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「どうも夜の音楽は植物の恋愛にいけないやうだ…宵にはすばらしい勢ひで恋愛をはじめかかつてゐた蘚が、どうも停滞してしまつた…こんな晩に片恋の唄などをうたはれては困るんだ。一助氏まで加はつて、三人がかりで片恋の唄をうたふやつがあるか」尾崎翠「第七官界彷徨」



「第七官界彷徨」に登場する人物たちは、ことごとく手痛い失恋を経験しているか、永遠に実りそうもない片恋の渦中にあるが、この「片恋」という言葉、「失恋」ほど現代においてはポピュラーでない。しかし、尾崎翠の描く「失恋」は、ほとんど恋愛未満の地点で引っ返しており、すべて「片恋」と言い換えても、差し支えないようなシロモノである。わたしには、この「片恋」こそ、尾崎翠的恋愛世界を、もっともうまく言い当てているように思われるのだが、この言葉を、かつて大島弓子さんの「ジギタリス」(朝日ソノラマ刊『大島弓子選集』第11巻)で発見した時には、思わず胸が熱くなったものだ。
 このマンガには、「小林北人(ほくと)」という同じ名前を持った、二人の高校生が登場するが、互いにドッペルゲンガーのように意識し合い、この設定自体、「こほろぎ嬢」の、一人の詩人の中に住む、二人の男女の人格、フィオナ・マクロードとウィリアム・シャープを、裏返したような構図になっている。そして、一方が、もう一方に対し、次のように言うのだ。

「なんだ、おまえ、こんどの片恋は、おれの元家庭教師になったのか」

 作中、たった一回だけ使われる言葉ではあるが、他にも、まるで、ほとんど小野町子の口調を思わせる、次のようなモノローグもあった。

「彼女はどんなにか、彼のことが、うれしいだろう。陸上部は、どんなにか彼のことをくやしいだろう」

 これだけで、大島弓子さんの作品に、尾崎翠的世界の反照を見るのは、まったくコジツケに近いが、わたしにはこの二人の作家が、気圏、水圏の、非常に隣接した領域に、揺らめきながら存在しているように確信されるので、わざわざ具体的な証明は要らない気分なのだ。



 今回、「片恋」について、あらためて調べてみると、万葉集でも使われている古い言葉であり、そのせいか近年でも、短歌や少女マンガ、さらには演歌といったジャンルで、いくらか使われているようだが、それ以前に、ツルゲーネフと芥川龍之介に、それぞれ「片恋」という短編があり、前者は明治時代に二葉亭四迷が翻訳し(その後、ドストエフスキーの翻訳で知られる米川正夫の訳もある)、後者は大正6年(1917年)、尾崎翠が十代の修業時代に投稿していた雑誌、『文章世界』に発表されていた。
 芥川の作品は、たまたまインターネットの「青空文庫」に収録されていたので、わたしはそれをダウンロードして読んだのだが、書き手の友人によって語られる、芸者の福竜の長年「片恋」している相手というのが、これがなんと「幕の上」の外国人、つまり映画のスクリーンに登場する男優なのである。
 これだけで、尾崎翠の読者としては色めきたってしまうところだが、チャップリンへの愛を繰り返し語った尾崎翠は、「第七官界彷徨」では「のろけ函」のエピソードで「肉体をそなへた女に恋愛するのは不潔だといふ思想」を持ち、年中、映画女優に恋愛している、二助の友達を紹介し、「木犀」では、北海道の牧場主で、牛に似たN氏のプロポーズを断り、場末の映画館にかかる、雨が降ったスクリーンの「チヤアリイ」に恋をする女主人公を登場させている。
 わたしは、これまで、尾崎翠の、こうした二次元の「幕」への偏愛、それも作品や役者そのものではなく、「飢えたチヤアリイの齧(かじ)つてゐる蝋燭の味」「ピックフォオオドの踵(きびす)」「ニタ・ナルデイの三角な爪」(「映画漫想(一)」)といった具合に、パーツに細分化する傾向を、「あまりにも早く来過ぎたオタクの先駆」と捉えてきたのだが、なにも現代のオタクを引き合いに出さなくても、こうした偏愛の一端は、すでに大正時代の芥川によっても表現されていたのだ。



