2017/09

01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30

<< >>


 パリの生活街区を歩く時、アメリカの路上などと比べ、威圧的な緊張感のようなものが少ないのは、フランス人が比較的小柄だから、という説もあるが、私が巨躯によって心底ビビらされたのは、アメリカ体験ではない。両国の国技館に相撲見物に行った時、トイレの帰りに誤って、出を待つ力士の控え室のようなところに迷い込み、いきなり目の前に巨大な肉塊が林立しているのに出くわした時には、慄然とした。土俵で照明を浴びた力士の肌は美しいが、眼前に迫る分厚い皮膚のようなものは、凄まじい稽古によって、ほとんど爬虫類か甲殻類の表皮のように見えたのである。わたしは日本製の巨漢に圧倒された。
 花田清輝の「極大・極小−スウィフト−」(『復興期の精神』所収)は、ドストエフスキーが「悪霊」の冒頭で「ガリヴァ旅行記」を引用しているエピソードから始まる。小人国からロンドンに帰ってきたガリヴァが、自分を大人(おおびと)に思うそれまでの習慣が抜けず、街中でつい大人気取りで、通行人や馬車に向かって「どいた、どいた、うっかりしていると踏みつぶすぞ」などと怒鳴りつけ、逆にみんなから冷笑され、罵倒され、馭者には鞭で叩かれた。しかし、花田は言う。「これがドストエフスキー一流の出鱈目」であり、スウィフトの原作でガリヴァがロンドンでそういう仕打ちを受けるのは、小人国からではなく、大人国から帰って来た時なのだ。それまで大人(おおびと)ばかり見慣れていたので、普通人が小人のように感じられ、それで「どいた、どいた」などと言ってしまった。



 ここからの論理展開が花田の独壇場で、「ドストエフスキーが記憶力のいい男でなかったことは確かだが−しかし、この間違いには、何か微妙なところがあるように思われる」。なぜなら、ロンドン市中で余計なことを言い、馬鹿にされたり鞭で叩かれる結果は同じなのに、ドストエフスキーのガリヴァは小人国で暮らし、スィフトのガリヴァは大人国で暮らしてきたのだ。前者は小人の中で自分を大人(おおびと)だと考える習慣が身について、普通人を小人扱いしたが、後者は大人の中で暮らすうちに自分も大人であるような気がし始め、結果として普通人を小人扱いした。
 どちらも一理あるようだが、どちらか一方が正しいなら、もう一方は間違いでなければならない。大人国にいたので普通人が小人のように見えるのが正しいなら、小人国にいたら普通人が大人のように見えるはずだし、逆に小人国にいたので自分を大人のように思い込み、普通人を小人扱いするのが正しいのなら、大人国にいた場合、自分を小人と思い込む習慣から、普通人は大人に見えなければならない。この辺の論理がややこしく、わたしは初めて読んだ時、大いに面食らい、戸惑ったものである。頭の中で何度もシミュレーションしてみるのだが、錯綜すること、はなはだしい。
 しかし、花田はさらに歩を進め、「翻って考えるならば」スィフトのガリヴァが大人国から帰って普通人を大人(おおびと)と比較し、小人のように感じるのは「客観的な意味において正しい」。また、小人の間で自分をすっかり大人と思い込んだドストエフスキーのガリヴァもまた「主観的な意味において、無理もないことだといえる」。したがって、彼らに加えられる冷笑や鞭は、まったく違う動機にもとづかなければならない。普通人の世界に限定すれば、スウィフトのガリヴァは、大人国に比べ普通人が圧倒的に小さいことを正しく認識しているが、ドストエフスキーのガリヴァは、自分が大人であるという錯覚をもとに、普通人を矮小化しているので、普通人から酷い仕打ちを受けるのは止むを得ないことなのだ。



