2018/09

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ひとりで大騒ぎして、mixiやブログで書き綴った3月1日の世界傑作劇場だったが、この日をもって取り壊しということもあり、多くの人が集まってくれた。普通なら座席に座っているのは少数で、圧倒的多数は壁際に立ち、好みの相手があれば隣に座りに行くというパターンだが、さすがに舞台挨拶の回は座席に座る人が多く、ほぼ満席だったように思う。
また、ピンク映画館の例に漏れず、平常なら音声のボリュームも相当低いのだが、この回だけは支配人にお願いして、かなり上げてもらった。これは平日に観に行った、ピンク映画の脚本および出演で親しい岡輝男氏が珍しく電話をかけてきて、セリフが聞き取れなかったというので、心配していたもの。昨年の大宮オークラのときには、ボリュームを上げたら音が割れて、かえって何を言ってるか分からなかったので涙を飲んだが、今回はほぼ満足できるところまで出力できた。音は悪いけれど、こっちのダビングだって、そんなに威張れるほどのものではない。
大衆食堂の詩人エンテツこと遠藤哲夫氏と、シオヤマの本を驚異的な忍耐力で編集したライターの南陀楼綾繁氏は、それぞれご自分のブログで、今回の上映&舞台挨拶を紹介してくれた。知人友人の極端に少ないわたしだけに、お二人のブログは多くの人に知ってもらうきっかけとなったことだろう。ご厚意に感謝する。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/
http://d.hatena.ne.jp/kawasusu/



舞台挨拶の後、関係者や知人と打ち上げを行ったのだが、ゲイ当事者の青年が、パンツを穿いた股間同士をこすり合わせるわたしのカットを「あれもアリだ」と評してくれたのは嬉しかった。こすれ合う股間を真下からクローズアップで撮るもので、わたしは「金玉ごろごろカット」と称している。今回は全員が前貼りをしていたので、わたしとしてはイマイチだったのだが、普段ならパンツを穿いてる間は前貼りなしで撮影するところだ。するとパンツの横から袋の一端がはみ出したりして(はみチン)なかなか愉快なカットになる。
今回は、事前に「美しい映画にしよう」(!)という狙いがあったことと、薔薇はもちろんピンクの作法にも慣れていない出演者がいたことで、パンツの下の前貼りを了解した。しかし、あの2カットだけは前貼りナシでやるべきだったと、今でも後悔している。困ったことに、あのカットを撮らないことには、わたしは薔薇を撮ったという気がしないのだった。
なお、青年の知り合いが、10年以上も前の『パレード』という、わたしの作品のなかに映っているという話を聞いてビックリ。レズビアン&ゲイパレードの実行委員会に交渉し、パレードの模様をビデオで取材し、それを劇中で使っているのだが、そのビデオ部分に映り込んでいたのだろう。今では劇場で見ることができない作品なので、保存用ビデオをダビングして進呈することを約束する。(まだ送っていない、御免!)
その『パレード』に、金儲け主義のエロ劇画編集長役で出演したシオヤマも、この日来ていたのだが、彼に言わせると、あの作品でもこの劇場で舞台挨拶を行い、彼も登壇したのだとか。確かにセリフのある重要な役だったが、アフレコの下手さ加減には目を覆うべきものがあった。友人で、なおかつギャラなしだからといって、安易に出演させるべきじゃないね。(といっても、ふだん彼が口癖のように言ってることをセリフで喋らせ、彼が顎で使っている劇画家の原稿を借り出し、彼が創刊したゲイ漫画誌をそのまま使った)。
シオヤマは「日刊漫画屋無駄話」で、作品の出来は自分が出演した「パレード」並みであるとしながら、「にしてもだ。ATGでもあるまいし、大蔵映画はよくGOを出したもの。エロ漫画界だって、下描き段階で没。貧しいが幸せな男だ」(3/2)などと書いている。まったく余計なお世話だ。
http://park22.wakwak.com/~mangaya/nikkann.html