 芥川の、この作品が発表された大正6年は、20歳の尾崎翠が小学校の代用教員を辞めて、初めて上京した年であり、『文章世界』は、翠も吉屋信子などと並んで、注目される投稿作家の一人だったので、おそらくこの短編も読んでいたと思われるが、文壇デビュー作「無風帯から」を書く2年前のことで、翠自身は、まだこうした「オタク的」境地、いや「第七官界彷徨」でピークに達する、独自の文学的境地には、ずいぶん遠いところにいたはずだ。
 しかし、翠と芥川といえば、「mixi」で、石原深予さんが、「フィオナ・マクラウド」(ウィリアム・シャープの女性名義)について、目下探索している、その途中経過の一部を報告されているのだが、それによれば芥川は、大正3年にマクラウド作「囁く者」の翻訳をしているだけでなく、マクラウドの代表作と目される「かなしき女王」の翻訳者、松村みね子と「最後の恋」をしているようなのだ。芥川32歳、松村みね子46歳の、この「恋」は、翠36歳、高橋丈雄26歳の「恋」を思わせないでもないが、これらのエピソードは、芥川龍之介と尾崎翠が案外に共通の引力圏内にあったことを窺わせるもので、石原深予さんをはじめ、研究者の皆さんに探求して頂きたいものである。
 なお、作品としての芥川作「片恋」は、翠の「香りから呼ぶ幻覚」に似た感触があり、芥川における芸者の「幕の上」の男優への恋が、翠では、レストランの女給の「顔も知らない、名も知らない、匂ひだけの」男への、長年の嗅覚の恋となっていることを、付記しておこう。



 さて、どうして尾崎翠作品において、「片恋」が深く刻印されているかと言えば、実生活において同居していた親友の松下文子が結婚し、北海道に去った後、『女人芸術』に書き出したあたりから、翠の文学的な方法論が明確になり、それ以降の後期作品においては、一組の男女が向かい合って恋愛する、いわゆる「対幻想」の忌避というべきスタンスが一貫してとられ、絶対に恋が成就しない仕掛けになっているのだ。その関係性は、表面上は、いわゆる「三角関係」に見えるのだが、その言葉が喚起するようなドロドロした感情のもつれに、けっしてならないのは、「トライアングルですな。三人のうち、どの二人も組になってゐないトライアングル」(「地下室アントンの一夜」)を形成しているためだと思われる。
 この言葉を語った幸田当八は、翠の創始した「分裂心理学」の研究者で、少女時代の小野町子に、戯曲の恋のフレーズを朗読させ、それ以来、町子の悲しい思慕の対象となっているが(「歩行」)、その町子の「失恋者」の風情に、すっかり恋をしてしまったのが、当八が先の言葉を語った相手である、へっぽこ詩人の土田九作であり、これで当八が九作に好意を示せば、一方向に流れるトライアングルが完成するわけだが、さすがにそこまで図式的ではない。
 しかし、小野町子が、詩人を目指すぐらいに成長した「第七官界彷徨」では、町子の恋らしきものは、たとえば従兄弟の三五郎相手には、隣家に引っ越してきた女学生と三五郎の接触によって、初めて恋情らしきものが発動し、彼女の更なる引越しとともに、あっという間にしぼんでしまう。そして、分裂病院の医師である柳浩六に対する、自覚的な新たな恋は、浩六の好きな異国の女詩人という媒介をへて、発動するのだ。浩六は、町子の兄である、同僚医師の一助との、女患者に対する三角形の恋を、二人同時に断念した後、遠い土地に引っ越していった。
 小野町子は、浩六を追おうとするような素振りはまったく見せず、むしろ異国の女詩人の探求に向かう。まるで、みんなが、みんな、「のろけ函」の持ち主のように「肉体をそなへた女(あるいは男)に恋愛するのは不潔だといふ思想」をキープしているかのようだが、わたしは小野町子の、異国の女詩人に対する関心を、浩六への思いの代替ではなく、生身の現実である(かのように見える)浩六と、本のなかにしか存在しない(ように見える)遠い異国の女詩人が、町子において、まったく等価であるように思えてならないのだ。次元の異なる、いや、次元の交錯した「トライアングル」で、これでは恋愛が成就する気づかいはまったくない。



