記者会見で「ストーリーを説明できない脚本家」の反省また反省〜映画『こほろぎ嬢』制作発表

  • 2006.04.02 Sunday
  • 19:13
 尾崎翠作品の映画化第二作『こほろぎ嬢』(浜野佐知監督)の制作発表が、3月27日、鳥取県庁内の記者クラブで行なわれた。鳥取県が、映画制作費の一部として一千万円を助成し、この日の記者会見も、県の文化観光局が司会進行するだけに、県内で流通しているほとんどの新聞社やTV局が詰めかけた。



 出席したのは、プロデユーサー兼任の浜野佐知監督、尾崎翠の著作権者代表の早川洋子さんと松本敏行さん(翠の姪と甥に当たる)、尾崎翠の生地である岩美町の榎本武利町長、今回の映画化を強力にバックアップしている倉吉市の尾崎翠研究会・渡辺法子代表、鳥取市の尾崎翠フォーラム・土井淑平代表、とっとりフィルムコミッションの清水増夫代表など、県内の尾崎翠関連の主要メンバーが勢ぞろいした。
 洋画家である渡辺法子さんは、今回の映画化にあわせ、尾崎翠の短編3作品をマンガ化し、販売して映画制作費のカンパに当てるが、その本も、この日、披露された。
 また、直前になって、榎本町長の発案で、岩美町が制作した型破りの尾崎翠ポスターを、記者会見場に飾ることになり、今回の映画のポスターも担当するデザイナーの横山味地子さんが、翠ポスターを持って駆けつけてくれた。そして、わたしもまた脚本担当として、末席に参加したのである。
 末席と言いながら、実はわたしには期するところがあり、この日の記者会見に向けて、頭の白髪を染め、ジャケットを買い込み……当初、意気込んだわたしは、久しぶりに新宿の伊勢丹に向かったのだが、気に入ったジャケットとなると、ほぼわたしの1か月分の生活費に相当することが判明。やむなくジーンズショップで、ほぼ20分の1の値段の、それでも気に入ったデザインのジャンパーを買ったのだが、浜野監督に「えらく地味な作業着」と酷評されて、ガックシ……と、なんだか外見だけに終始しているようだが、記者会見用の配布資料を、前夜遅くまでかかって、A4版4枚にまとめた。わたしには、今回の映画化に際し、喋りたいことが山ほどあったのである。


<右端の浜野監督から、左に早川洋子さん、松本敏行さん、渡辺法子さん>

 記者会見が始まり、それぞれの立場からの挨拶があった後、記者との一問一答になった。その最初に「この映画は、どういう内容になるのか?」という質問が飛び、そこで浜野監督がわたしに振って、わたしが脚本の立場から答えた。翠が筆をおく直前の短編3本「歩行」「地下室アントンの一夜」「こほろぎ嬢」を、なぜ一本の映画として企画したのか、前作の『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』とは、どういう関係に当るか、といったことを話したのだが、浜野監督が「それでは分からない」と言い出し、記者諸氏もはなはだ納得のいかない顔をしている。
 小野町子の人生を時系列でたどると、まず田舎の少女時代の「歩行」が出発点で「地下室アントンの一夜」に続き、その後、上京して「第七官界彷徨」の経験をする。そして、かなりの時間が経過した後、詩人あるいは売れない小説家となった町子が「こほろぎ嬢」として登場する……というのが、今回の仮説であり、尾崎翠の作品に「こほろぎ嬢」の来歴が明示されているわけではないが、おばあさんの家の屋根部屋に住んでいる少女時代の町子と、10数年経って東京の借家の二階に住んでいる「こほろぎ嬢」を併せて描いたのが、今回の映画化の眼目であるのだが……
 しかし、どうやら記者諸氏が知りたいのは、端的にストーリー、つまりは筋書きであるらしかった。筋? この映画で、筋がどれほどの意味を持つだろう? 幸田当八に「片恋」している、小野町子という少女が、お萩を持って、もの思いに耽りながら、砂丘や野原を歩き、最初に動物科学者の松木氏宅、次に松木氏と対立している貧乏詩人の土田九作を訪ねるが、九作を訪問する時には、お萩に「季節はずれのおたまじゃくし」の入ったビンが加わっていた。この小野町子が成人し、屋根部屋に住む詩人あるいは小説家となって、スコットランドの男女の詩人に「恋」をするが、互いにラブレターをやり取りした二人は、実は一人の詩人のドッペルゲンガーで……こんな風なことをいくら並べても、映画の説明にはならないだろう。
 事実、記者席から浜野監督に「自分たちは、限られた紙面に紹介しなければならないのだ」「どうしてストーリーを、5行ぐらいで説明できないのだ」といったクレームが飛んだらしい。現場と即興に強い浜野監督は、何か要領よくまとめていたようだが、わたしは虚を突かれた思いだった。5行で説明できるストーリー! 尾崎翠の小説を、5行で説明しろというのか? たしかに映画の紹介には、これは欠かせない。しかし…


<ジョークを飛ばす榎本町長と、吹き出す浜野監督>

「女の子が、お萩を持って歩いているだけのように見えるが、そこには目の前の現実とは別の、もう一つの心の現実があって…」といった説明を、わたしがしたところ、苛立ったらしい記者の中から「それは哲学的なことなのか?」という声が上がった。わたしは「そう。スピリチュアルな世界の出来事である」と大真面目に答えたのだが、浜野監督によると、その問いは、どこか嘲笑を含んだ質問だったらしい。真面目に答えたわたしが、バカだった。
 次第に、わたしは、記者諸氏の相手にされなくなり、とどめは「どうして主人公は『こほろぎ嬢』と呼ばれているのか?」という質問に対し、「それは誰にも分らない」と真顔で答えた時だった。記者席には「もう呆れ果てた」といった雰囲気が漂い、もっぱら質問は浜野監督に集中する。わたしにしても、思いつきで発言したわけではなく、それに続いて、実際的な生活者である「産婆学の暗記者」が、産婆さんになった暁には、気づかずに踏みつけてしまいそうな、こおろぎのことばかりが「こほろぎ嬢」には気にかかる、きわめて非実際的な「こほろぎ嬢」の性格と生活について説明しようとしたのだが、もはや誰もわたしの、そんな長口上を聞くような雰囲気ではなかった。
 非実際的、非実用的なのは、こほろぎ嬢ではなくて、実は、このわたしではないのか? また、記者諸氏が、わたしの製作した配布資料に目を通したうえで、質問してくれるものだと思い込んでいたのだが、「あんな長たらしいもの、誰も読まない」(浜野監督)というのが、現実だった。


<右端が、尾崎翠フォーラムの土井淑平代表。背後で、県の遠藤氏が持っているのが、岩美町のポスターだ。何パターンかあるが、横山味地子さんによるド迫力の異色作>

 わたしはすっかり落胆して、隣に座っていた翠フォーラムの土井代表に「ストーリーを説明するのが、こんなに難しいとは思わなかった」と、ぼやいたら、「翠の作品を読んでいない人に説明するのは、特に難しい」と言ってくれた。これほど優しい人を、わたしは今回の映画化をめぐって非難してきたのだから、まことに呆れた話である。また、ストーリーを一言で説明できないのは、わたしが作品世界の内部に入り込むだけで、それを外側から把握する力に欠けているためではないか。わたしは根幹から、自分の能力を疑わないわけにはいかなかった。
 しかも、恐ろしいことに、そんな非実際的なわたしが、5月から始まる鳥取ロケでは、制作を担当することになっているのだ。これは、わたしが浜野監督とともに鳥取の方々と折衝してきたため、ロケ隊と現地をつなぐ役割を期待されているのだが、制作といえば、お金を扱い、スケジュールに合わせて撮影が円滑に進行するよう、あらゆる現実的な局面の手配しなければならない。これがわたしに、はたして可能なのだろうか?
 実は、この日の記者会見で、わたしにはもうひとつ語りたいことがあった。配布資料にも書いたことだが、昨年、尾崎翠の恋人とされる高橋丈雄の手紙が、米子市で発見され、二人の関係について新事実が明らかになった。わたしはこの手紙についても、ぜひ一席弁じたいと、そのコピーも準備してきたのだが、記者会見がどんどん進行する中で、誰もそんなことに興味を示すようには思えず、心中はなはだ無念ながら、断念したのだった。


<「日本海新聞」の紙面>
 
 それでも、記者会見の模様は、この日の夕方と翌朝、各TV局で地元のニュースとして流され、新聞各紙も大きく取り上げてくれた。地元で圧倒的なシェアを誇る日本海新聞が、うまく内容紹介しているのには感心し、朝日新聞がカラーで懇切に伝えてくれたのには感嘆したが、なぜか毎日新聞と読売新聞ではボツになっている。浜野監督は「ストーリーを説明できない脚本家のせいだ」とわたしを非難し、榎本町長に付き添ってきた岩美町役場のカワカミ課長も、毎日新聞の若い女性記者が、わたしが発言するたびに、隣の記者と目配せして笑っていたと言う。
「記者相手には、キャッチフレーズになるようなことを、短く簡潔に言わなきゃダメでっせ。だらだら長く喋っていると、どんどん言い訳みたいになるから」というのが、カワカミ課長の意見で、さすが「ばばちゃん料理」を岩美名物として売り出し、それまで網にかかってもゴミのように捨てられていた深海魚を、人気メニューに育て上げた切れ者である。つくづく、わたしは落ち込まざるを得なかった。
 こうしてわたしの記者会見は、はかなく終わったが、わたしの言動に見られる現実的な不適応に、今風の病名をつければ、アスペルガー症候群とでもなるのだろうが、「自分が自分について考えるのは、原理的に誤りを含む」ので、あまり自分については深く考えない、というのが、わたしの方針なのだ。シリアスな反省また反省を強いられた記者会見であったが、わたしは、その一方で、内心「ふん。一か月分の生活費を投じて、ジャケットなんか買わなくてよかったよ」と呟いていた。イソップの主人公みたいな、独りよがりの負け惜しみである。
 ここでわたしは、誰にも読まれなかった、わたしの可哀想な「配布資料」をアップしておこうと思う。ここでもまた、読まれない可能性のほうが高いのであるが。


<「朝日新聞」の鳥取面>


「人間の肉眼といふものは、宇宙の中に数かぎりなく在るいろんな眼のうちの、わずか一つの眼にすぎないぢゃないか。」(「地下室アントンの一夜」より)

☆いま再びの尾崎翠作品映画化☆
 私たちは、98年に『第七官界彷徨‐尾崎翠を探して』(浜野佐知監督)を製作しました。東京国際女性映画祭に出品した後、岩波ホールでロードショー公開し、国内の女性センターや世界各地の映画祭、大学などで上映してきました。この作品は、翠の代表作である「第七官界彷徨」と、その当時は謎とされていた翠の後半生を、モザイクのように描いたものですが、翠の心髄である、シュールなまでの奇想と、比類のないユーモアの精神は、国境や人種を越えて伝わることが実証されました。また、この映画をきっかけに、地元鳥取でも、翠を世界に向けて発信する「尾崎翠フォーラム」が発足し、今年で6回を迎えようとしています。
 前作の製作当時は、県内でも尾崎翠を知る人が少なく、また誤った不幸伝説が流布していたため、実人生にスポットを当てる必要がありました。この映画によって、困難な時代を生きた、等身大の尾崎翠像が定着したものと自負しています。しかし、尾崎翠に、啓蒙や解説が必要な時期は、すでに過ぎました。私たちは、翠の作品世界そのものと向かい合い、「歩行」「地下室アントンの一夜」「こほろぎ嬢」という、翠が筆をおく直前に執筆した、最後の短編小説3作を、併せて映画化します。
 これらの作品は、長い間、方法的な模索を重ねてきた翠が、「第七官界彷徨」で独自の世界を築き上げ、精神的にも技法的にも、ピークの時期に書かれました。それぞれ独立した短編小説ですが、登場人物も共通し、愛すべき人間心理の分裂を描いた、連作とも言うべき作品です。ここで翠は、目の前の具体的な現実とは異なる、人の心の中の、もう一つ別な現実の可能性や、普通、人間の男女の間に成立すると思われている「恋愛」の概念を拡大させ、宇宙の目から、地上の人間や動物、植物、鉱物の関わり合いを、ユーモラスに見つめています。なかでも、一人の人間の中の男性と女性の分裂を描いた、ウィリアム・シャープとフィオナ・マクロードのエピソード(「こほろぎ嬢」)は、今日のジェンダーやセクシュアリティの問題を予見した、あまりにも先駆的な問題提起でした。
 私たちが今回取り組むのは、翠の奇想とユーモアに支えられた「不思議の国の恋愛映画」です。なお、「地下室アントンの一夜」は、翠にとって最後の小説となりました。

☆日本で最初の女性映画批評家でもあった翠☆
 尾崎翠は不思議な作家です。今から80年近くも前の、1930年前後に代表作の多くが書かれましたが、その作品世界は、とても懐かしい匂いがするのに、その一方で、とても実験的です。懐かしさは、翠が育ち、愛した鳥取の海や山の、風、空気、暮らしぶりなどが流れ込んでいるため、実験的なのは、彼女が知的に探求した、西欧の文学や映画、思潮を反映しているためだと思われます。
 20世紀初頭から30年ごろにかけて、欧米ではモダニズムの芸術運動が盛んになり、日本にも流入しました。尾崎翠は、なかでも表現主義に大きな影響を受けましたが、実験的な作品が往々にして、古びるのが早いのに対し、翠の作品は世紀を越えても、瑞々しく、新鮮です。むしろ、国内外の研究者の熱い注目を見ても、どんどん新しくなっている感があります。なぜでしょうか?
 鳥取というローカルな風土性と、国境を越えて先端的な実験精神という、一見、相反する要素が、絶妙にミックスしているためだと思われます。ひと付き合いの上手でなかった尾崎翠は、少数の理解者しか存在しないなかで、図書館と映画館という、当時の先端的な「幻想の殿堂」に耽溺し、日本で最初の本格的な女性の映画批評家とも言われています。翠の映画論は、即芸術論、文学論であり、その中で磨き上げた、言葉の錬金術を駆使し、現代にまで届く、魅惑的で、とても風変わりな作品世界を作り上げました。
 大学の卒業論文や、大学院の修士論文、博士論文で、翠研究に取り組む、若手の女性研究者が急増していますが、尾崎翠は、まだまだ謎を秘めています。昨年、かつて米子商工会議所の専務理事を務められた坂本義男さんのお宅に、尾崎翠の恋人とされる高橋丈雄の書簡が残されていることが分かりました。高橋の文学的盟友でもあった坂本さんは、すでに亡くなっていましたが、米子商工会議所のお世話で、息子さんの坂本義文さんに、高橋の書簡のコピーを頂くことができました。それによると、尾崎翠と高橋丈雄の恋愛事件と呼ばれるものは、当時から誤解されていたようですが、男女的な関わりからは程遠い、芸術家同士の間に生じた、短時日のアクシデントに近い出来事であったようです。これを通俗的な男女間の交渉として描いた筑摩書房版の『定本・尾崎翠全集』の解説は、全面的に書き直されなければなりません。なお、この書簡から、高橋には翠との事件を小説化した「月光詩篇」という作品があることが明らかになり、現在研究者の手で分析が進められています。

