2017/11

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<一晩で隣家の屋根から向こうの山まで雪に埋まってしまった。この奥にさらに山があるのだが、まったく見えない>

段ボールの函に入っているえんどう豆ビールを冷蔵庫に移そうとして、台所の温度と冷蔵庫の中の温度と、いったいどっちが低いのか、作業を中断して考え込んでしまった。もとより南会津は寒いのだが、寒波が襲来するという渦中にやってきた。
それでも昨日の夕方は、道路に積雪がなかったので、粉雪が宙を舞うなか、湯の花温泉の共同浴場に自転車で行ってきた。それが今朝になると、一面、雪に深く埋もれている。

老母の死後、これまで老父とともに月一回程度、南会津に帰っていたが、さすがにこれだけ寒くなると、父も今回は戻りたくないと言う。横浜生まれながら、戦争で祖父の地、会津に疎開し、その後さらに奥会津で開業して、半世紀以上過ごした土地だが、80歳を過ぎた老人にはキツイ気象条件だろう。
わたしは先週、広島の「ヒロシマ平和映画祭」から帰ってきたばかりだが、これから1週間ほど南会津で過ごす。父と同行するとわたしが食事担当だが、一人なら父に合わせて三食食べなくていいのが楽だ。(なお、ヒロシマ平和映画祭は実に面白かった。次回レポートします。)

JR新宿駅から東武線直通の特急スペーシアに乗り、鬼怒川温泉で野岩鉄道に乗り継ぎ、さらに会津高原駅でバスに乗り換える。それでも4時間弱で実家に着いているのだから、南会津も近くなったものだ。
車中で須原一秀著『自死という生き方〜覚悟して逝った哲学者』(双葉新書)を読み始める。新聞の広告で見かけたのだが、著者にとっては本書の執筆と、書き終えて朗らかに死ぬことが、ワンセットになった「哲学的プロジェクト」なのだという。それを面白いと思う以前に、著者の名前に微かな記憶があった。何か読みさしにした本があったはずだ。

自室で捜してみると、『超越感覚〜人はなぜ斜にかまえるか』(新評論刊)という本が出てきた。何が書いてあったか、まったく覚えていない。それを今回携帯してきたら、新宿駅の山下書店で『自死という生き方』が平積みになっていたので購入する。売れているのか?

わたしは知らなかったが、この新書は、すでに昨年1月に単行本として出ているのだとか。須原氏が「自死」したのが2006年4月。すでに3年半経っている。頭に浅羽通明という評論家の解説がつき、巻末に「家族から」という長男の後書きがある構成は、単行本と同じだという。
どうして本文を読む前に解説を読まなければならないのか? 何か取扱注意の危険な内容であるのか? バカげた構成なので、わたしは先に本文を読んだが、ほぼ妥当かつ穏当な主張だと思った。その後、解説にも目を通したが、須原氏にとって重要な概念であるらしい「変性意識」が「変形意識」と誤記、あるいは誤植されているのは、まったく頂けない。
解説者が恐縮してみせる、須原氏に少々の疑問を呈したり、「ご冥福をお祈りします」という常套句を入れなかったことよりも、この誤植の方が死者に対して失敬であるとわたしは思った。相手は哲学者なのだから、言葉は厳密に使ってもらいたい。単行本ではどうだったのだろう。

ただ解説によって、須原氏が神社の裏山で頚動脈を「刃物で切り裂い」たうえ、樹木に吊り下がって縊死したことを知り得たのは有用だった。もともとの原稿のタイトルは『新葉隠 死の積極的受容と消極的受容』だったのだが、わたしは日本の伝統的精神文化として「葉隠」や武士道を捉える須原氏の論理構成は、この「哲学的プロジェクト」において、必ずしも必要であるとは思えなかった。
そこに至る前の論述で、わたしは充分に納得したのだが、その一方で須原氏の自死の具体的な手段が気になっていた。実際のそれは確かに、死にそびれる可能性を完璧に排除したもので、氏の考える武士道に沿っているのかもしれない。
(なお、頭に解説が入っているのは、原タイトル『新葉隠』を中扉で生かし、なおかつ売れるための書名を『自死という生き方』にするための苦肉の策だったのか? しかし、本文を読む前に「第10章から読むことをおすすめする」などと書いてあるのは邪魔だ。)