「第七官界彷徨」のラストで暗示された、この奇妙な「トライアングル」は、実はそれ以前に書かれた「木犀」で全面展開されていた。「屋根裏の借り部屋」で、孤独に暮らす、「一本の苔」のような女主人公と、北の牧場で牛とともに暮らす、本人も牛に似たN氏、それに場末の映画館の擦り切れたフィルムのなかのチャップリン、この三者の作る「トライアングル」は、まことに奇抜なものだ。N氏が侘しく、ひとり上野駅から北に帰った三日後、今度は「チヤアリイ」が、映画館の幕から消える(上映が終る)日で、その帰り道、女主人公と「チヤアリイ」は次のような会話を交わす。

「チヤアリイ、私は牛に似たN氏の影を追つかけてゐます。申し込みをしりぞけられて牛の処へ帰つていった彼を。だからあなたを愛しているのです」
「あまのじゃくめ」チヤアリイは杖で木犀の香を殴りつけた。「何だつて俺とジヨオジアのようにハツピイエンデイングにしないのだ。だから俺は地球の皮といふ場処が嫌ひなんだ」
「私だつて地球の皮といふ場所が嫌ひだからN氏の牧場より屋根裏の方が好かつたのです。あなた方のハツピイエンデイングだつて地球の皮をはなれた幕の中ぢゃありませんか」
「ぢやさつさと屋根裏にお帰りなさい」

 階段や梯子を伝って上る、屋根裏の借部屋、略称「屋根部屋」は、多くの尾崎翠の登場人物たちの住処で、どうやら、そこは「地球の皮」から一段浮遊した場所のようだが、ここの住人は「幕の中の住人」と、どこか通底しているようである。どちらも「地球の皮」の現実を生きていない。N氏が、侘しく牛のもとへ帰らざるを得ないユエンだが、「屋根部屋」の女主人公と、「幕の中」の「チヤアリイ」と、北の牧場のN氏は、それぞれ別の次元を、孤独に生きているのだ。この究極的に寂しい「トライアングル」こそ、尾崎翠的恋愛のエッセンスというべきか。
 なお、この「木犀」は、芥川の短編における芸者福竜の「片恋」を延長させながら、さらに尾崎翠オリジナルの「トライアングル」の構図を接続したように見える。もし、翠が、芥川の「片恋」を読んでいたとするなら、それを独自のスタイルで、さらに発展させたものだろう。



「木犀」の女主人公には、それでも、いくら牛に似ているとはいえ、N氏という現実世界の相手があったが、「こほろぎ嬢」となると、図書館の奥の、誰も読まないような文学史の隅っこに登場する、「ゐりあむ・しゃあぷ」氏と「ふいおな・まくろおど」嬢との「トライアングル」な恋であり、しかも相手の二人の詩人は、同一人物の心の中に住む「どつぺるげんげる」なのである。なんという、ややこしい構図であろう。「こほろぎ嬢」の語り手は、次のように述懐する。

「この古風な一篇を読み進んだこほろぎ嬢は、身うちを秋風の吹きぬける心地であつた。このやうな心地は、いつもこほろぎ嬢が、深くものごとに打たれたとき身内を吹き抜ける感じであつて、これは心理作用の一つであるか、それとも一種の感覚か、それを私たちははつきり知らないのである。そして秋風の吹きぬけたのちは、もはや、こほろぎ嬢は恋に陥つてゐる習ひであつた。対手はいつも、身うちに秋風を吹きおくつたもの、こと、そして人であつた。
 ふとした頭のはずみから、私たちは恋といふものの限界をたいへん広くしてしまつたやうである。」