☆鳥取の地が持つ大いなる力☆
 かつての「愛すべきマイナー・ポエット」から、世界に通じる、モダンで果敢な言語の探求者へと、尾崎翠のイメージが転換するにつれ、その原風景である鳥取の海や山、そして終生のモチーフであった空気や風や雲の持つ、大いなる力が見逃されているきらいが無いでもありません。尾崎翠は十代の頃から、日本海や中国山脈を深く見つめ、歌ってきました。また、潔く筆をおいた後も、鳥取の自然への愛着を、友人や甥への手紙に書き送っています。私たちは、今回の映画化にあたって、風土が翠作品に与えたイマジネーションの源泉を描くことを、重要なテーマのひとつとしました。
 幸い、独自の文化行政を積極的に推進している鳥取県が、この映画に一千万円を助成すると同時に、支援事業として取り組んでくれます。また、前作でも長期ロケした尾崎翠の生地、岩美町をはじめ、倉吉市、鳥取市、米子市、若桜町など、県内の各自治体が力強くバックアップしてくれます。市民レベルでも、倉吉市の尾崎翠研究会や、鳥取市の尾崎翠フォーラム、とっとりフィルムコミッションなど、多くのグループが協力を約束してくれました。私たちは、再び鳥取の地に立ち返り、風土と自然の力を背景に、翠の作品世界の精髄を映画化して、日本および世界に問いたいと考えます。
なお、撮影はこの5月中旬から6月にかけて行い、9月に完成予定。10月には、鳥取全県で先行ロードショーを行ないます。

☆浜野佐知監督と映画『第七官界彷徨‐尾崎翠を探して』の旅☆
『第七官界彷徨‐尾崎翠を探して』は、翠役に、日本を代表する舞台女優、白石加代子、親友役に吉行和子、恋人役に原田大二郎などをキャスティングし、鳥取県の文化振興課と岩美町役場の協力と支援のもとに、ロケが行われました。
 出来上がった作品は、県内5ヶ所で先行上映した後、東京国際女性映画祭やあいち国際女性映画祭に出品し、東京の岩波ホールでロードショー公開されました。知られざる女性芸術家に光を当てた作品として、国際的な女性映画祭でも注目され、パリのクレティーユ、韓国のソウル、ドイツのドルトムント、エジプトのアレキサンドリアなどの映画祭に招待されました。また、ニューヨークのジャパン・ソサエティや、ニューヨーク州立大学、コロラド大学、ピッツバーグ大学、パリの日本文化センターなどでも上映が行われ、翠の潔い生き方や不思議な作品世界が、世界の女性たちの熱い共感を集めました。また、鳥取県内の美しい自然には、世界の人たちが目を見張り、パリのある女性観客は、翠の故郷を見たくて、鳥取を訪問したことを話してくれました。
 浜野佐知監督は、01年に、老年の性愛をテーマにした『百合祭』を発表し、この作品も世界21カ国、36都市で上映されるなど、日本の映画監督としては異例の国際派としての地歩を築いています。詳しくは、昨年出版された『女が映画を作るとき』(浜野佐知著・平凡社新書)をご覧下さい。

☆海外の観客はこう観た〜パリのアンケートより☆
 2000年12月に、パリの日本文化会館で「日仏女性研究シンポジウム『権力と女性表象』−日本の女性たちが発言する」が開かれました。その映画の夕べで『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』が上映され、圧倒的な好評を得ました。専門職を持ったフェミニストの多い、いわば「うるさ型」の観客が多数を占めていたのですが、アンケートには熱い共感が記されていたのです。その一例を挙げると、

「美しい物語と映像。理由は今分からないが、ヴァージニア・ウルフを思い出した」(女優・60歳)、
「女性的な感性で創られた作品を観るのは楽しい。この映画を観てカミーユ・クローデルのことを考えた」(教師・47歳)、
「今は大学でフランスの詩を勉強していますが『第七官界彷徨』という、この鳥肌が立つほど官能的なタイトルを付けた詩人が、日本にいたことに驚きました」(学生・25歳)、
「非常に深く掘り下げた映画。女性の感受性のみならず、男性の感受性がより明瞭に表現されているのが良い」(看護婦・53歳)、
「詩的で美しい映画。主体と無意識、女性アーティストの仕事についての考察など、現代的な問題を浮き彫りにしている。特に感心したのは、この映画の絵画性(風景に満ち溢れた色彩、静物画のような細部の大写し)」(記録映画製作者・49歳)、
「戦前に女性が書くということは相当なプレッシャーがあったと思われる。その時代を生きた女性文学者たちの生き様に感動」(学生・37歳)
=以上、翻訳は日仏女性研究学会の協力=

 いずれも国境を越えて、尾崎翠の作品や生き方に共鳴していることが分かります。日本の各地の女性センターで上映した際にも、似た声や思いが返って来ました。尾崎翠が世代、国籍、人種の別に関わらず、特に女性の心の奥底の感覚に共振を起こす作家であることが証明されていると思います。

<小野町子>役と<幸田当八>役を県内オーディションします!
 主人公の「小野町子」(少女時代)役と、その「片恋」の相手である「幸田当八」役を、県内で募集します。「小野町子」は、祖母とともに暮らしている少女(15歳から20歳ぐらいまで)、「幸田当八」は「分裂心理」の研究者で(25歳から30歳ぐらいまで)全国を旅しています。
 自薦他薦を問わず、写真を添えてお申し込みください。締め切りは4月15日。宛て先は、下記の『こほろぎ嬢』製作上映委員会(株式会社旦々舎内)。

<製作上映協力券>を発売します!
 製作上映協力券とは、映画製作費の一部となるチケットのことです。1枚1,500円で、その内訳は、前売りチケット代1,200円+製作上映カンパ300円です。このチケットで、10月に行なう鳥取全県での先行ロードショーに入場できます(チケット一枚が、お一人様分の入場券となります)。
 また、特典として、100枚以上ご購入頂いた方(個人、団体問わずに)には、映画のエンディング・タイトルにお名前を入れさせていただきます。
 資金面で苦しい自主製作映画ですので、皆様のご協力をよろしくお願いします。

<撮影現場のボランティア>を募集します!
 撮影・照明・美術・演出・制作・車両・メイク・着付け、など撮影現場全般にわたって、ボランティアを募集します。希望の職種明記の上、製作上映委員会にご連絡ください。締め切りは4月末日です。

■お問い合わせ:『こほろぎ嬢』製作上映委員会(株式会社旦々舎内)
http://www.h3.dion.ne.jp/~tantan-s/

「片恋」が必然であるところの「三人のうち、どの二人も組になってゐないトライアングル」論〜はるか「対幻想」を離れて・尾崎翠

  • 2006.02.17 Friday
  • 12:32
「どうも夜の音楽は植物の恋愛にいけないやうだ…宵にはすばらしい勢ひで恋愛をはじめかかつてゐた蘚が、どうも停滞してしまつた…こんな晩に片恋の唄などをうたはれては困るんだ。一助氏まで加はつて、三人がかりで片恋の唄をうたふやつがあるか」尾崎翠「第七官界彷徨」



「第七官界彷徨」に登場する人物たちは、ことごとく手痛い失恋を経験しているか、永遠に実りそうもない片恋の渦中にあるが、この「片恋」という言葉、「失恋」ほど現代においてはポピュラーでない。しかし、尾崎翠の描く「失恋」は、ほとんど恋愛未満の地点で引っ返しており、すべて「片恋」と言い換えても、差し支えないようなシロモノである。わたしには、この「片恋」こそ、尾崎翠的恋愛世界を、もっともうまく言い当てているように思われるのだが、この言葉を、かつて大島弓子さんの「ジギタリス」(朝日ソノラマ刊『大島弓子選集』第11巻)で発見した時には、思わず胸が熱くなったものだ。
 このマンガには、「小林北人(ほくと)」という同じ名前を持った、二人の高校生が登場するが、互いにドッペルゲンガーのように意識し合い、この設定自体、「こほろぎ嬢」の、一人の詩人の中に住む、二人の男女の人格、フィオナ・マクロードとウィリアム・シャープを、裏返したような構図になっている。そして、一方が、もう一方に対し、次のように言うのだ。

「なんだ、おまえ、こんどの片恋は、おれの元家庭教師になったのか」

 作中、たった一回だけ使われる言葉ではあるが、他にも、まるで、ほとんど小野町子の口調を思わせる、次のようなモノローグもあった。

「彼女はどんなにか、彼のことが、うれしいだろう。陸上部は、どんなにか彼のことをくやしいだろう」

 これだけで、大島弓子さんの作品に、尾崎翠的世界の反照を見るのは、まったくコジツケに近いが、わたしにはこの二人の作家が、気圏、水圏の、非常に隣接した領域に、揺らめきながら存在しているように確信されるので、わざわざ具体的な証明は要らない気分なのだ。



 今回、「片恋」について、あらためて調べてみると、万葉集でも使われている古い言葉であり、そのせいか近年でも、短歌や少女マンガ、さらには演歌といったジャンルで、いくらか使われているようだが、それ以前に、ツルゲーネフと芥川龍之介に、それぞれ「片恋」という短編があり、前者は明治時代に二葉亭四迷が翻訳し(その後、ドストエフスキーの翻訳で知られる米川正夫の訳もある)、後者は大正6年(1917年)、尾崎翠が十代の修業時代に投稿していた雑誌、『文章世界』に発表されていた。
 芥川の作品は、たまたまインターネットの「青空文庫」に収録されていたので、わたしはそれをダウンロードして読んだのだが、書き手の友人によって語られる、芸者の福竜の長年「片恋」している相手というのが、これがなんと「幕の上」の外国人、つまり映画のスクリーンに登場する男優なのである。
 これだけで、尾崎翠の読者としては色めきたってしまうところだが、チャップリンへの愛を繰り返し語った尾崎翠は、「第七官界彷徨」では「のろけ函」のエピソードで「肉体をそなへた女に恋愛するのは不潔だといふ思想」を持ち、年中、映画女優に恋愛している、二助の友達を紹介し、「木犀」では、北海道の牧場主で、牛に似たN氏のプロポーズを断り、場末の映画館にかかる、雨が降ったスクリーンの「チヤアリイ」に恋をする女主人公を登場させている。
 わたしは、これまで、尾崎翠の、こうした二次元の「幕」への偏愛、それも作品や役者そのものではなく、「飢えたチヤアリイの齧(かじ)つてゐる蝋燭の味」「ピックフォオオドの踵(きびす)」「ニタ・ナルデイの三角な爪」(「映画漫想(一)」)といった具合に、パーツに細分化する傾向を、「あまりにも早く来過ぎたオタクの先駆」と捉えてきたのだが、なにも現代のオタクを引き合いに出さなくても、こうした偏愛の一端は、すでに大正時代の芥川によっても表現されていたのだ。



 芥川の、この作品が発表された大正6年は、20歳の尾崎翠が小学校の代用教員を辞めて、初めて上京した年であり、『文章世界』は、翠も吉屋信子などと並んで、注目される投稿作家の一人だったので、おそらくこの短編も読んでいたと思われるが、文壇デビュー作「無風帯から」を書く2年前のことで、翠自身は、まだこうした「オタク的」境地、いや「第七官界彷徨」でピークに達する、独自の文学的境地には、ずいぶん遠いところにいたはずだ。
 しかし、翠と芥川といえば、「mixi」で、石原深予さんが、「フィオナ・マクラウド」(ウィリアム・シャープの女性名義)について、目下探索している、その途中経過の一部を報告されているのだが、それによれば芥川は、大正3年にマクラウド作「囁く者」の翻訳をしているだけでなく、マクラウドの代表作と目される「かなしき女王」の翻訳者、松村みね子と「最後の恋」をしているようなのだ。芥川32歳、松村みね子46歳の、この「恋」は、翠36歳、高橋丈雄26歳の「恋」を思わせないでもないが、これらのエピソードは、芥川龍之介と尾崎翠が案外に共通の引力圏内にあったことを窺わせるもので、石原深予さんをはじめ、研究者の皆さんに探求して頂きたいものである。
 なお、作品としての芥川作「片恋」は、翠の「香りから呼ぶ幻覚」に似た感触があり、芥川における芸者の「幕の上」の男優への恋が、翠では、レストランの女給の「顔も知らない、名も知らない、匂ひだけの」男への、長年の嗅覚の恋となっていることを、付記しておこう。