 ここまでの経過を「大人と小人と普通人とに関する紛糾(てんやわんや)」と花田は呼ぶが、こんなことを考えることに、いったいどういう意味があるのだ! と怒り出す短兵急な人たちも少なくないだろう。しかし、ああでもない、こうでもないと言いながら、単なる二転三転ではなく、螺旋を描きながら異なる次元へと軽やかに移動していくところに、花田の文章の醍醐味がある。この「極大・極小」でも、さんざん「てんやわんや」した後、「習慣とは何か」を問い、「ガリヴァ旅行記」の風刺の方法、さらには狂死するスウィフトの人生の結末まで見事に繋いでいくのだが、わたしはもう少し、スィフトのガリヴァとドストエフスキーのガリヴァについて拘ってみたいのだ。
 新潮文庫の「悪霊」(上下巻・江川卓訳)を参照すると、あった! 第一部第一章が始まって直ぐの2頁目に「前世紀のあるイギリスの風刺小説」として紹介されている。しかし、小人国から帰ってきたガリヴァに擬せられているのが、旧世代のインテリの代表選手で、貴族に寄食しているヒューマニスト、ステパン・トロフィーモヴィチ氏なのだ。こうなると、ドストエフスキーのガリヴァは、小人国で暮らすうちに自分を大人(おおびと)と思い込み、普通人を小人扱いするガリヴァ以外の何者でもない。何しろステパン氏は、かつて自分が書いた詩だか論文だかを、いまだに傑作だと思い込んで、若いニヒリストたちに読んでもらいたがっているような、お目出度い先生である。(なお、江川卓訳では「スウィフトの原作では、この話は大人国からの帰国後のことになっている」という訳注が付いている)
 これはドストエフスキーの記憶違いなどではなく、意図的な改変あるいは歪曲に他ならないが、主観や妄想によって現実を捻じ曲げる、いかにもドストエフスキー的なガリヴァだと言える。ここでわたしは反省的に考えるのだが、わたしたちは、もし自分がガリヴァであったなら、ドスト・タイプになるか、スィフト・タイプになるか? あるいは、目の前の誰かがガリヴァだったとして、どちらに好感を抱くか? 
 明らかに迷惑なのはドスト・タイプで、花田もまた「率直に言えば、小人の間で大きな顔ばかりしていて、それが癖になり、普通人の間でまで威張りちらすガリヴァには、私は最初から好意を持っていないのだ。これに反して、大人の間で絶えず痛めつけられ、背伸びばかりしていて錯覚を起こし、たまたま普通人の矮小な姿をみるにおよび、思わず注意を促すガリヴァには、心から同感せざるを得ない。前者の態度は安易であり、後者の態度には、努力の跡が認められる」と書いている。



 わたしは自らを振り返って、時にドスト的、時にスウィフト的なガリヴァになっていないか、実に冷や冷やモノではあるが、かつての日本では大人国が男社会、小人国が女社会、或いは官と民、大人と子供、といったアナロジーで棲み分けしていたよう記憶があるが、最近ではどうなのだろう。しかし、その一方で、鼻持ちならないドストエフスキーのガリヴァも、「努力の跡が認められる」と花田に評価されたスウィフトのガリヴァも、相対的に自分が大きい方を選んでいることは見逃せないと思うのだ。
 例えば、小人国で暮らすうちに小人に自己同一化し、帰ってきて普通人が巨人に見えたり、大人国で暮らすうちに自分を小人だと感じる習慣が身につき、普通人が巨大に見える選択を、二人のガリヴァはどうしてしなかったのか? 人は自分が矮小化された状態のまま持続することに耐えられず、どこかで自己回復を図ったり、いやそれ以上に自分を大人(おおびと)と思い込む瞬間が欲しいのかもしれない。しかし、もしガリヴァが女だったら、事態はどう変わったか? パリまで来て、あいも変わらず花田の文章について考えているわたしだが、「てんやわんや」はまだまだ続くのである。


comment

以前、「Salix babylonica & Water lily」という記事にTBさせてもらったものです。
この記事も興味深い内容だったので、勝手ながらまたTBさせてもらいました。










trackback

抹殺の現代2『ガリバー旅行記』の果て(本章)

副題 「車と路地」から見えてくること・・など。『ある喪失の経験』(藤田省三) 「いわいわブレーク」でもリンクしています「影への隠遁Blog 尾崎翠」に花田清輝氏を扱った文章が幾つかあります。 「2005.03.10 Thursday ガリヴァのトラウマをめぐるてんやわんや−

  • いわいわブレーク
  • 2007/01/21 5:21 PM

スウィフトや遠路はるばる風刺かね

 昨日18日、フレッツ光が開通!  システムを変更するのは、パソコンに疎いものに

  • 無精庵徒然草
  • 2006/10/28 11:34 AM

「夜の果てへの旅」における黒いユーモア

前回取り上げたセリーヌの「夜の果てへの旅」は革命家トロ ツキーの次の言葉、すなわち「『夜の果てへの旅』はペシミズ ムの書、人生を前にしての恐怖と、そして反逆よりもむしろ人 生への嫌悪によって口述された書物である。積極的反逆は希望 と結びつく、セリーヌの

  • サブカル雑食手帳
  • 2006/03/02 9:36 PM

現代心理学考 2003.6.X 初出

本当にそれは恐怖で 僕は背筋が冷たくなる思いがしました。 人類の知はここまで来て...

  • 仙台インターネットマガジン ★仙台のフリーネット雑誌
  • 2005/09/08 2:59 PM

♂♀ 生・性・聖 2003.6.X 初出

更年期のせいでしょうか 男性も女性も、六十歳を過ぎたあたりから 独特の品が出てく...

  • 仙台インターネットマガジン ★仙台のフリーネット雑誌
  • 2005/06/21 3:15 PM