 ここで注目されるのは、「対手はいつも〜もの、こと、そして人」と明確に述べられていることだ。普通、人間の恋愛の対象とされる「人」以外に、事物や、事態もまた、恋愛の相手に含まれる! こほろぎ嬢にとって、「しゃあぷ」氏と「まくろおど」嬢は、時空を越えた人であると同時に、書物というモノであり、また一人の人間が男女に分裂している、風変わりな事態でもあった。
 これは確かに「恋といふものの限界をたいへん広くしてしまつた」いわば汎神論ならぬ、汎恋愛論であり、人間同士のカップルを基本とする近代的な対幻想からは、もっとも遠い地点にあるだろう。尾崎翠は、対幻想や、人間の再生産につながるものを、きれいさっぱり排除したが故に、「第七官界彷徨」には父母が登場せず、小野町子は永遠に「お祖母さんの家の孫娘」なのだと、とりあえず、独断的に言っておこう。
 独断ついでに言えば、ウィリアム・シャープとフィオナ・マクラウドのエピソードは、尾崎翠の「両性具有」への関心、のように語られることが少なくないが、「両性具有」という言葉に含まれる、ユートピア的な理想型への憧れ、いわゆる雌雄具備が、人間の完全な状態であるといった、甘い幻想は、尾崎翠にはまったくなかったはずだ。
 一個の人格が、男女に分裂しているという、分裂の事態こそ、尾崎翠の強い関心と共感をそそったのであり、分裂した男女と、女主人公の形成する、これまた奇天烈な「トライアングル」こそ「こほろぎ嬢」内部に潜在するテーマに他ならないように、わたしには思われる。さらに言えば、蜃気楼のように非在の「まくろおど」嬢の方にこそ、こほろぎ嬢、および尾崎翠は、より惹きつけられていたのではないだろうか。



 何か、独りよがりな妄言を、延々と書き連ねているような気が、自分でもしてきたが、最後に、わたしの好きな、しかしあまり語られることの少ない「途上にて」を取り上げて、この「トライアングル」論を終ろう。「途上にて」は、屋根裏に住む女主人公が、「パラダイスロスト」の横町を歩きながら、今では北海道に帰った、松下文子を思わせる女友達と一緒に、この通りを歩いたことを回想し、その友達に向かって、長い手紙を書くというスタイルをとっている。
 その手紙の内容は、まず、今日、図書館で読んだ、砂漠で祈るような格好で死んでいたキャラバン隊の少年のエピソードを語り(異国の物語が挿入される「こほろぎ嬢」と同じ構造)、次にパラダイスロストの通りで、偶然「中世紀氏」と、二年ぶりに出くわしたことを報告する。彼は、北海道の女友達が、まだ東京にいた頃、三人で親しく付き合った、医者の卵だったが、彼は二年前に、二人に向かって、次のような「絶交状」を書いた。

「僕は知るかぎりの女の人たちのうちで、あなたがたをいちばん好きでした。今でも誰よりもあなたがたを好きです。しかし、僕たち三人の交友はこのごろ僕の周囲でいろいろやかましい上に、僕は遠からず結婚することになりました。僕の経験によりますと周囲などといふものは、男と女の交友などまつたく認めないもののやうです。僕の結婚しようとする女を、僕は周囲の一人に数へなければなりません。」

 これは、そうとう奇妙な、愛の告白、あるいは訣別であるように思われる。彼が結婚するのは、周囲=世間の問題で、世間は男と女の交友を認めない、などといったところは、どうでも好いことで、わたしが奇異に思うのは「あなたがた」という、複数形の呼びかけなのだ。中世紀氏は、単独で東京に残った彼女に話しかけるときも、「あなたがた」と呼び、実は彼は結婚することも、医者になることも放擲したことを告白する。彼はまもなく、田舎の教会に向かうと言い、「木犀」の、牛に似たN氏のように、一緒に来てもらいたくないことも無さそうな風情なのだが、彼女の方は、さっぱり関心を示さず、ついに決裂して、彼は憤然と去っていくのだ。



 おそらく中世紀氏は、彼が彼女たちを、絶えず「あなたがた」と複数形で呼ぶ「トライアングル」の秘密に、充分、自覚的ではなく、一方、屋根部屋の彼女のほうは、三角形を形成しない、相対(あいたい)の関係では、ついに「平行線」で終ることを、かつて女友達が風邪気味のため、中世紀氏と二人でナジモヴァの「椿姫」を観に行ったときのことなど思い出しながら、明確に自覚的なのだ。
「どの二人も組になつてゐないトライアングル」でないと、けっして発動しない「恋愛」とは、なんだろうか。それに対する、充分な答とはいえないが、砂漠で死んだ少年について、彼女の語る、ひどく印象的な、次の言葉を引用しておこう。