 さて、どうして尾崎翠作品において、「片恋」が深く刻印されているかと言えば、実生活において同居していた親友の松下文子が結婚し、北海道に去った後、『女人芸術』に書き出したあたりから、翠の文学的な方法論が明確になり、それ以降の後期作品においては、一組の男女が向かい合って恋愛する、いわゆる「対幻想」の忌避というべきスタンスが一貫してとられ、絶対に恋が成就しない仕掛けになっているのだ。その関係性は、表面上は、いわゆる「三角関係」に見えるのだが、その言葉が喚起するようなドロドロした感情のもつれに、けっしてならないのは、「トライアングルですな。三人のうち、どの二人も組になってゐないトライアングル」(「地下室アントンの一夜」)を形成しているためだと思われる。
 この言葉を語った幸田当八は、翠の創始した「分裂心理学」の研究者で、少女時代の小野町子に、戯曲の恋のフレーズを朗読させ、それ以来、町子の悲しい思慕の対象となっているが(「歩行」)、その町子の「失恋者」の風情に、すっかり恋をしてしまったのが、当八が先の言葉を語った相手である、へっぽこ詩人の土田九作であり、これで当八が九作に好意を示せば、一方向に流れるトライアングルが完成するわけだが、さすがにそこまで図式的ではない。
 しかし、小野町子が、詩人を目指すぐらいに成長した「第七官界彷徨」では、町子の恋らしきものは、たとえば従兄弟の三五郎相手には、隣家に引っ越してきた女学生と三五郎の接触によって、初めて恋情らしきものが発動し、彼女の更なる引越しとともに、あっという間にしぼんでしまう。そして、分裂病院の医師である柳浩六に対する、自覚的な新たな恋は、浩六の好きな異国の女詩人という媒介をへて、発動するのだ。浩六は、町子の兄である、同僚医師の一助との、女患者に対する三角形の恋を、二人同時に断念した後、遠い土地に引っ越していった。
 小野町子は、浩六を追おうとするような素振りはまったく見せず、むしろ異国の女詩人の探求に向かう。まるで、みんなが、みんな、「のろけ函」の持ち主のように「肉体をそなへた女(あるいは男)に恋愛するのは不潔だといふ思想」をキープしているかのようだが、わたしは小野町子の、異国の女詩人に対する関心を、浩六への思いの代替ではなく、生身の現実である(かのように見える)浩六と、本のなかにしか存在しない(ように見える)遠い異国の女詩人が、町子において、まったく等価であるように思えてならないのだ。次元の異なる、いや、次元の交錯した「トライアングル」で、これでは恋愛が成就する気づかいはまったくない。



「第七官界彷徨」のラストで暗示された、この奇妙な「トライアングル」は、実はそれ以前に書かれた「木犀」で全面展開されていた。「屋根裏の借り部屋」で、孤独に暮らす、「一本の苔」のような女主人公と、北の牧場で牛とともに暮らす、本人も牛に似たN氏、それに場末の映画館の擦り切れたフィルムのなかのチャップリン、この三者の作る「トライアングル」は、まことに奇抜なものだ。N氏が侘しく、ひとり上野駅から北に帰った三日後、今度は「チヤアリイ」が、映画館の幕から消える(上映が終る)日で、その帰り道、女主人公と「チヤアリイ」は次のような会話を交わす。

「チヤアリイ、私は牛に似たN氏の影を追つかけてゐます。申し込みをしりぞけられて牛の処へ帰つていった彼を。だからあなたを愛しているのです」
「あまのじゃくめ」チヤアリイは杖で木犀の香を殴りつけた。「何だつて俺とジヨオジアのようにハツピイエンデイングにしないのだ。だから俺は地球の皮といふ場処が嫌ひなんだ」
「私だつて地球の皮といふ場所が嫌ひだからN氏の牧場より屋根裏の方が好かつたのです。あなた方のハツピイエンデイングだつて地球の皮をはなれた幕の中ぢゃありませんか」
「ぢやさつさと屋根裏にお帰りなさい」

 階段や梯子を伝って上る、屋根裏の借部屋、略称「屋根部屋」は、多くの尾崎翠の登場人物たちの住処で、どうやら、そこは「地球の皮」から一段浮遊した場所のようだが、ここの住人は「幕の中の住人」と、どこか通底しているようである。どちらも「地球の皮」の現実を生きていない。N氏が、侘しく牛のもとへ帰らざるを得ないユエンだが、「屋根部屋」の女主人公と、「幕の中」の「チヤアリイ」と、北の牧場のN氏は、それぞれ別の次元を、孤独に生きているのだ。この究極的に寂しい「トライアングル」こそ、尾崎翠的恋愛のエッセンスというべきか。
 なお、この「木犀」は、芥川の短編における芸者福竜の「片恋」を延長させながら、さらに尾崎翠オリジナルの「トライアングル」の構図を接続したように見える。もし、翠が、芥川の「片恋」を読んでいたとするなら、それを独自のスタイルで、さらに発展させたものだろう。



「木犀」の女主人公には、それでも、いくら牛に似ているとはいえ、N氏という現実世界の相手があったが、「こほろぎ嬢」となると、図書館の奥の、誰も読まないような文学史の隅っこに登場する、「ゐりあむ・しゃあぷ」氏と「ふいおな・まくろおど」嬢との「トライアングル」な恋であり、しかも相手の二人の詩人は、同一人物の心の中に住む「どつぺるげんげる」なのである。なんという、ややこしい構図であろう。「こほろぎ嬢」の語り手は、次のように述懐する。

「この古風な一篇を読み進んだこほろぎ嬢は、身うちを秋風の吹きぬける心地であつた。このやうな心地は、いつもこほろぎ嬢が、深くものごとに打たれたとき身内を吹き抜ける感じであつて、これは心理作用の一つであるか、それとも一種の感覚か、それを私たちははつきり知らないのである。そして秋風の吹きぬけたのちは、もはや、こほろぎ嬢は恋に陥つてゐる習ひであつた。対手はいつも、身うちに秋風を吹きおくつたもの、こと、そして人であつた。
 ふとした頭のはずみから、私たちは恋といふものの限界をたいへん広くしてしまつたやうである。」


 ここで注目されるのは、「対手はいつも〜もの、こと、そして人」と明確に述べられていることだ。普通、人間の恋愛の対象とされる「人」以外に、事物や、事態もまた、恋愛の相手に含まれる! こほろぎ嬢にとって、「しゃあぷ」氏と「まくろおど」嬢は、時空を越えた人であると同時に、書物というモノであり、また一人の人間が男女に分裂している、風変わりな事態でもあった。
 これは確かに「恋といふものの限界をたいへん広くしてしまつた」いわば汎神論ならぬ、汎恋愛論であり、人間同士のカップルを基本とする近代的な対幻想からは、もっとも遠い地点にあるだろう。尾崎翠は、対幻想や、人間の再生産につながるものを、きれいさっぱり排除したが故に、「第七官界彷徨」には父母が登場せず、小野町子は永遠に「お祖母さんの家の孫娘」なのだと、とりあえず、独断的に言っておこう。
 独断ついでに言えば、ウィリアム・シャープとフィオナ・マクラウドのエピソードは、尾崎翠の「両性具有」への関心、のように語られることが少なくないが、「両性具有」という言葉に含まれる、ユートピア的な理想型への憧れ、いわゆる雌雄具備が、人間の完全な状態であるといった、甘い幻想は、尾崎翠にはまったくなかったはずだ。
 一個の人格が、男女に分裂しているという、分裂の事態こそ、尾崎翠の強い関心と共感をそそったのであり、分裂した男女と、女主人公の形成する、これまた奇天烈な「トライアングル」こそ「こほろぎ嬢」内部に潜在するテーマに他ならないように、わたしには思われる。さらに言えば、蜃気楼のように非在の「まくろおど」嬢の方にこそ、こほろぎ嬢、および尾崎翠は、より惹きつけられていたのではないだろうか。



 何か、独りよがりな妄言を、延々と書き連ねているような気が、自分でもしてきたが、最後に、わたしの好きな、しかしあまり語られることの少ない「途上にて」を取り上げて、この「トライアングル」論を終ろう。「途上にて」は、屋根裏に住む女主人公が、「パラダイスロスト」の横町を歩きながら、今では北海道に帰った、松下文子を思わせる女友達と一緒に、この通りを歩いたことを回想し、その友達に向かって、長い手紙を書くというスタイルをとっている。
 その手紙の内容は、まず、今日、図書館で読んだ、砂漠で祈るような格好で死んでいたキャラバン隊の少年のエピソードを語り(異国の物語が挿入される「こほろぎ嬢」と同じ構造)、次にパラダイスロストの通りで、偶然「中世紀氏」と、二年ぶりに出くわしたことを報告する。彼は、北海道の女友達が、まだ東京にいた頃、三人で親しく付き合った、医者の卵だったが、彼は二年前に、二人に向かって、次のような「絶交状」を書いた。

「僕は知るかぎりの女の人たちのうちで、あなたがたをいちばん好きでした。今でも誰よりもあなたがたを好きです。しかし、僕たち三人の交友はこのごろ僕の周囲でいろいろやかましい上に、僕は遠からず結婚することになりました。僕の経験によりますと周囲などといふものは、男と女の交友などまつたく認めないもののやうです。僕の結婚しようとする女を、僕は周囲の一人に数へなければなりません。」

 これは、そうとう奇妙な、愛の告白、あるいは訣別であるように思われる。彼が結婚するのは、周囲=世間の問題で、世間は男と女の交友を認めない、などといったところは、どうでも好いことで、わたしが奇異に思うのは「あなたがた」という、複数形の呼びかけなのだ。中世紀氏は、単独で東京に残った彼女に話しかけるときも、「あなたがた」と呼び、実は彼は結婚することも、医者になることも放擲したことを告白する。彼はまもなく、田舎の教会に向かうと言い、「木犀」の、牛に似たN氏のように、一緒に来てもらいたくないことも無さそうな風情なのだが、彼女の方は、さっぱり関心を示さず、ついに決裂して、彼は憤然と去っていくのだ。



 おそらく中世紀氏は、彼が彼女たちを、絶えず「あなたがた」と複数形で呼ぶ「トライアングル」の秘密に、充分、自覚的ではなく、一方、屋根部屋の彼女のほうは、三角形を形成しない、相対(あいたい)の関係では、ついに「平行線」で終ることを、かつて女友達が風邪気味のため、中世紀氏と二人でナジモヴァの「椿姫」を観に行ったときのことなど思い出しながら、明確に自覚的なのだ。
「どの二人も組になつてゐないトライアングル」でないと、けっして発動しない「恋愛」とは、なんだろうか。それに対する、充分な答とはいえないが、砂漠で死んだ少年について、彼女の語る、ひどく印象的な、次の言葉を引用しておこう。

「それは、死の原因となる心理が、死の姿態にはたらきかける力のやうなもので、この著者によれば、デザイアは人間を枯葉のように斃死させ、それの混らない純粋な思慕は祈祷のかたちの死を与へるさうです。」

 この「途上にて」という一編で表明されているのは、性的「欲望」の欠如した、「関係性の恋愛」の可能性、あるいは不可能性だと、わたしは勝手に、牽強付会する。心臓は菱形になり(「地下室アントンの一夜」)、恋愛は、対にならない三角形になるのが、尾崎翠的恋愛の理想形であり、そこでこそ初めて、彼女たちは安息するのだ。
 そういえば、尾崎翠が、高橋丈雄に「恋情を突然告白した」(創樹社版全集月報。高橋丈雄「恋びとなるもの」)のは、妄想に駆られる翠が「身辺に、魔手を感じます。すぐ来てください」という「奇怪なハガキ」を出したためだったが、まったく同文のハガキが、やはり親しく付き合っていた十和田操にも舞い込み、それで二人はそろって、翠の借りている下宿を訪れたのだった。
 そこで、翠が、高橋にのみ「恋情を告白」したのは、現実の世界では「トライアングル」の恋が不可能であることを、錯乱のなかにありながらも、身をもって突きつけられたためだったろうか。一部ままごとのような、一部狂瀾怒涛の、この十数日を除いて、尾崎翠に男性との、現実的な「恋愛」があった形跡は、まったくない。

尾崎翠に「電撃療法」は有り得なかった。筑摩書房は稲垣氏の「解説」を削除、あるいは改訂すべし。

  • 2005.08.23 Tuesday
  • 09:09
 8月5日のブログで、稲垣氏が筑摩版定本全集の「解説」と、雑誌『鳩よ!』(99年11月号)のエッセイで展開している「尾崎翠は、帰郷後に精神病院で電撃療法を受け、作家的な創造力を失った」説への疑念を呈した。その根拠は「1940年頃の戦中、ナチスのドイツから精神分裂症のための電撃ショック療法なるものが導入される」(『鳩よ!』)という稲垣氏の記述が正しければ、1932年に帰郷した翠が、そのオドロオドロシイ療法を受けること自体、不可能である、というもので、いわば稲垣氏自身の文章の矛盾を指摘した。
 しかし、その後調べてみると、この療法は、1938年にイタリアで発明されたものであり、歴史的な事実として、最初の入院時に尾崎翠が受けるはずのないものだった。また、この療法は現在でも生きていて、氏の書き付けるような「施術後はダラリとよだれなど垂れて、腑抜けのように温和しくなる」(同)といった、ただ恐ろしいだけのものではなかった。
 かつては確かに懲罰的に使われたことも多かったが、自殺を図るような重症うつ病の治療に対しては有効なケースも多く、現在では「けいれん」を伴なわない、全身麻酔を使った修正型が用いられているという。