死を称揚する哲学者や思想家が長生きして、老残の姿を晒すのはありがちなことだが、須原氏はタイムリミットを65歳に設定し、自ら死に行く当事者として論述することで、それらのアジテーターたちとは訣別する。頭のなかで観念的に死を考えるのではなく、日常的な生活のなかで体感的にも自殺する自分を総点検して、どこかに無理や矛盾がないか、多くの観点から考察を深めていくのは、確かに氏が自負するとおり、歴史的にも初の「哲学的プロジェクト」だろう。

死を語るのに、三人称の死=他人の死、二人称の死=家族など縁者の死、一人称の死=自分の死、の違いがあるという指摘は、今年の3月に膵臓ガンで亡くなった老母の間近にあったわたしとしては、非常に納得できるものだった。老母の場合は、典型的な「死の受動的ないし消極的受容」であったと思われるが、しかし84歳という年齢から「充分に生きた」という実感があり、また若き日に看護婦としてガン患者の凄惨な死に様に立ち会ってきた経験から、そこに「能動的ないし積極的」な契機がまったく無かったとは言い切れない。プロの看護婦としてのプライドのようなもので、わが身を持していたように思う。

自殺を、老後の生き方のひとつの規範として確立しようとする須原氏の論理展開のなかで、わたしが充分納得したのは、「極み」という考え方と、「人生の高(たか)」「自分の高」という考え方だ。
「極み」というのは、日常的な何気ない幸福感のようなもので、人は必ずしも厭世的なウツ状態で自殺するのではなく、日頃ちょっとした自前の幸せ感を感じている人間が、晴れ晴れとした気持ちで自殺することも有り得る。わたしも、温泉の共同浴場からの帰りに、自転車を停め、しばし星空を見上げていることがあるが、あんがい自分個人なんてどうでもいいような気になるものだ。
「人生の高」「自分の高」というのは、「高が知れる」という時の「高」で、まあ、自分にとって人生はこんなものだろう、また自分の能力はこんなものだろう、といったことが、ほぼ自分で諒解できる年齢があると、須原氏は言う。この諒解と、その後にやってくるだろう老化の現実を比較計量することで、自死するのに良い時期が個別に導き出される。

現在のわたしが「一人称としての死」を語り得るとは思わないが、須原氏が再三強調する「自然死」の悲惨な現実と、それを誰も正面から考えようとしないという指摘は重要だと思った。安らかな老衰や「自然死」(実はそんなものはない)を期待するのは、宝くじに当たるのを当てにするようなものだというのには笑ってしまったが、目下のわたしが漠然と考えられるのは安楽死、尊厳死といったところだろう。しかし、その場になって慌てても遅いので、勇猛剛直な血しぶき様式の須原氏とは異なった、わたし個別の軟着陸系「哲学的プロジェクト」が必要なのだろう。

続けて、手元にある『超越感覚〜人はなぜ斜にかまえるか』を読んでみるつもりだが、須原氏の著作としては、他に『高学歴男性におくる弱腰矯正読本〜男の解放と変性意識』、『<現代の全体>をとらえる一番大きくて簡単な枠組〜体は自覚なき肯定主義の時代に突入した』(いずれも新評論刊)がある。
揃いも揃って独特のタイトルだが、最初の著作が『超越感覚』(92年)。次の『弱腰矯正読本』(2000年)では、すでに「寿命予定表=自分の寿命の予定を自ら設定して行く生きかたの推奨」が提示されていて、今回のプロジェクトはそれを「客観的に立証する」ものだという。
また、『一番大きくて簡単な枠組』(05年)では、「哲学は学問的には成立しない」という主張を展開したが、それでは「哲学者に残された仕事は何か?」を自問し、そこから生まれてきたのが「今回の哲学的事業」だと、氏は「はしがき」で綴っている。
あまりに平仄が合いすぎて、そこにいくらか無理が無かったか心配になるが、他人のそんな懸念や多少の無理は承知の、まさに一世一代の野心的な試みだったに違いない。