「それは、死の原因となる心理が、死の姿態にはたらきかける力のやうなもので、この著者によれば、デザイアは人間を枯葉のように斃死させ、それの混らない純粋な思慕は祈祷のかたちの死を与へるさうです。」

 この「途上にて」という一編で表明されているのは、性的「欲望」の欠如した、「関係性の恋愛」の可能性、あるいは不可能性だと、わたしは勝手に、牽強付会する。心臓は菱形になり(「地下室アントンの一夜」)、恋愛は、対にならない三角形になるのが、尾崎翠的恋愛の理想形であり、そこでこそ初めて、彼女たちは安息するのだ。
 そういえば、尾崎翠が、高橋丈雄に「恋情を突然告白した」(創樹社版全集月報。高橋丈雄「恋びとなるもの」)のは、妄想に駆られる翠が「身辺に、魔手を感じます。すぐ来てください」という「奇怪なハガキ」を出したためだったが、まったく同文のハガキが、やはり親しく付き合っていた十和田操にも舞い込み、それで二人はそろって、翠の借りている下宿を訪れたのだった。
 そこで、翠が、高橋にのみ「恋情を告白」したのは、現実の世界では「トライアングル」の恋が不可能であることを、錯乱のなかにありながらも、身をもって突きつけられたためだったろうか。一部ままごとのような、一部狂瀾怒涛の、この十数日を除いて、尾崎翠に男性との、現実的な「恋愛」があった形跡は、まったくない。


comment

 すみません。せっかくのご指摘に気づかないまま、数週間過ぎてしまいました。ご指摘の通り、「途上にて」と書くべきところ「歩行」となっていて、しかも何箇所もあるのに愕然としました。有り難うございます。先ほど訂正しました。
 改めて読み返し、あまりにも妙な力こぶが入っているのにはヘキエキしました。こんな長たらしい駄文を読んで頂いた少数の方々に心からお詫びしたい気持ちです。
 このところ「mixi」ばかりに気をとられていますが、このブログを何とか再建したいと考えています。もっとも、久しぶりの更新が「でぶフェチ映画」ではね…(嘆息)。

最後に考察されているのは「歩行」ではなく「途上にて」だと思いますが。

  • 2006/11/14 3:06 PM

miyoさま
「翠のユーモアのかんじは坂田さんに近い」というご指摘、思わず膝を打ちました。わたしは、坂田靖子はほとんど読んだことがないのですが、ユーモアの感じは、たしかに大島弓子では、ないです。世界観とか、作品の枠組みは、翠と大島さんに、そうとう近いものを感じますし、少女の思いや、独特のおセンチの角度(?)、それにモノローグの雰囲気なども、似たところがあると思いますが、ユーモアに関しては、なるほど、ちょっと違うな、と思いました。
「とくに「ハロオ、センチナウタヨミ」のせりふなど大島さんの絵でぜひ」。いいですね! 短いエッセイですが、「もくれん」しみじみと好きな作品です。わたしたち、浜野組のスタッフも「羽織ヲヌイデ夏ノウタヲ支度」しなければならない、瀬戸際に来ているようです。

yukaさま
 実は、映画『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』のビデオを発売した際に、トロントから注文して頂いただけでなく、HPで貴重なコメントとともにご紹介頂いたことが、鮮明に記憶に残っています。ご著書『赤毛のアンを書きたくなかったモンゴメリ』は、とっくに読んでいなければならなかったのですが、拙ブログに直接コメント頂いて、慌てて注文しているところが、わたしのお粗末なところです。先週、翠映画第二作のロケハンで鳥取に行っている留守中に届き、明日には、郵便局に直接受け取りに行ってきます。わたしは、松本侑子さんの新訳で感涙にむせんだ、急ごしらえのファンの一人に過ぎませんが、ご著書、愉しみに拝読したいと思います。
 勝手ながら、リンクのコーナーに、yukaさんのブログ「Yukazine」を加えさせて頂きました。地味で見にくいリンクではありますが、これからもよろしくお願いします。