 稲垣氏のいわゆる「電撃療法」(定本全集)「電撃ショック療法」(『鳩よ!』)は、一般的には「電気ショック療法」と呼ばれ、正式には「電気けいれん療法(electroconvulsive therapy=ECT)」という。しかし、今でも専門家の間で、意見が分かれるようなので、素人が立ち入る領域ではないが、複数のサイトで確認できた歴史的事実に限定して、稲垣説の迷妄を明らかにしたい。(なお、「精神分裂病」は、現在では「統合失調症」と呼称を改められているが、ここでは稲垣氏の当該表記、およびサイトで参照した資料の表記を踏襲する)
 電気ショック療法は、1938年にイタリアのツェルレッテイとビニによって開発された。患者の頭に電極を当て、脳に通電してけいれんを引き起こす。当時のヨーロッパでは、分裂病とてんかんは両立しないという誤った考えがあり、人工的にてんかんを起こせば分裂病は治るという発想に立っている。最初に実験されたのは、警察が逮捕・保護した、身元不明の精神分裂病患者であり、結構アブナイ試みだったようだが、これがしかし、効果があった。
 当時は他に分裂病の治療法がなく、たちまち世界中に広がる。稲垣氏の「1940年頃」日本に導入されたという説は、間違ってなさそうだが、あたかも「ナチスのドイツ」の悪魔的な発明みたいに書いているのは、事実に反する。イタリアで開発された療法が、ドイツ経由で日本に伝わった可能性はあるが、翠の長すぎた「無惨な」晩年を修飾する、稲垣氏流の情緒的な表現は正確ではない。
 また、この療法の副作用は、短時間に消失するもの、数時間持続するもの、数日残るものなど、さまざまだが、主には一時的な頭痛と記憶障害である。修正型のように麻酔を使わない場合、多くの患者はたちまち失神したが、稲垣氏の書くような、術後に痴呆的症状を呈するものではないようだ。
 現在の修正型ECTの安全性は高いが(日本には、古い原始型を使っている病院が多いというから、恐ろしい)、しかし、なかには重い記憶障害が残って、その後の職業生活に大きなダメージを受けた、という患者さんの証言もあった。



 稲垣氏のご都合主義的な誇張は、毎度のことだが、ここには何か根本的な誤解・錯覚・混同はないか。「(電撃療法などを含む治療)によって、翠は一応日常生活には復帰する。しかし、それと引き換えに翠は、彼女の創造的な文学世界の表現を可能にしたぎりぎりの感性や、まだまだ大輪の花を咲かせたかもしれない想像の能力を、次第に過去のものとされることになった」(定本全集511P)といった表現や、「こういう晩年について、私は書くに忍びない。(中略)やがて彼女は無惨な死を迎える」(『鳩よ!』)といった筆法には、どうも意図的に、あるいは無意識的に、ロボトミーのイメージを「電撃療法」に重ね合わせているとしか思えないのだ。
 かつての「生ける屍として」(創樹社版アンソロジー『第七官界彷徨』解説)を彷彿とさせるが、まさに映画『カッコーの巣の上で』の世界である。確かあの映画でも、人格を破壊するロボトミー手術の前に、懲罰としての電気ショックが描かれていた。もしかして、稲垣氏、あの映画を観たのではないだろうね。
 ロボトミーも、電気ショック療法とほぼ同時期の1935年、ポルトガルでエガス・モニッツによって発明された。前頭葉の一部を切除する乱暴なもので、これによってモニッツは戦後ノーベル賞(!)をもらった。そして世界中で、出鱈目な手術が大流行したが、顕著な人格破壊が明らかになり、1970年代半ば以降は、ほとんど行われていない。そこが、電気ショック療法と異なるところだ。
 ロボトミーが日本で初めて行われたのは、1942年。戦後には、日本でも盛んに手術されたが、すっかり廃れた1979年、ある殺人事件が起こった。その15年前にロボトミー手術を受けた、元・売れっ子のスポーツライターが、まさにその手術によって創造性や想像力、集中力など根こそぎ奪われ、転転流浪の生活を送った挙句、主治医と心中するつもりで留守宅に上がりこみ、医師の妻と母親を殺したのだ。
 この事件については、知友の殺人評論家、蜂巣敦氏が最近著した『実話 怪奇譚』(ちくま文庫)でも、興味深く取り上げられている。参照頂きたい。



 さて、シンプルな結論。1932年に帰郷し、入院した尾崎翠が、1938年にイタリアで開発された電気ショック療法を受けることは、SFでもなければ、有り得ない。まして、それによって、翠の作家的創造性や想像力が失われたはずもない。明確に翠は、自らの意志によって、筆を擱いたのである。
 稲垣氏の言い逃れとしては「何度か精神病院に入院し、40年以降に手術を受けた」という手があるが、それでは「電撃療法によって作家的可能性を摘み取られた」という、稲垣氏お得意の「悲劇」が演出できない。まさに41年に書かれた「大田洋子と私」で、すでに「黄金の沈黙」を選択したことが、翠自身によって闡明にされているのだから。
 目下のところ、尾崎翠作品を読む拠り所となるべき筑摩版定本全集の「解説」で、このような旧態依然の情緒的デマゴギーが、堂々展開されて良いものだろうか。多くの心ある読者は、稲垣氏の「解説」など、もうとっくに眉に唾をつけているに違いないが、これからの初心の読者のために、わたしは筑摩書房に「解説」の削除、あるいは根底的な改訂を要求する(とは言っても、こんな具合に、一人で書いてるだけ、だけどサ)。
 その際には、前回指摘した、尾崎翠と高橋丈雄の「同棲」や、駒下駄に関する、恣意的なデッチアゲもまた訂正されなければならない。しかし、氏の脳内で濛々と膨らみ、いまや固定観念のようにどっかと鎮座しているに違いない妄念を、氏自身が主体的に糺すことは、おそらく絶望的に困難な事業であることだろう。
 「電撃療法」、受けてみます?

(なお、今回、以下のサイトを参照しました。記事中に間違いがあれば、すべてわたしの理解力不足に起因するものです)
●電気ショック療法
http://homepage3.nifty.com/kazano/ect.html
●ECTについて
http://square.umin.ac.jp/tadafumi/ECT.html
●ショック療法
http://www.hibun.tsukuba.ac.jp/miyamoto/shock.htm
●ロボトミー
http://homepage3.nifty.com/kazano/lobotomy.html
●ロボトミーの歴史と事件
http://www.asyura.com/0306/nihon6/msg/433.html

尾崎翠の精神治療とセクシュアリティに関し、稲垣眞美の妄誕邪説を排す。筑摩版定本全集の「解説」なるものは、怪文書に等しい。

  • 2005.08.05 Friday
  • 01:31
 先般の尾崎翠・鳥取フォーラムが始まる直前、わたしは鳥取県立図書館の郷土資料コーナーで、尾崎翠のファイルを読んでいた。この図書館は、フォーラムの会場の県民文化会館に隣接している。わたしが読んでいるファイルは、図書館が翠に関する新聞記事などを独自に集めたものだ。かつて、映画『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』を製作する前の97年、シナハン(シナリオ・ハンティング)で訪れた時には2冊だったファイルが、現在では3冊になっている。この図書館の、地道で継続的な努力がうかがわれる。



 その最初の時、わたしはこのファイルで、翠が日本海新聞に寄稿した「大田洋子と私」に出会った。戦中の1941年(昭和16年)に書かれた、翠最後のエッセイで、当時は全集未収録。わたしはこのエッセイを初めて読んで、一気にシナリオの展望が拓けた。そこには、失意と絶望の翠ではなく、カラカラと笑っている翠が、すっくと立っていたのだ。
 翠が帰郷した後の後半生に関して、当時は「生ける屍として」という見方が主流だった。この言葉は、創樹社版全集の翌80年に編まれた、同じ創樹社のアンソロジー『第七官界彷徨』の稲垣氏の解説「尾崎翠の人と時間」にある。しかし、翠は生涯最後のエッセイで、自らの文学的な「沈黙」を「黄金の沈黙かも知れない」と称し、誇り高く背筋のピッと伸びたところを見せる。書くのも小説だが、読むのも小説だ。書くことだけに、意味があるわけではない。
 しかも末尾では「世の中といふものはまことに冠婚葬祭の世の中であった。私がもし自然主義作家の席末でも汚してゐたとしたら、こんな生活を克明に描破して洋子へも健在を謳はせたかも知れないと思ふのである」と、かつて批判してやまなかった自然主義的な文学観を、ユーモラスに皮肉っている。翠の批評精神は健在だった! これの何処が「生ける屍」であろうか。
 筑摩版定本全集・下巻の解説で、稲垣氏はこのエッセイについて「母の看病に明け暮れたり、畠づくりをする生活が、創作に専念していた頃の感覚や想念の桎梏から脱しさせてむしろ明るく健康になった、と答えている。文学を犠牲にしたのだとするとこういう記述はかえって痛ましくも感じさせる」と書いている。この人は、いったい何を読んでいるのだろう。どこにも「母の看病」とか「畠づくり」とか書いてない。「文学を犠牲に」といったブンガクブンガクしたブンガク観が、ここで翠に笑われていることに気づかないのか。



 翠はこのエッセイで「帰郷して二ヶ月もするうち、健康はとみに盛返して来た。(中略)郷里は山が近いから空気は美味しいし」と書いている。しかし、稲垣氏は同じ解説で、唐突に「帰京後しばらくして翠は神経科の病院に入院した。精神分裂症の疑いがあると医師は診断し、電撃療法など含む治療を行った」としている。入院は知られた事実だが、電撃療法って? 一体どこから仕入れてきた情報なのだ。
 しかも続けて「翠は一応日常生活には復帰する。しかし、それと引き換えに翠は、彼女の創造的な文章世界の表現を可能にしたぎりぎりの感性や、まだまだ大輪の花を咲かせたかもしれない想像の能力を、次第に過去のものとされることになった」とまで書いているのだ。まるで、精神病院で廃人にされた映画『カッコーの巣の上で』みたいじゃないか。
 書くたびに尾ひれがついていく稲垣式評伝。氏は、定本全集の翌99年に、雑誌『鳩よ!』11月号で、おそらくは松下文子の翻訳草稿「エルゼ嬢」を、尾崎翠の未発表作品として麗々しく発表して大ポカをやらかす。この問題が巻き起こした波紋については、前々回のブログの、日出山陽子さんにお会いしたところでも書いたが、見逃せないのが、同じ号に掲載されたエッセイ「尾崎翠とともに生きて」(迷惑な話です)の、次のようなオドロオドロシイ記述である。
「彼女は精神病院に何度か入れられた。悪いことに、1940年ごろの戦中、ナチスのドイツから精神分裂症のための電撃ショック療法なるものが導入される。(中略)施術後はダラリとよだれなど垂れて、腑抜けのように温和しくなる−どういう理由でか尾崎翠もその新療法を免れなかった」。



 唐突に新事実がデッチ上げられ、書くたびにアクドクなっていくのも、稲垣式なのだが、ちょっと待て。翠が帰郷して一時「神経科の病院に入院して静養」(創樹社版年譜)したのは32年のことだ。「電撃ショック療法が導入」されたとする40年ごろといえば、ちょうど「大田洋子と私」が書かれた時期の前後ではないか。年譜や解題・校異に関しては、79年の創樹社版がもっとも詳しくて、信頼が置けるという、おかしな98年の筑摩版定本全集。それもこれも、研究者ではない、単なる評伝作者の稲垣氏が占有している弊害である。
 しかし、どちらの年譜を見ても、次に尾崎翠が「再び幻覚症状や耳鳴りはげしく、神経科の病院に入院し」たのは、53年5月のことだ。40年ごろにナチス(!)から導入した「電撃ショック療法」によって、翠の作家的な想像力が失われたと言うが、翠はとっくに筆を擱いている。何を考えているのだ、オッサン。
 稲垣氏は、どこまでも悲劇的で、無残きわまりない後半生を演出したいようだ。『鳩よ!』の何とも恥ずかしいエッセイで「こういう晩年について、私は書くに忍びない」とまで書いている。それなら、書くな。次兄哲郎の末娘で、映画にも出演して頂いた山名礼子さんに直接聞いた話では、戦中、レストラン「ロゴス」で鳥取一中の「モボ」と仇名された男性教師と「晴れやかで明るい談笑」(翠フォーラム04報告集に寄稿)をしていたのも、翠なのだ。どうやら、文学談義だったらしい。貧乏に伴なう苦労は多々あったようだが、知性の輝きを失うような翠ではない。
 山名さんに限らず、甥や姪の方々のどんな話にも「ダラリとよだれなど垂れて、腑抜けのように温和しく」なった翠など、出てこない。創樹社版全集の栞に、もっとも親しく暮らした甥の小林喬樹さんが、翠の人となりについて書いている。
「伯母は湿っぽさのないからりとした性格でユーモアに富んでおり、豪放闊達かつ磊落な男っぽいとも言える人」。
 これが実像に、もっとも近いのだろう。



 稲垣氏は、精神医療をめぐる、ずさんな状況証拠から「精神病院の電撃ショック療法」なるものを持ち出してきた。最近の『迷へる魂』(04年筑摩書房)の「おぼえがき」では、精神科医の、翠には「精神異常などなかったと思う」という言葉を引用しながら、次のように書く。
「かつて精神の病いとされ、それに伴なう処置があったとすれば、いかに不当だったことか−」。慨嘆してみせるが、稲垣クン、君以外に、誰もそんな「不当な処置」があったなんて言ってないぞ。ここで具体的に「電撃ショック療法」を明示しないのは、何か都合の悪い事情ができたに違いない。出したり引っ込めたり、鬱陶しいジジイだが、絵に描いたような「マッチポンプ」の手法である。
 まったくもって油断ならない、稲垣氏の尾崎翠評伝だ。今回、鳥取県立図書館で尾崎翠のファイルを読んでいたわたしに、ひとつ気になる記事があった。1977年(昭和52年)5月24日から3回にわたって連載された「尾崎翠さんと高橋丈雄氏のこと」というエッセイである。筆者は坂本義男という方。肩書きは「米子商工会議所専務理事・同市文化財保護審議会委員」とある。時期的に言って、最近このファイルに追加されたものではないだろう。わたしも以前読んでいるはずなのだが、なぜかハッキリした記憶がない。
 坂本氏のエッセイによれば、この一ヶ月ほど前に「よみがえる幻の女流作家、岩美町出身故尾崎翠さん」という無署名記事が、日本海新聞に掲載された。その中に、
「このころ尾崎さんは十幾歳年下の劇作家と同棲していたことから、家人が上京して二人の仲をさき、尾崎さんを鳥取に連れ戻した。これがもとで尾崎さんは大きなショックを受け、病院に入院」
 と書かれてあった。実は坂本氏は、東京に住んでいた若き日に、高橋丈雄とともに「ある文芸研究雑誌の編集記者生活」をして、親しく付き合った仲だった。また、尾崎翠が帰郷後の1933年(昭和8年。『第七官界彷徨』が出版された年だ)の暮れに、高橋の紹介で、鳥取市内に翠を訪ねたこともある。



