2019/06

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 愛知淑徳大学の、現代社会学部の学生さんが企画した『百合祭』上映と、浜野佐知監督の講演が、学園祭真っ盛りの11月5日に行われました。5月のスタンフォード大学でお会いした、太田浩司先生の紹介によって実現したものですが、わたしもまた、コメントを求められ、壇上で話したりもしました。ところが、例によって、何を言っているのか不明の、わたし自身もまた、喋っているうちに混迷の中へと、はまって行く、ていたらくで、つくづく人前で話すことの不向きを再確認した次第です。



 しかし、そこで展開された質疑応答と、夜の交流会でのディスカッションで、これまで数え切れないほど、この映画の上映に立ち会ってきたわたしも、明確に把握できなかった、もうひとつのテーマが浮かび上がってきました。表面には現われにくい、裏テーマといっても好いかも知れません。というのは、交流会で愛知名産の焼酎を、気持ちよく飲んでいる時に、建築が専攻の、大変ハンサムな先生から、『百合祭』の毬子アパートの住人の構成が、映画とは逆に、女性一人に男性多数だったら、どうなるだろうか? という疑問が出されました。
 彼の疑問は、『百合祭』を観た観客の反応が、女性の多くが肯定的で、男性、特に高齢の爺サンどもが反発する、という浜野監督の話に、どこか、うなずけないものを感じたのだと思われます。実は、男性のインテリから、『百合祭』の男女逆バージョンについて言及されるのは、日本に限らず、フランスなどでも結構あって、しかし、実際のところ、どうしてそんなことが気にかかるのか、わたしには、いまいちピンと来ませんでした。
 また、その一方で、一人の男性が、女性たちにモテまくる「ハーレム状態」は、女性の解放からは遠いものだ、というフランスのフェミニストの、キビシイ批判もありました。だからこそ、脚本担当のわたしとしては、宮野さん(吉行和子さん)と横田さん(白川和子さん)を、あの老嬢たちのサンクチュアリから脱出させたつもりだったのですが、三好さん(ミッキーカーチスさん)が、彼女たちの「パンドラの匣」を見事に開けた、言葉とソフトタッチによる凄腕を、わたしが高く評価していることもまた事実です。
 しかし、今回の、ハンサムな(しつこくて、すみません)先生の疑問は明確であり、女性の観客にとっては、女性が一人で、多くの周囲の男性に群がられた方が、気持ちよいし、感情移入しやすいシチュエーションなのではないか? というものでした。なるほど、これなら、女性のヒロイン願望として、素直に諒解できます。
 ところが、現実は、そうでありませんでした。あの映画を見終わり、「なぜか涙があふれてきた」という中年女性の涙に、パンフレットを販売していたわたしも、つい、もらい泣きして、二人で向かい合って涙ぐんでしまったことがあるぐらい、シンパシーを感じてくれる、決して若くない女性が、少なからず存在するのです。
 そこで、わたしが思い出したのが、上映後の質疑応答のなかで、モンゴルに留学していたという先生(女性)が行なった、興味深い発言でした。一人の男性をめぐって、二人の女性が争っているように見えるときでも、実は男性を媒介にして、女性同士が結び合うことがある。一見、ヘテロセクシュアルの構図なのですが、その内実がホモセクシュアルである場合があって、『百合祭』の大家の奥さん(正司歌江さん)と、並木さん(原知佐子さん)のライバル関係もまた、そうした方向で打ち出すべきではなかったと、その先生は指摘しました。
 これが、一人の女性をめぐる男性同士の関係なら、ヤクザ映画をはじめ、ホモソーシャルな日本の社会では、珍しいことではありませんし、その底には女性嫌悪が潜んでいる可能性もありますが、一人の男をめぐる複数の女同士となると、俄然、興味深いものがあります。
 というのは、なぜ『百合祭』の女性の観客の多くが、男性の先生の言うように、一人のヒロインとして、男性たちに囲まれるのではなく、一人の男をめぐる複数の女たちの方に感情移入できたかと言えば、一見全員がライバル関係であるかのような状況のなかで(女性の先生が指摘するように)女性同士の連帯の可能性を、ストーリーの伏流水として感得したためではないかと思われるからです。



 そこで浮かんでくるのが、三好さんが女装する白雪姫のエピソードで、あれを嫌う観客も少なくないのですが、わたしはこれまで、吉行さん演じる宮野さんの、内心での、ジェンダー交換の戯れとしてのみ考えてきました。というのは、わたしは宮野さんを、夫が生きている頃から、ヘテロセクシュアルな社会に馴染めない、潜在的なホモセクシュアルであったと解釈しているからですが、実はあのシーンには、もっと別の意味があったのではないか。
 すなわち、鞠子アパートの老嬢たちは、三好さんの方をこそ「白雪姫=ヒロイン」として祭り上げ、自分たちは勝手に小人のおじいさんたちに変身して、愉快な連帯を図った、その端的な構図が、白雪姫のシーンであったのかも知れないのです。
 最初の試写の直後に、「エロ漫画凶悪編集」のシオヤマ君が、ああいうシーンをこそ、カネをかけて撮らなければならない、と何かに書いていましたが、確かに手薄なシーンではあり、原作者の桃谷方子さんも「しつこい!」と吐き捨てるように言ったシーンではあるのですが、多様な解釈の可能なシーンでもあります。
 しかし、その方向で詰めていくと、宮野さんと横田さんの脱出行は、コミュニティからの抜け駆けのようなことになり、シナリオ担当のわたしとしては、いささか具合が悪いのですが、女性同士へ向かうグループも、男性を共有するグループも、選択肢として同等であるような方向が模索されるべきだと思います。
 実に有意義な今回の上映会でしたが、名古屋の街頭の、とびきり若い女性たちのファッションには、度肝を抜かれました。髪の巻き方から、ブーツの先に至るまで、奇妙奇天烈な、ド派手ルックで決めていて、浜野監督によれば「名古屋嬢」と称され、全国的に轟いているのだそうです。そんなファッションの大柄な娘が、ガラガラ引っ張るトランクを、地面に叩きつけるようにして、わたしの真正面から歩いてきた時には、背筋に恐怖心を覚えて、思わず脇に逃げました。どうも、とんでもなくアヴァンギャルドな土地柄のようです。


comment

ミッキーさんの演技、ヘテロ男なのだけど、あまりヘテロ男とは感じませんでした。

ヘテロちんこ星人の王道の[挿入−激動−射精]至上主義がないことと、性的関係を持つことが支配意識や所有意識と結びついていないからです。

だから、宮野さんと横田さんのヨコハマも、サプライズでもなかったですし、他の女性たちがいきなりそれに加わっても、変な感じは受けません。

いやそれより、窮地に陥ったミッキーさんのスピーチが、1:1あるいは1:多という性愛の形を超えていたからです。

ところで、先日4半世紀ぶりに上野の傑作劇場に行ったら、浜野−kuninori55の作品上映中だったのでびっくり。傑作劇場、以前とまったく変わっていなかったナ。

  • ほそやまこと
  • 2005/11/08 11:23 PM

やみぃさん、有り難う! タイトルから「シンデレラの謎」と書いてしまいました。何という抜け作でしょう。ミッキーサンが、イメージシーンで変身したのは、白雪姫でしたね。冷や汗もののミスで、とんだ誤解を振りまくところでした。素早く教えて頂き、有り難うございました。これから、撮影現場に向かいます。

あの、白雪姫. . . 。
シンデレラじゃなくて、白雪姫だったかと。
直したら、このコメントは消してください。(*^ - ^*)










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