「思いつきで書き散らし」でこれだけすごいのが、ほんとに山崎さんてすごい・・・。わたしのほうは「第七官界彷徨 尾崎翠を探して」ならぬ「フィオナ・マクラウドを探して」ということでしばらく彷徨します^^。ほんとに、初めてお目にかかったとき、今よりもさらにバリバリの小娘だったわたしと少女マンガの話で盛り上がってくださったこと、恥ずかしさとともによく覚えています。わたしは「地下室アントンの一夜」は坂田靖子さんの絵(イギリスものの絵)がすごく合うと今も昔も思っています。とくに「さうとは限らないね。此処は地下室アントン。その爽やかな一夜なんだ」という台詞は坂田靖子さんのバジル氏みたいな雰囲気の男性に言ってもらいたい!(妄想炸裂状態・・・^^;)でも、翠のほかの作品、とくに「第七」は、大島さんのむかしの絵が合うだろうなあと思います。大島さんの絵のほうが坂田さんより湿気がありますし。「途上にて」や「もくれん」も大島さんの絵で読みたいです。とくに「ハロオ、センチナウタヨミ」のせりふなど大島さんの絵でぜひ(妄想がとまらない・・・^^;)「地下室アントン」って、出てくるの男ばっかりだし、翠の作品のなかではちょっと湿気が少ないから坂田さんの絵が合うんじゃないかな?と思います。あと翠のユーモアのかんじは坂田さんに近いと思います。

  • miyo
  • 2006/02/26 9:57 PM

Kuninori55さん
お返事ありがとうございます。

わたしなんぞは「研究」はしておりませんが、尾崎翠もモンゴメリも好きな書き手であり、彼女達の生き方というのか、生きた時代も含めて、いろいろ関心があります。モンゴメリの作風の時代の匂いを嗅ぐ為に、くんくんくんと鼻をならして関連地を巡ったのでありました。拙書はその遠い日々の記録であります。わざわざお時間とって読んでくださるなんて.... なんて奇特なお方で有りましょう。当方大赤面。

それにしてもKuninori55さん、翠を追求するブログなんてかっこ良すぎます!こんな素敵なブログが存在するなんて、ああ、熱がでそうです。

  • yuka
  • 2006/02/26 2:15 PM

>リンクに付け加えさせて頂きたいと

はい、大変光栄に存じます。こちらこそ、よろしくお願いします。
>建つ三介 タツサンスケ です。
>「論文を読むハメに」と書いてるぐらい

「ついつい気になって」の意味です。ところが予想外に長かったので・・、でも、尾崎翠の色んな作品に言及されていて、場面が浮かんで楽しかったですよ。

映画5周年の監督の対談も読みました。主演女優の方、僕は知りませんが、「足が短い」云々には笑えましたね。
機会があったら、是非観たくなりました。

建つ三介さま
「いいライターですね」などと言ってもらうことが、これほど気持ちの好いことか、思わず、ひとりニヤニヤしてしまいましたが、これは常々「長過ぎる!」「読むのが面倒臭い!」と言われ続けているせいでしょう。建つ三介さん(なんとお読みするのでしょうか)もまた「論文を読むハメに」と書いてるぐらいですから、少々の苦痛は我慢して頂いたのでしょうが、福岡映画サークルの「くるめ鰯」さんのように、わざわざメールをくれて「最後の方に、ちょっとぐらい刺激的なことが書いてあっても、そこまで誰も行きつかない」といったアドバイスをしてくれる旧知の方もいるぐらいです。自分の好きなスタイルで、勝手な長さに書けるからこそ、わざわざ自前のブログを始めたわけで、読んでもらうことが目的じゃないんだから、とわたしはそのメールに返事も出しませんでしたが、それだけに我慢して読み通したうえで、ほめて頂けるのは、うれしい限りです。もっとも、いつも「よいライター」であるわけではなく、「わるいライター」であることの方が多いと思いますので、その際には存分に酷評して下さい。これから鳥取に出かけるので、あまり長く書けませんが、貴ブログは拝読し、耐震偽装の専門的な計算の問題など、わたしには難しくて分かりませんでしたが、藤田省三氏に関するご指摘など、おおいに共鳴しましたので、帰り次第、リンクに付け加えさせて頂きたいと思います。