 この日本海新聞の記事が書かれた頃は、高橋丈雄の名前が、まだ特定されていなかったようだ。また、この記事では「同棲」がクローズアップされ、家族に二人の仲を引き裂かれたショックで入院したように書かれている。「年下の劇作家」が高橋丈雄であることを知っている坂本氏は、「どうもおかしい」と思い、この記事の切抜きを、四国の松山で暮らしていた高橋丈雄本人に送って「率直に真相を照会した」。すると高橋から長い返信があり、翠の病気は二人の仲を引き裂かれたせいではなく「ある覚醒剤の常用がたたっての強度のノイローゼ」であったこと、二人の数日間の同居は、決して「同棲」というようなものではなかったことなど、かなり詳細に書かれてあった。
 坂本氏は、前掲記事の誤りを正すべく、この連載記事となるエッセイを書いた。昭和52年当時でも、鳥取で「同棲」という言葉は、それなりの世間的なインパクトがあったに違いない。二人の優れた作品を理解している坂本氏には、このような「芸能界的なスキャンダル」扱いが、我慢できなかった。義憤というか、大いなる義侠心のようなものが感じられるが、エッセイも私心のない、真情あふれる文章である。
 実はわたしは、この記事を読み、どこか気になりながらも、フォーラムの開始時間が迫って、慌てて県民文化会館に向かった。そして、帰京後、妙に脳裏にチラツイテならないのだ。というのは、やはり定本全集下巻の解説で、稲垣氏がこれまた唐突に、尾崎翠と高橋丈雄の「性の交渉」やら「年長の女としての愛欲」など、二人の「同棲」について、見てきたようなことを書いているのである。
 しかも、二人の「一週間あまり同棲」した時期を、従来の帰郷直前の1932年(昭和7年)から、何の根拠も示さずに「1930年の秋ごろ」に繰り上げているのだ。坂本氏が紹介している高橋丈雄の手紙は、稲垣氏の恣意的な操作を引っくり返す、傍証になるかも知れない。わたしは図々しくも、今回のフォーラムで面識のできた県庁の方にお願いして、二度もコピーを送ってもらった。坂本氏の3回連載の記事と、それに先立つ「よみがえる幻の女流作家」という記事である。県庁の方に感謝!



 翠との突発的な「恋愛」と別れについて、高橋丈雄は創樹社版の栞に「恋人なるもの」という回想を、誠実な筆致で綴っている。坂本氏の伝える高橋の手紙の内容は、言葉の使い方までこの「恋人なるもの」とそっくりなのだ。この手紙が書かれたのが1977年(昭和52年)、創樹社の全集が出たのが2年後の1979年。坂本氏によれば、高橋の手紙は次のように始まっている。
「尾崎翠の件お知らせ下さって有り難う存じました。彼女の生涯にとって僕との事件は、唯一の運命的な『何か』であったような気がして、心が痛みます。あの事件の真相を知るものは、僕と彼女以外誰もいない筈です」
 その返信は、詳細なものだった。坂本氏は「この手紙をそのまま発表すれば、一番手っ取り早く実情が公開できるのだが、高橋氏からいずれ近いうちに真相を書いて送るから、このたよりは活字にしないでくれとのことであるので、私が代って取りあえず前掲記事の誤りを正しておきたいと思う」と書いている。
 この「真相」が、坂本氏に送られたのかどうか知りたいところだが、米子商工会議所に坂本氏について問い合わせたら、氏はすでにお亡くなりになっていた。高橋丈雄の手紙については、ご遺族に問い合わせてみるという。親切に応えて頂いた米子商工会議所には、感謝以外ありません。
 しかし、高橋が坂本氏に約束した「真相」と、創樹社版全集の栞の「恋人なるもの」が、ほとんど重なることは間違いないだろう。以前読んだはずの坂本氏の記事の印象が薄かったのは、高橋丈雄の回想とダブっていたせいかも知れない。すべては1932年の夏の「十日あまり」(「恋人なるもの」)のことなのだ。なお、日付に関して、より具体的な林芙美子の1932年の日記によれば、20日間から一ヶ月弱の出来事であったようだ(『巴里の恋』中央公論新社。2001年刊)。
*林芙美子の日記については、本HPの次の編集後記を参照。
http://www.7th-sense.gr.jp/kouki/kouki_010831.html



 稲垣氏が、筑摩版定本全集、下巻でいきなり展開した、1930年の秋ごろの「一週間の同棲」「年上の女の愛欲」説は、これらの事実を真っ向から無視、あるいは全て虚偽としているわけだ。「一週間の同棲」(創樹社版では10日間)を、2年前に持っていった手前、この下巻の解説では、帰郷直前の錯乱の中での同居が省略されている。勝手なものだ。これに関しては、林芙美子の日記で裏づけが取れる。しかし、わたしが不可解なのは、どうして稲垣氏が「同棲」の時期を、わざわざ繰り上げる必要があったのかということだ。
 下巻解説によれば、「第七官界彷徨」にとりかかった1930年(昭和5年)の秋ごろ、翠が自分から大岡山の高橋の下宿を訪ねたことになっている。
「一室で二人っきりで二十四時間×7倍の時間。もちろん幾度か性の交渉も重ねた。けれど、別にどうってことはない。あっけらかん、というのではないが、高橋も彼なりに一匹の働き蟻が美しい砂浜のくずれ落ちる細かい砂粒の中を這い昇るように、抱きしめてくれた翠に報いようとした、奉仕もした。翠は翠で年長の女としての愛欲と同時に自制も働いたであろう。二人の交情は少しチグハグだった。彼女は同棲を打ち切って、また上落合のトタン屋根の二階に戻って、「第七官界彷徨」の執筆に打ち込むしかなかった」
 ほとんど通俗ポルノのようなクソジジイの妄想だ。稲垣氏にとって、二人の「交情」は蟻地獄のイメージらしい。これこそ坂本義男氏が懸念した「低俗醜聞扱い」の見事な具現化に他ならない。また、稲垣氏は高橋について次のようにも書く。
「高橋は年がはるかに若いし、ペシミストとはいうものの東京育ちのソツのなさもある。娼婦相手だったが多少の女性経験もしていたし、翠に対して軽はずみな行為はしない。そのため、翠はよけいに彼に対してどこまでも愛を注ぐことになった」
 ここには、本HPに松山在住の児童文学者、松江翠さんが書いてくれた「その後の高橋丈雄」とは、まったく異なるキャラクターが描写されている。「娼婦相手云々」は、おそらく想像に過ぎず、人権侵害に当たるのではないか。他にも「新しがり屋だが、基調は懐疑派の東京人」など、どうも「東京育ち」に対する偏見のみから書いているようだ。驚くほど不幸な青少年時代を送った高橋が、単純な「東京育ち」でないことや、若い日から死や宗教に惹かれたことなど、松江さんの貴重なエッセイを参照してください。
●「その後の高橋丈雄」
http://www.7th-sense.gr.jp/bun/bun1_Ttakeo.html
 稲垣氏は、わたしが一度だけ面会した際に「事実を越えた本質的な真実を書かなければならない」とご高説を垂れたが、氏にとってはこれが「事実を越えた真実」なのであろう。



 高橋丈雄の回想によれば、翠と知り合ったのは1930年の冬、宮本顕治などと作っていた同人誌『文学党員』の創刊号が出たころだ。翌1931年2月号に、翠の「第七官界彷徨」の一回目が発表された。稲垣説の「1930年秋ごろの同棲」なんて、二人が出会う前の話ではないか。下巻の年譜を見ても、1930年の最後のところに「十二月、かねてから作品を通じて関心を寄せていた高橋丈雄と交際深まり、その高橋と、保高徳蔵、榊山潤、杉本捷雄、逸見広らの間で新雑誌『文学党員』発刊の話が起こり」とある。年譜と「解説」が食い違っているのだ。この辺の底抜け具合いが、いかにも稲垣氏らしい。
 わたしは「第七官界彷徨」完成前に、翠が高橋丈雄と「性の交渉を重ねた」というのは成立しないと考える。この作品を読むことによって、高橋は「やや、僕と同質の、世捨てびとめいた心情を、そこに感じ取ったのであった」(「恋人なるもの」)。翠もまた、その前年に発表された高橋のデビュー戯曲「死なす」を読んで、関心を抱いた。そういう作家同士の共感を抜きにして、いきなり「性の交渉」はないだろう。
 高橋丈雄によれば、知り合って1年半後の、1932年(昭和7年)の「酷暑のころ、一通の奇怪なハガキが彼女から来た。『身辺に魔手を感じます。すぐ来てください』。鬼気の迫る文面だった」。ここから激動の日々が始まるのだが、わたしはここで、稲垣氏が一貫して無視し、しかし高橋丈雄の「恋人なるもの」にも、坂本氏に宛てた手紙にも共通している、ひとつの興味深い事実を指摘したい。このハガキは、実は高橋だけでなく、まったく同じ文面のハガキが、十和田操にも届いていたのだ。これをどう解釈するか?
 創樹社版の年譜によれば、この年の2月に『文学クオタリイ1』に、翠の「歩行」が再録されたことをきっかけに「従来知り合っていた高橋丈雄、榊山潤等のほか、十和田操と親しくなり、井伏鱒二や衣巻省三とも知った。十和田の三田豊岡町のアパートをしばしば訪ねるようになった」。
 翠のハガキを読んで驚いた高橋が、十和田に電話すると「彼のところへも同文のハガキが舞い込んでいた。すぐ、二人で、西武線中井駅付近の彼女の下宿を訪うた」。翠を含めた三人は、日頃から仲がよかったのだろう。しかし、なぜ翠はSOSのハガキを、二人の男性作家に送ったのか、それもまったく同文で。わたしはここに、翠が作品の中で繰り返し夢想した「三角形=トライアングル」が成立していることに、興味を惹かれるが、これはわたしの推論になるので、ひとまず措く。



 翠は、二人に同じハガキを出したにも関わらず、十和田が痩せ細って幽鬼のような表情の彼女のために、パンと牛乳を買いに行くと、高橋に「恋情を突然告白」する。「予想もしなかった」高橋だが、ここで自分が拒否すると精神病院に送られることになるだろう。高橋は、自分が住んでいる大岡山の高台の森の中の家で「頭を休ます」ことを提案する。高橋の側に「恋情」はないが、「場合によって結婚したっていいではないか」と、そこまで高橋は言った。二人は、大岡山に向かう。
 そして、目下のところ、わたしにとって最大の謎が「恋人なるもの」の次の一節だ。蚊帳の中で、翠は子供の頃のことなどを喜々として話す。これなら大丈夫かな、と思う高橋。そして「夜更けて、話がとぎれてしまった。このとき、彼女はやっとの思いで囁いた。襲いかかってくる人、好き。」
 この後は、改行されて「翌朝。あァ、あたし、少女時代の気持ちに還ったわと、嬉しげに歌を歌い」と続く。映画の脚本で、わたしはこの夜更けの言葉「襲いかかってくる人、好き」を、ひどく常識的に、セクシュアルなステップへの誘い水として描いた。しかし、本当にそれで良かったのか? この改行の間に、いかなることが起こったのか、これこそ坂本氏宛ての手紙のように「真相を知るものは」高橋と翠しかいない。
 と、ここまで辿ってきて、取りあえずは事実経過をめぐる稲垣氏の、定本全集「解説」のタワゴトを確認して頂きたい。ここからは、わたしの解釈であり、推論に過ぎないのだが、尾崎翠のセクシュアリティから考えてみたいのだ。高橋丈雄の誠実な回想に、嘘はないが、男性としてのバイアスはかかっていると見るべきで、彼の理解からも遠いところに、翠はいた。
 作品からすると、男女一対の異性愛というのが、翠にとって一番遠いところにある関係性のように思われる。時には二次元(スクリーン)の対象も含めた、多方向の、両性愛に近く、カップルを目指す「対幻想」からは、遥かに遠いセクシュアリティ。「どの二人も組になっていないトライアングル」(「地下室アントンの一夜」)が、度々語られる所以だ。
 作品と人生を一緒くたにしてはならないだろうが、わたしは尾崎翠の作品や人生を思う時、セクシュアルな実質的欲動を伴わない「Aセクシュアル」といった言葉が浮かんで来てならない。



 SOSのハガキを、二人の親しい男性作家に送ったのは、翠にとって、一種の賭けだったのではないか。どちらか一方がやって来るかも知れないし、二人が連絡を取り合って一緒に来るかも知れない。いや、おそらく二人が一緒に駆けつけることは、分かっていたろう。そこに出来上がったトライアングルの中で、翠が高橋に向かって「恋情を告白」したのは、異性愛に基く対幻想に馴染まない翠の、幻覚や妄想の中でこそ敢行できた、乾坤一擲のセクシュアリティの実験だったのではないだろうか。
 この延長線上にあるのが「襲いかかってくる人、好き」だと思われる。にも関わらず、この一夜、二人の性的経験は、基本的になかった、擬似的にあったとしても、この夜だけのこと、とわたしは考えている。そして、翠の実験結果は、この地上の現実に、自分のセクシュアリティに見合う関係性は存在しない。結婚なんて論外だ。甥や姪を「男親のような」立場から育てることに、何のためらいもなかった。このような確かな根拠のない推論は、唾棄すべき稲垣式に近づいてしまったろうか。
 ここでわたしは、稲垣氏がわざわざ「同棲」を2年繰り上げ、濃密な「性の交渉」をデッチ上げたのは、異性愛者としての翠の肖像を、念を押すみたいに、シツコクあくどく描きたかったためではないかと気づくのだ。どうして? 氏の心理を分析するのは至難の業だが、もしかしたら、そう、もしかしたら、わたしたちの映画が影響を与えた可能性がまったくないわけではない。筑摩版定本全集の出版と、わたしたちの映画の鳥取先行ロードショーはほとんど同時期だったが、稲垣氏が「採点以前」と評した『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』の一番最初の、わたしの台本は、「尾崎翠レズビアン説」をめぐって、現代の女の子二人が時空を超えて彷徨するものだった。
(まあ、「あんな台本、相手にしてない。思い上がるな」と稲垣氏は言うだろうが、定本全集上巻の栞で、山田稔氏が書いた美しい文章に、稲垣氏はどんなリアクションを示したか。山田氏は、翠の長兄が高橋丈雄に与えた「駒下駄」に関する稲垣氏の解釈を、「それは無理だろう」と書いたら、いきなり逆上して、あの下駄は鳥取から持ってきたのだと、有りえない珍説を下巻解説で展開した。哀れむべし、氏の負けず嫌い?)