comment

きょうこ様
最初につけたサブタイトルは、コメントにも書いた「爺さまの老年学あるいは生死学」です。爺さま、婆さまというのは、わたしには敬語だったのですが、実際に目で見ると失敬なような気がしたので、変更しました。著者の真摯さは疑うべくもないのです。
ですから「男らしさ」みたいなこともまったく言ってないのですが、女性の自死については言及していません。わたしは軽井沢で首を吊った矢川澄子さんのことを考えながら読んでいました。
寒いとウツ気味になる人がいるのですか? それも一人ではないようですね。失礼ながら、思わず吹き出してしまいましたが、わたしは今日、屋根の雪をおろそうとして頭から雪をかぶってしまいました。冷たかったけど、気持ちよかったです。雪が降って往来を走り回る犬みたいなものかもしれません。

  • kuninori55
  • 2009/12/20 10:13 PM

いろいろとご考慮いただいて、ありがとうございました。せっかく変更していただいたサブタイトル、再変更前に訪問しなかったので見逃してしまいました。
そうですか、「男性老人の強いバイアスがかかっている」のですか。うーん。そもそも世の中の成り立ちが極端に男性寄り過ぎて消化不良気味なので、ことさら「オトコラシサ」を強調されていると読みづらいかもしれませんね。本屋さんで見つけたら立ち読みしてみます。東金にもあるかしら…。
当地は雪は降っても年に1、2回ほどです。会津の冷え込みとは比べ物にもなりませんが、こちらも寒くなりました。寒さのせいで、大事な女子友たちがウツっぽい症状を発症しているのが目下の心配事です。

  • 2009/12/20 2:40 PM

<注>一度つけたサブタイトルを変更しました。やっぱり失礼だと思ったからです。

  • kuninori55
  • 2009/12/20 1:07 AM

きょうこ様
東金も寒いですか? 雪は降っていますか? 八鶴湖に雪が降っているところを見たいものです。
ひとりの生活だと、圧倒的に食器が少なくて済むので、洗剤を使う場合も、あっという間に終ります。一人が二人になっただけで、どうして食器が4〜5倍になるのか謎です。
『自死という生き方』の感想ですが、、きょうこさんのコメントを読んで考えてみたら、どうも女性にお薦めできる自信がなくなりました。自死者の例にとっているのが、三島由紀夫、伊丹十三、ソクラテスで、みんな男性なんですね。ソクラテスは著者の専門分野ですが、三島、伊丹に関しては週刊誌情報にプラスしたぐらいの分析で、イマイチ説得性に欠けます。
自死に関する議論のエッセンスには非常に共感するのですが、武士道に則った老人道などと言われると、これはやはり男性老人の強いバイアスがかかっていると言わざるを得ません。爺さまの老年学あるいは死生学といった趣で、わたしとしては婆さまの老年学あるいは死生学にアプローチしたいと思います。
その観点から「自然死」の問題も再検討する必要があり、876円+税という値段ではありますが、立ち読みでも良いのではないでしょうか。
そんなことを考え、今回の記事にサブタイトルを付け加えました。皮肉ではありません。特徴と限界を示したつもりです。

  • 2009/12/19 5:00 PM

お寒うございます。
おひとりの会津行きだと、洗剤の苦労もなくて済むのでしょうか?
「哲学的プロジェクト」の感想、おもしろかったです!読んでみたくなりました。“「自然死」の悲惨な現実と、それを誰も正面から考えようとしないという指摘”の件が特に興味深いです。
ヒロシマ平和映画祭のレポートも楽しみにしています!

  • きょうこ
  • 2009/12/19 10:46 AM









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