こんちは。ちょっと寄っただけなのに、ついつい論文を読む破目に・・。

>尾崎翠は、「第七官界彷徨」では・・「肉体をそなへた女に恋愛するのは不潔だといふ思想」を持ち、
>尾崎翠の、こうした二次元の「幕」への偏愛、それも作品や役者そのものではなく、
>「・・蝋燭の味」「・・踵(きびす)」「・・三角な爪」パーツに細分化する傾向を
>それぞれ別の次元を、孤独に生きているのだ。
>究極的に寂しい「トライアングル」こそ、尾崎翠的恋愛のエッセンス

どれも面白いコメントですね。これらを読んでいて、
ダンテの「ベアトリーチェヘの愛」や
プルーストの「失われた時を求めて」の細かな描写を
思い浮かべてしまいました。
或いは、野田正彰の「事物にも情がある」(「喪の途上にて」)も。つまり、優れた文学の共通性を突いておられる。

ただ、
>どちらも「地球の皮」の現実を生きていない
のではなく、その「唯物・観念」両面ひっくるめて現実と感じ、描き切る点が、
尾崎の良さのような気もします。突き詰めたいという執着こそが・・。

いずれにしても、あなたはいいライターですね。
いずれブログで紹介させてください。
その際は、リンクや引用等、よろしくお願いします。

miyoさま
 初めてお会いしたその日に、尾崎翠は、少女マンガ家だったら誰だろう? という話題で盛り上がりましたね。あれから何年経ったのでしょう。映画ができ上がって、間もなくのことだったと思います。ぼくは相変わらず大島弓子説に固執していますが、miyoさんは確か、坂田靖子説でした。その後、見解は変わっていませんか?
 こちらは思いつきで書き散らしていますが、マクラウドのご研究、よろしくお願いします。

yukaさま
 華美/黴の説、なるほど! と大きく頷きました。翠も大島さんも、繰り出してくる言葉に、ひどく忘れ難いものがあります。これは、わたしのようなマニアだけでなく、普通の日常生活をおくっている、あまり小説やマンガなど読まない女性の心にも届くもののようです。浜野監督の『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』の製作が、新聞などで報道されたときには、その何年も前にNHKラジオの朗読の時間で放送され、その印象が強く残っていて、小説を読むにはどんな本を買えばいいのか、撮影隊に問い合わせがだいぶありました。
 yukaさん、カナダで『赤毛のアン』のモンゴメリを研究されているyukaさんですよね。コメント頂いて恐縮しています。未読だったご著書『赤毛のアンを書きたくなかったモンゴメリ』(青山出版社刊)を、慌てて(?)アマゾンで注文しました。出版社は売り切れて、残念ながら古本でしたが、謹んで拝読します。ご研究の進展を心から祈念しています。

  • kuninori55
  • 2006/02/20 1:04 AM

♪独断ついでに言えば、ウィリアム・シャープとフィオナ・マクラウドのエピソードは、尾崎翠の「両性具有」への関心、のように語られることが少なくないが、「両性具有」という言葉に含まれる、ユートピア的な理想型への憧れ、いわゆる雌雄具備が、人間の完全な状態であるといった、甘い幻想は、尾崎翠にはまったくなかったはずだ。
 →すばらしい独断。わたしもそう思います。「両性具有」と翠って相容れない印象があります。
大島弓子さんの選集10巻くらいまでの絵柄と「第七官界彷徨」がかもしだす雰囲気が似ていると思っています。

  • miyo
  • 2006/02/19 8:07 PM

>これだけで、大島弓子さんの作品に、尾崎翠的世界の反照を見るのは、まったくコジツケに近いが、...

いえいえ、コジツケなんて。ごく自然な思いのように感じられます。

今の我々からすれば、日常から離脱したような、すこしカビ(華美/黴)臭い日本語使いが大島弓子の作品にもありますものね。

  • yuka
  • 2006/02/19 6:25 AM









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