 高橋丈雄と親しく、翠とも面識のあった坂本義男氏は、日本海新聞の3回連載の記事で「同棲説」を一蹴し、最後に次のように結論づけている。
「以上のように高橋氏と尾崎さんとの同居は数日間であったが、けっしてそれは世に言う男女的な同棲ではなかったのである。いかに強度のノイローゼとはいえ、尾崎さんは知性秀でた教養に富む芸術家であり、高橋氏もまた人間愛あふれる友情に厚い人柄ではあるが、高潔孤高を持した誇り高い作家である。そう簡単に世の常の恋愛ごっこなどできる人たちでないことは、私などはもとより周囲のもののよく知るところであった」
 稲垣氏は、時計のネジを逆に回して、坂本義男氏のこの至誠の文章に、再び立ち返るべきではないか。

遅滞していた脳細胞がハッと目覚める鳥取・翠フォーラムの2講演と活弁上映だったが、思わぬ出会いもあり、さらに岩美町浦富海岸のランドアートには唸った。

  • 2005.07.23 Saturday
  • 13:35
 わたしが尾崎翠フォーラムの実行委員会と、決定的に袂を分かちながら、如何ともし難く7月9日のフォーラムに引き寄せられて行ったのは、ひとえに9日に行われた川崎賢子さんと佐々木孝文さんの2講演、および澤登翠さんの活弁上映に対する好奇心ゆえであった。翌10日には、第一回目のフォーラム以来、4年ぶりの『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』の上映もあり、どうせ両日参加するなら、最初から辞めなければよかったじゃないか、と言われそうだが、しかし、そういうものではないのである。わたしなりに「筋」というべきものがあって、わたしはそれに従って「一観客」として参加した。


●岩美町・浦富海水浴場の一方の突端に忽然と現われる「ランドアート」。竹が組み合わされているのだが、岩美町に製作の本拠を置くアーティスト、大久保英治氏の作品だ。県立山陰海岸自然科学館の背後を登っていったところにある。手前の竹の柵に沿っていったところが、入り口●

 実のところ、今回の三人の方々とは、これまでいくつかの縁があった。川崎賢子さんとは、昨年のフォーラムでもお会いしたが、かつて岩波の市民セミナー「『尾崎翠』を読む」の5回シリーズのうちの1回を受講し、「恋するテキスト−尾崎翠的世界におけるセックス/ジェンダー/セクシュアリティ」と題されたお話には、すっかり興奮してしまった。何しろ当時の「変態」をめぐる言説から始まるのだから、嬉しくなってしまう。01年11月のことだったが、つい浮き浮きして、岩波の人に、このエキサイティングなお話は単行本になるのかどうか聞いたところ「セミナーブックス」として出るということだった。これが遅れに遅れ、今年には刊行されるらしい(時間が経っているので「セミナーブックス」ではないかも知れない)。
 佐々木孝文さんとは、映画『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』の完成直後に、鳥取市歴史博物館「やまびこ館」の学芸員としてオープンを準備している彼とお会いした。その時は「やまびこ館」で、映画の一部をビデオで流したいという、有りがたい申し出を頂いた。その後、フォーラムの実行委員にもなられたが、これまでは、もっぱら現場で首に手ぬぐいを巻き、裏方に徹されていた。01年には「『永遠の妹』と『九百人のお兄さん』−大正・昭和の鳥取文壇と尾崎翠−」という、新たなコンテクストからの「研究ノート」を発表し、今回の講演はその延長線上にあるに違いない。期待するなという方が無理である。
 また、今年の2月2日に下北沢タウンホールの「活動弁士、澤登翠の世界」という「活弁付きシネマ&トーク」を観に行き、これには衝撃を受けた。澤登さんと浜野監督が、鳥取空港でばったり出会い、松本侑壬子さんの紹介でお話した際に、澤登さんが大の尾崎翠ファンであることを知ったのは、映画の製作前のことである。その縁で、03年の尾崎翠フォーラムでも上映&講演をして頂いたのだが、残念ながらその時は浜野監督もわたしも海外にいた。それで、今年の2月に初めて澤登さんの活弁を目にし、耳にした。戦前の時代劇と、アメリカの「チビッコギャング」シリーズの2本立てだったが、和洋の対照的な世界を見事に活写しながら、目まぐるしく人格の入れ替わる活弁のスペクタクルに圧倒され、これこそ「第七官界の一人芸術」ではないかと驚倒した。
 当初、浜野監督と共に岩美のカワカミ課長のお宅を訪問するまで、大山(だいせん)の宿坊にでも籠もっていようか、などと考えてもみたが、あえなく方針転換。大山で再生した志賀直哉の主人公みたいに、意固地を張り通すタイプじゃ、わたしはなかった。


●足元には砕石が敷かれ、上部は空に向かって抜けている。何かが籠もる「巣」のようではあるが、まるで閉鎖的ではない。雨が流れ、空気が流れる●

 直前の方針転換は、見事に大成功だった。川崎賢子さんの講演「尾崎翠を読む−尾崎翠のいる文学史」は、「『歩むこと』をキーワードに」したもので、昨夜一人ビールを飲みながら「歩行」の「おもかげをわすれかねつつ〜」の詩を想起していた身には、心躍るタイミングだった。この「忘却だけが目的の、目的地に着かない歩行」の前に広がる風景は、東京近郊のようでもあるし、鳥取のようでもある。川崎さんは「おもかげ」を、鳥取の面影村や面影小学校との掛け言葉として、その風景は「人間がそこから出てきた場所・立ち去ってきたところと、今現在住んでいる場所との間」、翠に即して言えば鳥取と東京の間の「往還で紡がれた」「抽象的、メタフィジックな風景」ではないか、と言う。
 岩波市民セミナーのように「変態」論で始まらないところに、中高年の多い鳥取の聴衆への心づかい、サービスが感じられたが、だからと言って誰にでも分かるように優しく噛み砕くことなく、「散歩を通じての身体の流動化」「移動することと、うつろうこと」「詩の中で消滅を夢見るが、作中の少女の身体は消えない」といった凝縮された小気味いいフレーズが、速いスピードで展開し、こちらの二日酔いの頭の速度では、理解が追いつかないのだった。
 これはもう活字になった段階で、じっくり味読させて頂こうという気になったが、しかし、歩く都市空間と田園空間、乱歩や海野十三の推理小説における歩く光景、ボードレールの遊歩するフラヌール(遊歩者)、ポーのストーカーのような歩く人とドッペルゲンガー、等々該博なバックグラウンドから速射砲のように繰り出されてくる言葉の数々を聞いているのは、まことに心地良いものだった。前回の市民セミナーでも感じたのだが、川崎さんの講義は、わたしには時に、美しい音楽のように聴こえる(論理的な理解は、ギブアップということか?)。


●目の高さに空いた、窓のようなものからは、間近に海が見えるのだが、この日は雨模様で煙っている。しかし、芸術家は、遥か遠くにユーラシア大陸を臨んでいるのだ(カワカミ課長談)●

 翠の初期作品においては「歩くことが方法論」であり、陸と海の境界を歩きながら諸感覚をフルに活動させていたのが、後期作品になって、いつの間にか「散歩嫌い」「外出嫌い」「人間嫌い」がモティーフになってくる、という辺りから、川崎さんのお話は佳境に入ってくる。「歩かない散歩」はいかにして行われたか?
 「詩人の靴」における津田三郎の「眼の散歩」および視覚と嗅覚の交感、「新嫉妬価値」における「耳鳴りの漫歩」と「クロオズアップ」などのシネマ・アイ、「こほろぎ嬢」の、桐の花の匂いにまつわりつかれる「鼻の散歩」、など枚挙に暇がないのだったが、その行き着いた果てに「地下室アントンの一夜」があり、「引きこもりの先駆け」のような土田九作の「観念の移動」が「人間と動物の間」「意識と無意識の間」において行われ、「生起するまま、うつろうまま」描かれた「内的独白」は、ジョイスの「ユリシーズ」に通じるものだと評価される。歩かないが、歩く以上の方法で「世界の彼岸へ」向かう、というまことに颯爽とした評言は、本HPの資料コーナーに収録した石原深予さんの「地下室アントンの一夜論」に通じるものがあり、同じ会場にいた石原さんはどのように聞いたことだろう。
 この一連の中で「映画漫想」における「隠遁と驀進」の、引き裂かれつつの再編統合、というところで、「影への隠遁」の章の一節に触れて頂いたのは、当ブログにとって望外の喜びでした。もちろん、わたしだけの閉ざされた喜びではあるが。
 最後に、川崎さんは「第七官界彷徨」を取り上げ、「足の散歩を封印したテキスト」と位置づける。そして、二助が町子に、柳浩六邸への道のりを説明するのを「匂いの地図」「記憶の中の無意識の世界を描く地図」と指摘されたのには、すっかり舌を巻いた。「歩むこと」をキーワードにすることで「解体に瀕しながら、オルタナティブを」模索した翠の文学の特質が、ここまで語れてしまうのだ。
 そして、これまで尾崎翠は異端の作家だったが「尾崎翠が真ん中にいる文学史が、これから作られる」と締め括ったのは、まるでブーメランが戻ってくるように、鳥取の聴衆の皆さんへの、温かい励ましとサービスであったろう。さっそく翌日の「日本海新聞」の記事では、このフレーズを使っていた。
(なお、以上の要約めいた紹介は、川崎さんの講演が音楽のように聴こえるわたしの、貧寒な頭脳に飛び込んできた断片をつなぎ合わせたもので、今年中には発行されるフォーラムの報告集をお読みください)


●浦富海岸のもう一方、田後(たじり)港を見おろす突端には、ふたつのランドアートがある。いずれも空に向かって開かれた形で、自然科学館側の「巣」型とは対称を成す。何かを受信するのか?●

 川崎賢子さんのコンダクトによって、尾崎翠の内なる世界を求心的に旅してきたわたしたちは、次の佐々木孝文さんの「尾崎翠と鳥取人脈−モダニズム時代の『中央』と『地方』」で、一転し、眺望の良い外部の世界へと導かれることになる。創樹社版全集の稲垣氏の「解説」以来、翠の文壇的な「孤独」「孤立」が強調されてきたが、佐々木さんは「歴史社会学」からの実証的なアプローチによって、翠が鳥取出身の人脈と深くつながっていたことを、パソコンの写真をスクリーンに投影しながら、ビジュアルな親密感をもって解説した。
 鳥取人脈といっても、ローカルな地方文化人というわけではない。生田長江、生田春月、橋浦泰雄に時雄の橋浦兄弟など、「中央を方向付ける(力を持った)地方人脈」なのだ。中でも尾崎翠の生地、岩美町の橋浦兄弟は、二人以外にも多士済々で「山陰のカラマーゾフの兄弟」と呼ばれたというエピソードは可笑しい。橋浦泰雄の若き日のボウボウ髪は、今だって度肝を抜くだろうが、共産主義者にして画家であり、民俗学者として大成した傑物だ。他にも、癖の強い「変な」人たちが、鳥取にはゾロゾロいたのですね。
 あらゆる「運動」を嫌ったように見える翠が、1926年(大正15年)橋浦泰雄・時雄兄弟を中心に結成された「鳥取無産県人会」に参加し、そこで生田春月・花世夫妻と知り合ったというエピソードも、佐々木さんの文脈で見ると生き生きと甦ってくる。1930年に鳥取で行われた講演会に向かう途中で、春月は自殺したが、同じく講師として招かれていた翠が、春月を気遣って橋浦泰雄に宛てた書簡など3通が、石原深予さんと佐々木孝文さんによって発掘され、02年の尾崎翠フォーラムで発表されたことは記憶に新しい。
「私は一足お先に帰郷し、むかうでお待ちすることに決めてゐ増すけれど、生田氏にはなるたけあなた方と同道して頂いて、社の好都合のやうにし度く思ひます」(同書簡より)。
 翠には、春月の自殺の予感のようなものがあったのだろう。


●こちらの中央部には石が積まれている。「巣」の地面に敷かれていたのと、同じ砕石だ。高い崖のようなところに、石を運び上げる手伝いをカワカミ課長もやったとか。エライ労働だったらしい。大久保氏のプロジェクトを、岩美町がバックアップしている●

