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今日、明日のことを、今から告知することに、どれほどの意味があるのか、我ながら首を傾げながらの緊急(?)お知らせです。

1 京都=京都シネマ


2010年7月24日(土)〜7月30日(金)
浜野佐知監督3作品・『こほろぎ嬢』『百合祭』『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』上映
一般1500円・大学生以下&シニア&障害者1000円

午後1時15分と、4時15分に、3本のうちの2本が上映され、その間に連日ゲストを迎えての浜野監督のトークショーが行なわれます。
番組スケジュールは、以下のHPを参照。
http://www.kyotocinema.jp/sachi-hamano/index.html

『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』(98年製作を新編集した2010年版。尾崎翠原作)
白石加代子 吉行和子 原田大二郎 宮下順子 白川和子 横山通代 石川真希 下元史朗 中満誠治 柳愛里 室井誠明 野村良介 井筒森介 佐藤一平 外波山文明 吉行由美 丸山明日果 野上正義 内海桂子

『百合祭』(01年。桃谷方子原作)
吉行和子 ミッキーカーチス 正司歌江 白川和子 中原早苗 原知佐子 大方斐紗子 目黒幸子

『こほろぎ嬢』(06年。尾崎翠原作)
石井あす香 鳥居しのぶ 吉行和子 大方斐紗子 片桐夕子 外波山文明 宝井誠明 野依康生 イアン・ムーア デルチャ・M・ガブリエラ リカヤ・スプナー ジョナサン・ヘッド

★連日午後3時30分から日替りゲストと浜野監督のトークショー
24日(土):森澤夕子(尾崎翠研究者)+ヤマザキ
25日(日):土井淑平(尾崎翠フォーラム代表)
26日(月):ひびのまこと(関西クィア映画祭代表)
27日(火):イダヒロユキ(立命館大学非常勤講師・ジェンダー論)
28日(水):太田耕一耕耘キ(関西ピンクリンク代表)
29日(木):栗原奈名子(映画監督)
30日(金):寺田操(詩人)+ヤマザキ

<京都シネマ>
http://www.kyotocinema.jp


2 京都=本町館
 

7月23日(金)〜7月29日(木)
ピンク映画の浜野組2本とヤマザキ組1本を上映。入れ替えなし。
浜野組はエクセスと新東宝、ヤマザキ組はOP映画。拙作『美尻エクスタシー 白昼の穴快楽』は新作です。
入場料=一般1200円・女性&学生1000円

『隣人妻たちの性狩 しとめたい!』(エクセス。浜野組。旧題『いじめる人妻たち 淫乱天国』2000年)
出演=黒田詩織 小川真実 彩木瑠名 鏡麗子 篠原さゆり 柳東史 中村和彦

『やりまくる人妻』(新東宝。浜野組。旧題『やりたい人妻たち』2003年)
出演=ゆき 鏡麗子 風間今日子 柳東史 なかみつせいじ 平川直大 須藤敦士 兵頭未来洋

『美尻エクスタシー 白昼の穴快楽』(OP。ヤマザキ組。2010年)
出演=国見奈々 淡島小鞠 里見瑤子 池島ゆたか 荒木太郎 牧村耕次

★24日(土)午後1:15〜トークショー(つまり今日ですね。これから慌てて出て行くところです)
浜野佐知+ヤマザキ+太田耕耘キ(関西ピンクリンク代表)

<京都・本町館>
http://homepage3.nifty.com/a-sp/sub1.htm

3 京都=大正の着物展 湯浅芳子の時代


7月23日〜8月1日
10月にクランクインする浜野佐知監督作品『百合子、ダスヴィダーニヤ』の撮影において、大正時代の和服とその着付けについて指導してくれることになった「NPO法人 京都古布保存会」(代表=似内惠子・にたないけいこ)による、着物の展示。
湯浅芳子直筆の葉書も展示されている。



場所:NPO法人京都古布保存会事務局
京都市左京区浄土寺上南田町60(アクセス:バス203番または17番乗り換え「銀閣寺道」下車4分)
電話:075・761・3803

