2017/05

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1977年4月29日に、米子の旧友・坂本義男氏(当時、米子市商工会議所専務理事・同市文化財保護審議会委員)に送られた高橋丈雄の手紙。この時、高橋は松山市のある公民館に住み、入院中だった坂本氏の病室に宛てられている。
筑摩書房版『定本尾崎翠全集』下巻における稲垣眞美の解説の翠と高橋に関する記述(P503〜505)がまったくのでっち上げ、三文小説家的想像力の産物であることを証している。
なお、わたしがこの手紙を入手した経緯については、拙ブログ「尾崎翠の精神治療とセクシュアリティに関し、稲垣眞美の妄誕邪説を排す」参照。http://blog.7th-sense.sub.jp/?eid=232487
(下の写真は『改造』昭和4年4月号に発表された懸賞戯曲の当選作「死なす」に付されたもの)
010520_0141.jpg 御病気のこと知って、驚きました。御経過のいい模様で、何よりですが、どうぞ御大事に、御静養くださいますよう。僕も数年まえ胃かいようを手術して長い病院生活しましたが、今はおかげですっかり元気で、胃は徹底的に治しておくと、あとはほんとに調子よく、だから病院生活の一線を劃して人生、全く明るくなったような気がしました。そしてあの病院生活は天の与えた恵みであったような気がします。本なども、浮世はなれて愛読でき、思索も深まり、そういう機会は自分の力ではものに出来ない、与えられたチャンスであったような気がします。ーー貴兄もチャンスを得たと思って、存分有効に時間をご使用なさるよう、祈っております。 

尾崎翠の件お知らせくださって有り難う存じました。 
彼女の生涯にとって、僕との事件は、唯一つの運命的な「何か」であったような気がして心が痛みます。あの事件の真相を知るものは、僕と彼女以外誰も知らない。林芙美子と十和田操が少しは知ってくれてる筈でした。あれ(ヤマザキ注:坂本氏が送った新聞記事)には「同せいしていたことから家人が上京して、二人の仲をさき」とあります。もし「同棲」といえるようなことがあったのなら、彼女にとって、どれほど倖せでしたでしょう。 

いづれ近いうち、真相を書いておくります。その義務が僕にはあるような気がします。ほんのかいつまんで申上げると、彼女はあの頃(昭和7年の夏と思います)ミグレニンという覚醒剤の常用と暑さがたたって、殆ど発狂に近いノイローゼに陥りました。僕と十和田君のとこへ「身辺に魔手を感じる。来て下さい」というハガキが突然来て、二人で愕いて、彼女の二階の下宿(中井駅付近)に行き、変りはてた彼女を目撃しました。その時、思いがけなく、僕への恋情が訴えられたのでした。僕はあのまま精神病院へ送りこんだら完全に発狂してしまう、彼女のおちいった窮地から救い出すには、僕が受けいれて、彼女に希望を与えること以外にないと信じ、十和田君にも語り、僕は当時大岡山のはづれの森の中の一軒家にすんでいたので、そこへ彼女を連れかえり、彼女はすっかり正常に返えり、少女のようにも喜々として、甦った様子でした。しかし、翌日、十和田君が訪ねて来た時、「コワイ!」と叫んで僕の背後にかくれたりする様子を見て、病気が治ったのでないことを知り、被害妄想がなかなか、とれない、それで芙美子さんにも相談してみたり、色々、僕も、彼女を助けたい一心で、心労しました。 

僕26才、彼女36才。でも彼女の才能を滅ぼさないためにも、僕は結婚に踏み切る覚悟もしていました。しかし、彼女の疑心暗鬼はなかなか解けないし、また、その病的状況の悪化した場合の危惧もあり、鳥取のお兄さんのところへ手紙を出し、上京してもらいました。お兄さんは、前途ある青年の将来のために、おまえは身を引くべきだというような言葉で、妹をさとし、思いやりの深そうなお兄さんは、これ以上、都会で苦斗をつづけるより、郷里へ帰って、静かに休んだほうがいいという意見で、彼女もすぐそれに納得したようで、大人しく兄に従ってその日のうちに東京駅から立つことに決まり、僕一人が駅へ送ってゆきましたが、無言でじっとうつむき加減に車内の人となった彼女は、発車と同時、いきなり窓から上半身をのり出すようにして情熱をこめた瞳で、別れの手を激しく振った―ーそれが一生の別れでした。わずか数日を共にしたのにすぎなかったのです。 

帰省後。二三度手紙が来たり、愛読した本を送ってくれたりしたが、いつしか、文通もとだえてしまって、数年後芙美子さんからあちらで会って来た話をきいたぐらいで、殆ど消息を絶ってしまいました。 

彼女の生涯を思うとき、僕がまだ思慮も浅く、またいろんな事情があって、彼女に幸福らしい幸福の、せめて甘い思い出になるような楽しい日々を与えることができなかったことが、いまだに心残りがしてならないのです。 

この事件は、スキャンダラスな形で、文壇では、僕が彼女を一時的にもてあそんで捨てたために、彼女はノイローゼになって帰郷したといった風な噂が立ち、僕はアゼンとしてしまいました。そんなこんなで、僕も文壇人とつき合うことが次第にいやになり、文学からも遠退く結果になってしまいました。彼女も再起する力添えを失い、地方で、淋しく、孤独に生涯を送ってしまったのでしょう。心が痛みます。僕は彼女の傷に触れまいとして、文通も怠っていたけれど、今にして思えば、何とか、せめて、彼女を励まして、小説を書かせるべく骨を折るべきだったと、くやまれるのです。 

彼女とのいきさつについては大木惇夫と中野秀人が出していた「エクリバン」という雑誌に「月光詩篇」という題で小説に書き綴ったことがあります。大木さんが凄くほめてくれた作品で、多分昭和十一年頃の作品と思います。紛失して、今は手元にありません。 

僕は、彼女のユーモアとリリシズムに富む作品の愛読者に、右のような事件の真相を語ることが、果していいことか、悪いことか判らなくなって来ました。それで、心が決ったら、改めて、もっと精密に彼女のことを記録してみたいと思います。 

この手紙は、活字にして下さいますな。走り書きですし、誤解を招きそうなところもあるので、公にしたくありません。 とりあえず右、御返辞まで、 どうぞ御身御大切に、 
                                     
                                       丈雄    
坂本様


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