 佐々木さんのグランド・デザインは「モダニズムとファシズムが交錯する」時代にあって、時代を方向づける場所に、鳥取県人がいた、というものだ。そうした時代認識の中で、アナキストの大杉栄が、面識のない明治の元勲、後藤新平のところに、生活費をたかりに行き、玄洋社経由で見事手中にしたエピソードを例にあげながら、「社会主義者と国粋主義者が同じ地平」にいて、不思議な交流があったという佐々木さんの視角の据え方に、わたしはワクワクし、エキサイティングなものを感じた。
 正反対の極にあるもの同士が、互いに認め合うというのは、よくあることだろうが、双方を視野に入れて、複眼的に評価するというのは難しい。花田清輝流に言えば、ふたつの中心を持つ「楕円の思想」だ。福岡出身の花田が、戦時中に郷土の先輩、中野正剛の東方会と交流があったことを、戦後、吉本隆明が鬼の首でも取ったかのように告発したが、そんな単調な攻撃が有効に見えて、支持された時代があったのだ(『復興期の精神』の初版跋に、戦時中の身の処し方が軽妙に記されている。花田読者には有名な箇所だが、これは「笑う清輝」で紹介しよう)。
 また、佐々木さんが紹介する、橋浦時雄の未刊分の日記も、当時の「社会主義」に対する庶民の気分を伝えて愉快なものだ。
「『あなたは僕のドコが好きなんです』『あなたの社会主義なのが好きなのよ』と云ふ。『社会主義と云ふやうな問題を取扱ふ人はキットあたまが良いんだわ』と賛美する。拡さんは泰雄兄にも少なからずひきつけられたらしい」(大正13年(1924年)7月7日)
 佐々木さんによれば「社会主義なのは」「高等不良少年」ぐらいの意味ではなかったかという。先日、岩美町の榎本町長を訪ねた際に、共産主義者だった橋浦泰雄には、今でも地元の反発が少なくないというお話を聞いたが、おそらく日記の会話は東京において成されたものだろう。
 ここで、佐々木さんの研究ノート「『永遠の妹』と『九百人のお兄さん』−大正・昭和の鳥取文壇と尾崎翠」(『Φ ファイ 人文学論集 鳥取』01年6月臨時増刊号)を開くと、橋浦泰雄を中心にした東京の「同郷人グループ」と、鳥取に留まり続けた吉村撫骨の生き方を、両極とした分裂が描かれ、尾崎翠はその「分水嶺」上にあったのではないかと指摘している。これは、川崎賢子さんの東京と鳥取の「往還」にも繋がるが、佐々木さんはここでも両極を押さえた上で、尾崎翠の故郷に帰ってからの文学的沈黙を「そこには『挫折』ではなく『第七官界からの帰還』をみるべきであろう」という結語は、見事に説得的だ。


●田後港の二つ目のランドアートから、陸側を臨む。こちらは雨風によって、相当傷みが進んでいて、自然の中で朽ちるのもランドアート、というアーティストの考えらしいが、町としては修復したい気持ちもあるようだ●

 川崎賢子さんの高密度、ハイスピードの内的宇宙から、佐々木孝文さんの俯瞰的、開放的な外部の眺望を経て、わたしたちは澤登翠さんの活弁による『椿姫』上映という、五感を越えた「第七官界」的世界に突入していった。
 上映前に澤登さんのトークがあり、アラ・ナジモヴァと尾崎翠について語られた。昨年のフォーラムで、リヴィア・モネさんによって、わたしたちの多くは初めてナジモヴァの写真を見、彼女の破天荒な生き方を知ったのだが、早くも今年、ナジモヴァ主演映画を澤登さんの活弁で観ることができるのは、わが宿敵とはいえ、翠フォーラムの企画を称えたい。(いつから「宿敵」になったのだ? オーバーになっていないか?)
 澤登さんは「映画漫想」の中の「(ナジモヴァは)技巧天国を教える」という言葉を取り上げる。これこそ「アンチ自然主義」を声高く標榜した翠の、文学にも通じる芸術観の表明であった。また、『椿姫』は、映画の発明から間もない1907年に、早くもデンマークで映画化され、12年にはサラ・ベルナール主演のフランス映画が作られ、そして今回のナジモヴァ版は21年の製作。さらに日本で、27年に岡田嘉子主演で撮影中に、彼女がソヴィエトに逃避行という『椿姫』をめぐるエピソードも、実に興味深いものだった。澤登さんは、この物語は「愛の高揚と障害を描いた、メロドラマの祖型」だと指摘する。
 また、このナジモヴァの独立プロ第一回作品である『椿姫』では、ナジモヴァの相手役のヴァレンチノと後に結婚する、セットデザイナーのナターシャ・ランボバに注目するよう、澤登さんは聴衆を促す。この映画は「女性たちの手によって作られた」という澤登さんの視点は、昨年のモネさんの「レズビアン文化」にもつながるものだろう。
 上映が始まり、澤登さんの活弁の放つオーラについては、わたしは紹介する言葉を持たない。実際に立ち会って、堪能してください。五感が震え、六感、七官へと誘われます。
 なお、瑣末なことを言えば、尾崎翠は、この映画でナジモヴァのカツラに着目していたが、わたしは独特の三白眼の使いまわしに魅せられた。現代にはありえない不思議な表情で、どこか面妖でもあり、時代の美意識について感じるものがあった。ここで憎まれ口を叩けば、澤登さんの活弁を乗せるには、マイクを含めた音響設備が、いささかお粗末であったのではないか。手弁当の素人集団とはいえ、日本で最高のゲストを迎えていることを銘肝すべきだろう。


●こちらの中央部には植物の杉。もう一方の石=鉱物と対照的な緑が美しい。雨ざらしの中で、周囲の竹は朽ち、植物は成長していく。なお、大久保英治氏は、この浦富海水浴場の両翼から向かい合ったランドアートを、さらにスケールアップさせて、鳥取砂丘と、対岸の韓国の両方でランドアートを製作した。ユーラシア・アートプロジェクト参照●

 ほとんど参加するつもりのなかった尾崎翠フォーラムを、直前に翻意したおかげで、期待を上回る2講演と活弁上映に立ち会えたのだが、さらに思いがけない出会いまであった。HPの「尾崎翠参考文献目録」でお世話になっている、石原深予さんと森澤夕子さんにお会いできるのは、予測していたが、『臨床文学論−川端康成から吉本ばななまで−』(彩流社)の著者、近藤裕子(ひろこ)さんに久しぶりにお会いし、短い時間ながら親しくお話させて頂いたのは嬉しかった。97年に発表された「匂いとしての<わたし>−尾崎翠の述語的世界」は、わたしにとって忘れ難く刻印された論文だったが、近藤さんは今年間もなく尾崎翠の研究の歴史をまとめられると言う。楽しみだ。
 わたしは今回、自分がフォーラムにとって場違いの存在であることを深く自覚し、フラフラ顔見知りの間を歩いたりせず、自分の席で、ほとんど置き物のようにジーッとしていたので、実はご挨拶すべき人たちにも失礼してしまった。これもまた、わたしなりの「筋」のつもりだったが、今から考えると間違っていたかも。
 当然、交流パーティーにも出席しなかったのだが、そんなわたしに「会いたい」と言ってくれた人があったことを、翌日、浜野監督に聞き、その名前を知って驚愕した。「ヒデヤマさんて言ってたかな?」と浜野監督は呑気に言うが、もしそれが「日出山陽子さん」だったら大変なことだ。79年の初めての創樹社版・尾崎翠全集で、未発表作品の探索や年譜製作に大いに力のあった人だ。稲垣氏の主宰する雑誌『イデイン』にも「尾崎翠に関する幾つかの資料について」という文章を発表されている。
 それが、いつからかプッツリと名前が見えなくなり、創樹社版では年譜のクレジットが、稲垣氏と日出山さんの連名になっていたのが、筑摩書房版の定本全集の年譜では、竹内道夫氏との連名になり、協力者としても名前が上げられていない。そこで、2000年に「雑誌『鳩よ!』4月号の歯切れの悪い訂正記事について」という稲垣批判の文章をHPにアップした時に、「創樹社版の『年譜』に、稲垣氏とともにクレジットされていた女性研究者の名前が、筑摩版では外されているのも、恣意的な感を免れません」と書いた。
 2日目の『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』の上映前に、前夜パーティーでお会いしたと言う石原深予さんに紹介されたのは、やはり日出山陽子さんであった。わたしのHPの一文を目にする機会があったというお話には、すっかり恐縮したが、昨年出た『迷へる魂』(筑摩書房)の「おぼえがき」と称する、相変わらず長いだけの駄文で、日出山さんのお名前が再登場してくるのは、稲垣氏周辺が拙文を読んだせいではないか、という人もある。
 わたしには、稲垣氏が拙文の指摘を気にするようなタマだとは思われないので、何か稲垣氏お得意の打算があってのことだろう。この「おぼえがき」には、発掘した作品の収録を、筑摩書房に了解した石原深予さんも、刊行当時、激怒していた。わたしは、日出山さんにHPを読んで頂いたことを、まことに光栄に思うが、インターネットならではのコミュニケーションである。
 短い時間ではあったが、日出山さんにお話をうかがい、資料探索に従事されただけでなく、実妹の早川薫さんや、親友の松下文子さんにも直接インタビューされていることを知った。ぜひ、時間の封印を解いて、尾崎翠に関するメモワールを書かれることを、日出山さんにお勧めしたが、もちろんわたしのHPに書いて欲しいなどと図々しいことは言ってない。明確に稲垣氏批判を掲げている本HPなどではなく、ぜひニュートラルなメディアに発表されることを、心から切望している。
 なお、尾崎翠作品を扱う際の、稲垣氏に対する根底的な疑念・批判は、以前、HPの編集後記で書いた。「『朱塗りの文箱』に封じられた謎」という一文で、そこで展開した推理・推測には間違いもありそうだが、未見の方にご一読頂ければ幸いだ。
http://www.7th-sense.gr.jp/kouki/kouki_020917.html


●突如登場したのは、カワカミ課長のお宅でご馳走になった岩ガキ。あまりの大きさと、馥郁たる海の香りに茫然自失し、食べるより先に記念写真●

●岩美の海の刺身の数々。ホテルの自室での、なんともシブイ食事で始まった今回の鳥取行だったが、ふふふふ、豪華絢爛の食卓で締め括られた。もちろんカワカミ・ファミリーとの、一年に一度の愉しい語らいあってのご馳走である●

鳥取の晩の「通な」過ごし方、若しくは単なる金欠

  • 2005.07.16 Saturday
  • 03:25
 7月8日・金曜の夕方、わたしは鳥取市内の街頭に佇んでいた。このブログの冒頭、3月1日付けで書いたように、わたしは尾崎翠フォーラムの実行委員会に罵詈雑言を浴びせ、離脱したのだったが、今年のフォーラムの川崎賢子さんと佐々木孝文さんの2講演、および澤登翠さんの活弁による『椿姫』の上映に対する好奇心を抑え難く、一観客として参加しようと、直前に決めたのだ。
 鳥取行き自体は、翠の生地、岩美町で『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』のロケをした際、えらい困難を共にした同志である同町役場のカワカミ課長のお宅を、浜野監督と年に一度訪問し、酒を酌み交わして一泊することが、年中行事になっている。フォーラムに参加しない以上、その間、大山の宿坊にでも泊まろうかなどと考えたが、変に意地を張るよりも、興味の趣くまま隅っこからでも見学した方が素直だろうと判断した。
 それで、市内の安いビジネスホテル「α−1」に宿を取ったのだが、昨年までのような打ち合わせも公式行事も、今回は関係ない。わたしは一人で、いかに鳥取の晩を過ごすべきか。初めて訪れた97年以来、ロケハン、撮影、上映、その後のフォーラムなど、数限りなくこの地を踏んできた。地方都市の例に洩れず、鳥取もまた夜の繁華街の異様に賑わっているところだが、いまさら行きたい店があるわけでもない。幸い、ホテルの「αー1」は、インターネットのLAN接続が無料で、使い放題だ。わたしは、食べ物を買ってきて、ビールでも飲みながら、携帯してきたパソコンで、のんびりブログの更新でもしようかと考えたのである。


<一階が日乃丸温泉。二階のネオンがライブハウス>

 そう決めたら、まず最初にやりたいのは、近所の「日乃丸温泉」で汗を流すことだ。この温泉は、入浴料金310円の銭湯だが、純然たる温泉でもあって、早朝から夜遅くまで営業している。だいぶ以前、飛行機の料金が高いので、深夜バスで鳥取に入ったことが二度ほどあったが、その時も朝の6時頃に鳥取駅に着いた後、日乃丸温泉に浸かって長バスの疲れを癒した。座席で凝った背中の辺りを、伸び伸びと解放してくれる。駅前に温泉が出る日本で唯一の県庁所在地、というような話も聞いたが、実際のところは分からない。
 日乃丸温泉は、尾崎翠ファンにとって馴染みの「鳥取生協病院」の、すぐ近くにある。翠はこの病院で亡くなったのだが、建物は建て替えられ、当時の面影はない。撮影直前のロケハンで、副院長さんにお話を伺ったことがあったが、いくらか不満げに、「翠に関する文章で、生協病院が低所得者を対象にする病院であり、充分な医療を受けることもできず、哀れに亡くなった、というようなニュアンスのものを読んだことがあるが、それはまったく実態を知らない者の言い分である」というようなことを仰られた。稲垣真美式の「生ける屍のような後半生」が主流だった頃のことで、わたしはまったく副院長さんに同意した。
 日乃丸温泉は小さなビルで、浴場の上はライブハウスだ。二代目の息子さんか娘さんが音楽好きなのか、温泉に浸かった後、ライブを聞くというのも、一種の鳥取スタイルかもしれない。わたしは番台で310円を払い、昔ながらの脱衣場で服を脱ぎ、透明な温泉に身を沈める。そんなに広くない浴槽だが、温泉の感触が心地よい。わたしが初めて鳥取の地を訪れたのは、撮影の前年、97年の初秋だったが、着いた翌日の朝早く目覚め、散歩に出て、旧袋川の土手を歩いていたら、自然と「歩行」の有名なフレーズが甦ってきて、不意に涙がほろほろと流れた。

おもかげをわすれかねつつ こころかなしきときは ひとりあゆみて おもひを野に捨てよ 
おもかげをわすれかねつつ こころくるしきときは 風とともにあゆみて おもかげを風にあたへよ

 唐突な涙は、我ながら意外だったが、今、わたしが受けているこの風は、尾崎翠が、かつて「おもかげを風にあたへた」それとまったく同じ風に違いない! と直覚したのだ。言うまでもなく、空気や風は翠のメイン・モティーフだが、鳥取の空気の組成が他の地と異なるのは、海の近くまで山が迫っている独特の地勢によるものだというお話を、鳥取大学の教授に伺ったことがあるが、この貴重なお話を聞いた席で、酔ったわたしは自分が撮った「薔薇族映画」(ピンク・ゲイ映画)の話を延々と始めて、座をすっかりシラケさせてしまったのだった。バカである。
 さすがに、鳥取を訪問する回数が増えるにつれ、この地の空気や風に対する感覚は普通になってしまったが、最初のうちは、鳥取空港から小雨の中をバスに乗りながら、小林喬樹さん宛ての書簡などを読みつつ、鳥取の空気を吸って、ひとり涙ぐんでいたものだ。わたしは、尾崎翠ファンの一少女だったのである。あれからすでに8年近く経つ。


