうね。
しかし、子宮からではなく、肛門から産まれたいなら、男の肛門でも一向に構わないではないか。『牛頭』の場合、もし哀川が、彼を必死に探す弟分の曽根秀樹、あるいは秀樹の実父で、気色悪い旅館の使用人役の曽根晴美(息子のために製作費を出資。名古屋では有名な役者らしい)の肛門から産まれ直してきたら、物語はまったく違ったものになったろう。
もっとも、きみ佳は消えた哀川を名乗っており、いわばきみ佳と哀川は雌雄同体なので、きみ佳から哀川が分離してくるのは物語の必然なのだが、せめて前の穴からではなく、後ろの穴から這いずり出て来て欲しかった、というのはわたしだけの偏頗な願いか。
わたしは数年前『美尻蜜まみれ』(大蔵映画)という、お尻をテーマにしたピンク映画を撮る際に、お尻=肛門をめぐってどんなフェティッシュが存在するか、セクソロジー辞典の類にあたったのだが、そのなかでもっとも心惹かれるバカげた欲望・執着が、この「アナル・バース」であり、また「アナル・ヴァイオリン」だった。
肛門とヴァイオリン、なかなか素敵な組み合わせだが『現代セクソロジー辞典』(R.M.ゴールデンソン、K.N.アンダーソン著。早田輝洋訳。1991年。大修館書店)によれば「東洋の肛門マスターベーション装置」なのだという。日本も東洋のはずだが、こんなオナニーは見たことも、聞いたこともない。この「装置」は、ガット(羊などの腸で作った糸)の弦を、固ゆでの卵あるいは木製か象牙製の玉に付け、この卵か玉を肛門の中に挿入した後、弦をピンと張って、ヴァイオリンの弓でかき鳴らす。
この演奏によって引き起こされるガットの芸術的な(?)震動が、アナルの内外に複雑精妙な快感を生み出すに違いない。しかし、肛門の中に入れた本人が、弓を使って弾くのは、いくらなんでも無理であり、それは「セックスパートナー」が担当するというのだが、それでは男に対しては女が、女に対しては男が「マスターベーション」のお手伝いをしたり、あるいは前戯に使ったのかというと、必ずしもそうではないようだ。
というのは「この装置は特にオットマン帝国の宦官の間に人気があった」と記述されているので、去勢した男同士が、お互いに弓を弾き合って楽しんだ可能性がある。(オットマン帝国とは、オスマン帝国のこと。イスラム教だが、中国みたいに宦官は存在したのか)。
陰茎や睾丸を切除したトルコ族の男同士が、肛門に卵や玉を挿入し、そこから弦を張って、ヴァイオリンの妙なる調べを奏でている図には、思わず惹き付けられるものがあるが、しかし「今日でも電動製の同じような物が、ヨーロッパ、アメリカ合衆国、日本で用いられている」というのは、いくらなんでも「ありえねー!」。
原著は、アメリカで1986年に刊行されているが、そんなオナマシンは日本で見たことがない。アメリカにはあるのか? しかしこの「装置」のどの部分を電動にするのだろう? 考えやすいのは玉をバイブにすることだが、それでは単なるアナル・バイブで、本来のヴァイオリン演奏による妙なる震動を、アナル感覚で味わうことは出来ない。もしかしたら、一人で楽しめるように、ヴァイオリン演奏が、自動ピアノみたいに電動になっている? まさか。そんなことをしたら、とんでもなく大掛かりな装置になるので、これも考えにくい。
いささか不可解なところもあるが、少なくともオスマン帝国には存在したわけで、わたしはこれをピンク映画で再現してみた。使ったのは固ゆで卵だが、いくら硬く茹でても、ヴァイオリンの糸を張るのは至難の業だ。引っ張ると、卵が壊れてしまう。恐らく、かつては中央アジア産の玉でも使ったのではないか。
もっともピンク映画なので、実際に固ゆで卵を肛門に挿入するわけではなく、卵が入った(つもりの)カットの後には、女優、男優のお尻に貼った前張りにガットをつないで撮影した。最初はこれをピンと張るのが難しかったが、次第に助監督や役者諸君も習熟し、ヴァイオリンでクラシック音楽を奏でる、ピンク映画には稀な美しいシーンが出来上がったのである。
<05年1月。『レモンクラブ』(日本出版社)掲載>
*なお、やみぃさんのHPは「カニグズバーグをめぐる冒険HP」としてリンクしていますが、「がんの戸棚」を含む、本家HP「やみぃの屋根裏部屋」は、以下のアドレスです。
http://park.zero.ad.jp/yuyujp/jp_index.htm
内澤さんの「空礫日記」、素敵ですね。私も病気のことを話すたびに、固まられたり、泣き出されたりして、本当に困りました。気持ちは嬉しいけど「あなた達のことまでケアできないゾ!」なんてよく思ったものでした。
内澤さんの手術が最高に上手くいきますようにお祈りしています。
昨年暮れに似たようなメンバーで飲んだ時には、内澤さんが長年取材している「屠蓄」について、実にディープなお話を聞かせてくれた。毎回、何かご教示してくれる有りがたい人だが、内澤さんが面白がってくれたのに後押しされて、今回のブログをアップした。ついでに、彼女のブログと、パートナーの南陀楼綾繁氏(『ナンダロウアヤシゲな日々』著者。無明舎出版刊)のブログも、リンクに追加した。
先ほど「造本家&屠蓄探求家のブログ」と、わたしが勝手に称した内澤さんの「空礫日記」(なんと読むのだろう)の最新を読んだら、乳ガンの再手術を受けることが記されていた。わたしの親しい知友でガンと向き合っている女性が何人もいて、憤激に近いような感情をこの病気に対して抱いてきたが、すぐ死ぬような病気でないことは、友人たちが実証している。しかし、内澤さんの日記には、当事者がガンであることを語る困難が記されていて、とても納得できた。