しかし、3月末に出版されるというシオヤマの新著『出版奈落の断末魔〜エロ漫画の黄金時代』(アストラ刊)の予告が、漫画屋のHPの冒頭にデカデカ載っているが、いがらしみきお氏の描いた宣伝漫画に、わたしまで登場していたのにはビックリ。いがらしさんにシオヤマが小便を引っかけ、それを多田君が笑って見ている脇で、酔っ払ったような表情のわたしが立っている。以前、わたしたち3人がいがらしさんの作品「かむろば村へ」の登場人物のモデルになっていると、シオヤマがファックスを送りつけてきたが、多田君は堂々たる重要人物、ホームレス役?のシオヤマは哀れな表情がそっくり、そしてわたしはと言えば、変な半纏にギターを下げて、ほんの数コマ登場する。自分では似てないと思うのだが、昨年の大宮オークラの閉館特集に来てくれただけに、マンガ家の眼力には従うほかはない。あの半纏は、今回の舞台挨拶で着ていた舘岩村婦人消防隊の半纏を予告していたのか。
http://park22.wakwak.com/~mangaya/
わたしが、シオヤマや多田君の同業者として、エロ劇画誌の編集をしていたのは何十年も前のことだが、多田君もこの日来てくれた。一次会では誉めてくれる人が多く、わたしがいい気になっていると睨んだか、二次会でわたしの前に座った多田君が、作品への疑問を呈し始めた。苦言を呈してくれる友人は貴重だ。率直に耳を傾けなければならない、と思う一方で、多田君というのが尋常の論理の使い手ではなく、自分の実感を軸に、屈曲性に富んだ分析を展開する。わたしは昔から彼を分析フェチと呼んでいるが、他人事なら面白がって聞けるものも、自分のこととなると、そうとう面倒だ。
わたしは酔っ払っているうえ、今日ぐらいはいい気持ちにさせてくれ、と思ったところで、記憶が途切れていた。説教する多田君を前に、眠り込んでしまったのだ。聞きたくない話には耳を閉ざし、眠ってしまう。なんという年寄りらしい知恵だろう。さすがに翌日反省して、次回ゆっくりご批判を承るというメールを出したが、舞台挨拶の前夜、千葉県東金市の「雑貨&カフェ ルパーブ」で浜野佐知コミュ(mixi)オフ会があり、深夜まで飲んで、当日の朝、長距離バスで帰ってきた。寝不足であったことも間違いないが、これからも聞きたくない話には、とぼけて眠ってしまう作戦が有効な気がする。



わたしは気づかなかったが、柳下毅一郎氏が来ていたと、目ざといシオヤマが言っていた。氏は昨年の大宮の閉館特集のときにも来てくれたが、拙作を試みのレベルで面白がってくれる唯一の批評家だ。今回の作品について、氏のブログで「牧村耕次が哀感と同時に老ホモセクシュアルの狡猾さも見せつけて素晴らしい」と書いてくれたのは、まさにわが意を得た思いだった。
というのは、今回は企画の当初からひとつのシーンの両義性、多義性といったものを心がけたいと考えていたので、もちろん牧村氏の演技はプロとしての彼の技量が存分に発揮された結果なのだが、死に向かう人間にも自分の卑小な欲望を遂げたいという、小ズルイ計算がある。それを見事に演じた牧村氏にも、見抜いて指摘してくれた柳下氏にも感謝したい。牧村氏とは、スタッフ試写の打ち上げで口論になったのだが、はたして今後、拙作に出てくれるのかな?
http://garth.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-f4ee.html



世界傑作劇場の舞台挨拶から半月後、すい臓がんを患っていた老母が亡くなった。病気が明らかになって、ちょうど1年後のことだったが、会津若松の病院への入院、川崎市の病院への転院、そしてケア病棟=ホスピスと、目まぐるしい日々だった。最期の一時期、譫妄(せんもう)状態に陥った母との対話は、母という人間を知るうえでも、また自意識から解き放たれかかっている人間の意識に浮かぶ想念の、超現実的な論理を知るうえでも貴重なものだった。
今年に入ってからは1週に4日ほど病室に通ったが、病院が川崎市と横浜市の境界にあるため、東横線の日吉駅から15分ほど歩いた。その途中には、オリジナル「ラスタ麺」、酸辣湯麺と発泡酒の生ビールが美味い「太楼」、安くて感じの良い床屋さん「バロン」などお気に入りの店があり、また病院に向かってだらだら上がっていく坂道は、わたしのその日の体の疲労度を測るバロメーターでもあった。母もいないのに、あの坂道を登る気にはなれないが、これからほとんど行く機会もないだろう事を考えると、残念な気がしないでもない。

●写真は、東金市の八鶴湖。水を抜いて、溜まったヘドロを乾燥させ、それを何度か繰り返すことで、池を再生させるのだという。


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