<境港・小倉屋の焼き鯖寿司>

 わたしは日乃丸温泉からホテルに戻ると、今度は買出しに出た。実は、鳥取に入る前に、空港からバスで鳥取県中央部の倉吉市に行って、画家で翠研究家でもある渡辺法子さんと会い、貴重な私家版『GOETHE und MIDORI−ゲーテ閣下とフロライン翠−』を頂いてきた。この本については、別に紹介するが、その帰りにJR鳥取駅の改札を出たところの売店で「焼き鯖寿司」を目撃し、しっかりと目を付けていたのだ。
 意外と流行に敏い浜野監督が、昨年あたりだったか、羽田空港で「これが今、人気の空弁、○○おばあちゃんの焼き鯖寿司だよ」といって得々と見せびらかしたことがある。すでにご存知と思うが、「空弁」とは「駅弁」に対して空港でのみ売っている弁当のことで、中でも焼き鯖寿司が人気を集めているらしい。
 わたしはホテルの近所のJR鳥取駅に行き、売店で「山陰・境港 小倉屋の焼き鯖寿司」950円を買った。境港は、米子近くの、水木しげる御大の故郷で、わたしは水木しげるロードや水木しげる美術館(だったかな? 妖怪「一反木綿」の小さな置き物を買った)にも行ったことがある。帰京後、鳥取県の広報が出しているメルマガで、この「小倉屋の焼き鯖寿司」も、実は米子空港や鳥取空港で販売する空弁だったことを知ったが、空にこだわらず、陸の土産物売り場にも出しているらしい。しかし、これだけでは、ビールのつまみにならない。わたしは同じ売り場で、八頭郡河原町の「鳥取名産 あごちくわ」560円と、岩美町の隣村、福部村の「砂丘らっきょう」530円も買った。「あご」とは飛び魚のことである。これに、コンビニで、大豆原料の第三のビール3本や、醤油の小瓶、紙の皿、割り箸など1020円を買ったら、なんだ、なんだ、結構の金額になっているではないか。1年ぶりだから、鳥取の名物で攻めてみよう、などと思いつつ、実は倹約を心がけたつもりだったが、それほどの節倹にはならなかったようだ。少し気落ちして、ホテルに戻る。


<八頭郡河原町の鳥取名産「あごちくわ」。芯に竹が付いている>

 部屋に落ち着いてみると、傍らにLAN接続のパソコン、テーブルにはビールと鳥取名産の豪華3種、わたしに、これ以上の何が必要だろうか、という気になってくる。男なら夜の街に繰り出そうという気にもなるだろうが、97年に初めて訪れた際、鳥取文学の研究者の竹内道夫氏に、浜野監督と共に、鳥取のバーや飲み屋を次々と案内して頂いた。創樹社版でも筑摩版でも、稲垣氏の全集後書きで謝辞を捧げられている竹内氏だが、てっきり年配の郷土史家を予想していたら、現われたのは壮年バリバリの、役者風の二枚目で驚いた。
 この人のお酒が、腰を落ち着ける間もなく、2〜3杯飲んだらすぐ次の店に移っていく、チェーン・ドランカー(?)で、話し振りも早口なのだが、飲んでは歩き、飲んでは歩きで、浜野監督などは終りの頃にはすっかりグロッキーになっていた。行きつけの店が限りなくあることに驚嘆したが、全てご馳走になり、翌日はゆかりの地を車で案内して頂いた。現在は残っているかどうか知らないが、その頃、第三者が住んでいた立川町の翠終焉の家まで連れて行ってくれたのには、今でも感謝している。
 また、日本海新聞にわたしたちを連れて行って、映画化の企画を紹介してくれたのも竹内氏だったが、その直後に鳥取でも映画製作を支援する会が結成され、群れを嫌う虎狼の気配がある竹内氏とは、自然と疎遠になった。お元気だろうか。先日も岩美町に榎本武利町長をお訪ねしたら、竹内氏に「橋浦泰雄をもっと紹介すべきだ」と飲みながらハッパをかけられたと、笑いながら仰っていた。あいかわらず意気軒高なのであろう。わたしもフォーラムを離脱し、ハグレ犬の身になったので、虎狼の竹内氏とお会いしてみたいものだ。


<福部村(ふくべそん)の「砂丘ラッキョウ」。小袋のほうだ>

 下の写真が、わたしの夕食の一切である。一堂に並べてみると、いささか侘しい気がしないでもない。予算的に嵩んだのは、土産物売り場で買ったせいだと気づいたが、これら名産品はまさかスーパーでは売ってはいないだろう。ビール代を入れて、三千円超で気に病むわたしもわたしだが、いずれも旨かった。
 境港の焼き鯖寿司は、羽田空港で食べたやたらと脂の多いものと比べて、新鮮で、ぎゅっと締まった味がした。「あごちくわ」は最初モサモサしているが、奥深い味わいがある。福部村でラッキョウも作る、鳥取のバー「イエロー・モンキー」のママさんは、砂丘ラッキョウの一面に花咲く光景が、いかに美しいか語ってくれた。しかし、これらを全て食べた後、一食における3品の分量のバランスがおかしい、例えばラッキョウは一度に一袋食べるものかどうか気になったが、まあ旅先の酒のつまみである。
 これが果して「鳥取の晩の通な過ごし方」と言えるか? 言えないだろうね。



■『とっとり雑学本舗』第428号より(鳥取県総務部広報課発行)
「米子空港などで販売されている小倉屋の「焼き鯖寿司」は全日空のホームページ「空弁紀行」で紹介されるなど、空弁として人気急上昇中です。境港で水揚げされた鮮度の良い真さばだけを焼いて、シャリの上にのせた押し寿司で、米は鳥取県産コシヒカリの氷温熟成米を使用、焼き鯖を食べてるんだと実感できるどっしりした味です。以前に空港で購入した時は、冷蔵ケースの中から取り出してすぐ食したのですが、しばらく放置かレンジで少し暖めてからのほうが美味しさが増すような感じがしました。」
http://www.pref.tottori.jp/kouhou/mlmg

演劇は、しばしば苦痛だが

  • 2005.03.02 Wednesday
  • 05:37
 

 渡辺えり子作・演出の『花粉の夜に眠る戀〜オールドリフレイン〜』を、2月12日に本多劇場で観た。前売り5500円、当日5800円とチケットが高い上に、観るのがひどく苦痛だった。料金は、本多劇場あたりでやる以上、当たり前の料金かも知れないが、経済困窮のわたしには、はなはだ驚きだった。しかし、もっと吃驚したのはお芝居の方で、みんなが大声を張り上げ、カーニバルのように大騒ぎする舞台の、どこに尾崎翠がいるのだろうと、訝しく思った。普段から演劇を観つけていない素人のせいかも知れない。パンフレット(上の写真)にエッセイを寄せている林あまりさんのように「年間百本を越える芝居を観る」人は、尾崎翠と渡辺えり子の間に共通の「詩人の魂」を発見している。
 わたしがこの芝居を観るのが苦痛だったのは、渡辺えり子という女優さんがはなはだ苦手なせいもあったろう。竹中直人とか渡辺えり子とか、スクリーンやTVで目撃すると、反射的に目を背けたくなる。二人が競演していた『Shall We ダンス?』など、ほとんど気が狂いそうになった。特に今回の芝居では、渡辺えり子自身が演じている老境の尾崎翠が「女にもならないで」と何度か叫ぶのが、たまらなく、もうたまらなく厭だった。「女になる」とは一体どういうことだろう。アンドロギュノス的なセリフも、ところどころまぶしてあるが、この舞台やナマ・えり子には強固な異性愛しか感じられない。蛇足ではあるが、初めて舞台の彼女を見て、アメリカの短躯の名優、ダニー・デビートに似ていると思った(余計なお世話で申し訳ない)。
 ただ、冒頭の骸骨たちの群舞に出てくる、たった一匹の犬の骸骨が素晴らしかった。骨しかないのだが、尻尾を立てたり、口を開けて吼えたりするのだ。もちろん黒衣が操っているが、デザインも操作技術も目を瞠るものだった。わたしの住むワンルームの入り口付近に、ぜひ一匹欲しいと思った。

 
 
 しかし、だからといって、わたしは尾崎翠作品の舞台化に反対なわけではない。昨年の10月に、自由が丘の「大塚文庫」で見た風琴工房の『風琴文庫』(写真はその際のしおり)には、ほとほと感銘を受けた。こちらはやはり女性である詩森ろば、という人の作・演出なのだが、夢野九作「瓶詰地獄」久生十蘭「昆虫図」桐島華宵「双生児奇譚」、それに尾崎翠「アップルパイの午後」を、大塚文庫という一軒家の、階の違う部屋を巡りながら順次見ていく、という凝った構成だった。
 しかし、特筆すべきは「アップルパイの午後」の最後に登場する「友達」が女性に置き換えられていたことだ。この「読む戯曲」には3人しか登場人物がいないが、2組の兄と妹の間で、カップルが2組成立する。基本的には兄と妹の会話で終始し、最後に登場する兄の「友達」が、自分の妹の気持ちを兄に伝えるのだが、この「使者」が、妹の方の隠された恋人でもあった。(塚本靖代さんに、妹の交換をめぐる論考がある)
 その「使者」が『風琴文庫』では女性であり、妹と彼女は朗らかなレズビアンなのだ。大胆な読み替えだが、わたしはまことに現代的で新鮮な尾崎翠の読解だと思った。原作の兄と妹の、馴れ合ったやり取りがどうも馴染めなかったわたしだが、詩森ろば的大逆転によって、兄のいい気な(家父長の真似事的)押し付けが、一挙に無効になる。その目覚ましく鮮やかな締め括りに、わたしは思わず膝を打ち、快哉を叫んだ。初めて「アップルパイの午後」という作品に出会ったような気さえした。そうか、この手があったのだ! わたしはひどく幸せな気持ちで、大塚文庫という風変わりな建物を後にしたのである。
 なお、『風琴文庫』というタイトルは、ギャラリーである大塚文庫と、詩森ろばが読んだ前記4作品の文庫本をかけているらしい。「文庫本のように演劇を読む」試みだという。この3月には風琴工房の次回公演が、下北沢ザ・スズナリで行われる。『機械と音楽』というタイトルで「ロシアン・アヴァンギャルドの建築家たちの群像劇」だとか。ちなみに料金は前売り3000円、当日3500円だ。(高いぞ、渡辺えり子! しかし、スズナリと本多劇場。それに高くても満杯…。貧乏人のオレは、宇宙堂、ゼッタイ行かない)

●『風琴文庫』のHP
http://windyharp.org/bunko/

●風琴工房のHP
http://windyharp.org/

尾崎翠フォーラムを離脱

  • 2005.03.01 Tuesday
  • 00:18
 鳥取の尾崎翠フォーラムを、ヤマザキ個人として離脱した。これまで浜野佐知監督と並んで「顧問」という身の丈に合わない立場を与えられていたが、離脱をきっかけに、フォーラムとタッグチームのように運営してきたHPを改編することにした。「尾崎翠参考文献目録」と、新設のこの「影への隠遁ブログ」の二本立てである。
「参考文献目録」は塚本靖代さんが強い意志を持って遺してくれたものであり、研究者ではないわたしには荷が重いのだが、協力してくださる方々を求めて拡充していきたい。ブログの「影への隠遁」が尾崎翠の「映画漫想」から引用していることは言うまでもないが、これまで一体感を持ってきた尾崎翠フォーラムや、兄事してきた土井淑平代表との訣別に当たって、わたしが非常に侘しい気分に陥っていることを反映している。土田九作の「地下室アントン」ではないが、わたしもまた「影」の世界へと降りて行こうというわけだ。

自画像

 しかし、その一方で、わたしが土井代表やフォーラムの実行委員会に大いなる憤懣を抱いていることも確かであり、これ以上共闘するわけにはいかないと判断して離脱するに至った。事は尾崎翠作品の再映画化を巡って生じたのだが、詳述すると泥仕合になるので、かいつまんで言うと、土井代表および実行委員から浜野監督に協力できないという否定的な見解が打ち出されたことによる。中には「映画製作などに関わるなら実行委員を辞める」という声もあったと明記されていたのには、タマゲタ。まだ何も始まっていないのに、最初から否定してかかるのはなぜか?
 ひとつは尾崎翠フォーラムもまた「男の組織」で、組織論やら運動論が先に立つという面がある。また、地元鳥取に住み、これからも長く住んでいく立場として難しい面もあるのだろう。しかし、これまでのフォーラムのほとんどのゲストの出演交渉や、ギャラの交渉まで担当してきた浜野監督に対して、映画製作が現実化した段階ならともかく、模索している今の段階で、どうしてバックアップの姿勢を快く示してもらえないのか、わたしには不思議でならない。「そりゃあ、ねえだろう」というのが、わたしの率直な感想だ。
 もちろん、わたしがムシの良いことを言ってるのかも知れない。ましてわたしは、これまで稲垣真美氏をシツコク論難し、稲垣氏を権威と奉る筑摩書房を批判し、鳥取在住の文芸評論家、内田照子氏とも山陰中央新報紙上で半ば罵倒し合った。ここで土井淑平代表や尾崎翠フォーラム実行委員会とモメルということは、わたしが札付きのトラブルメイカーであると考えると、きれいに氷解するのだが、果たしてわたしは「札付き」であるか?
 アイデンティティという言葉をよく聞く。わたしは「自分探し」など信じない。他人の視線の結節点に生じるのが「わたし」だろう。わたしは尾崎翠全集と花田清輝全集があれば、事足りる人間である。このブログで日記を書くつもりはなく、トラブル多き日常の中で、尾崎翠や花田の言葉を手がかりに考えたことを書き記し、誰が読むとも知れない空間に放置してみようと思う。その結果、わたしが「札付き」であることが証明されたら? これまでモメテきた皆さんに謝ろうかな。

沖縄の豚

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