4 鳥取=鳥取県立図書館


明日、7月25日で終る鳥取県立図書館の「尾崎翠−迷宮への旅−」展だが、尾崎翠に関心のある多くの方々に、ぜひ見て頂きたい。
わたしは7月3〜4日に開かれた第10回尾崎翠フォーラムに参加した際に見たのだが、話題になっていた4作の新出資料以上に、初めて公開された「瑠璃玉の耳輪」と「香りから呼ぶ幻想」の生原稿が、激しくわたしの興味を惹いた。
この二つの作品は、1998年の筑摩書房の「定本全集」で、新発見!と鳴り物入りで新しく収録されたもの。独特の映画批評を書いた尾崎翠の映画梗概とくれば、色めき立つのも当然で、「瑠璃玉の耳輪」はシノプシスというにはあまりにディテールに渡ったものだ。
一方「香りから呼ぶ幻想」は匂いをテーマにした、いかにも尾崎翠らしい着想の短編で、他にも数編が親友の松下文子さんの遺品から発見されたと、全集編者の稲垣眞美氏が発表している。

松下文子さんの遺族から稲垣氏に託された「朱塗りの文箱に大切に収納し秘蔵」されていた、尾崎翠の「未発表作品」については、以前疑問を呈したことがある。
http://www.7th-sense.gr.jp/kouki/kouki-con020917.html

今回、初めて生原稿を見て、わたしの疑問はいっそう深まった。いったい「香りから呼ぶ幻想」は、さらに言えば「瑠璃玉の耳輪」は、ほんとうに尾崎翠の作品なのか?
専門家の鑑定をお願いしたいところだが、とりあえず多くの尾崎翠に関心のある方々に見てもらいたい。

<鳥取県立図書館HP>
http://www.library.pref.tottori.jp/event/osakimidori_2010.html




<カメルーンの鶏の雄叫び。撮影中に、飼い主の婦人が「私の鶏を撮るな」とクレームをつけてくる。友好的なカメルーンの人たちだが、外国人の写真撮影に対してはアレルギーがあるようだ。この鶏はわがピンク映画にも写真で特別出演>

4月15日に行われた拙作ピンク『美尻エクスタシー 白昼の穴快楽』のスタッフ試写は、久しぶりに愉快なものだった。あまりにもわたしの好みに偏した映画だったため、「喜んでいるのは、監督のわたしだけ?」という懸念があったのだが、わたしはスクリーンの役者諸氏の芝居を見ながら、笑いが込み上げてくるのを抑えられなかった。なんて素晴らしい役者たちなのだろう。
里見瑤子、淡島小鞠、池島ゆたか、荒木太郎、牧村耕次、そしてゲストスターの国見奈々。彼や彼女のファンとして、すっかり楽しんでしまった。
反省してみれば、わたしは「監督」という意識が希薄であり、むしろ「最初の観客」としてピンク映画や薔薇映画を作っているのではないだろうか。自分の観たいものを自分で作り、それがうまく行くこともあれば無残に失敗することもある。今回は、これこそわたしが観たいものだった(と思う)。

企画の当初から、プロデューサーの浜野監督や配給会社は危ぶんでいた。テーマは、目玉に玉子に金玉、そして尻子玉。人体における玉を探求するというのが謳い文句だ。
シノプシスや台本の末尾に、参考図書として、ジョルジュ・バタイユ「目玉の話」(光文社文庫。中条省平による新訳と、その解説)・水木しげる「河童の三平」と、まったく相互に関係なさそうな、しかしいずれも曰くありげな、その道の大家の2著を上げていたのは、確かに妙なストーリーではあるが、わたしが勝手にでっち上げたものではなく、それなりに根拠があるのだというアピールのためだった。



<銀座のフィギュア用パーツ専門店「天使のすみか」で購入した国産22ミリ径のグラスアイ。目玉のコーナーには、サイズも違えば、色も異なる目玉が豊富に揃っている。>

だいぶ以前に読んだのだが、名訳の誉れ高い『眼球譚』を『目玉の話』と改題して新訳した中条省平氏の「解説」が面白かった。この小説でモティーフとなっている眼球、玉子、睾丸という3つの玉は、フランス語で発音すると非常によく似ている。そのニュアンスを生かすために、「目玉」「玉子」「金玉」という訳語を採用したというのだ。
目玉や玉子はともかく「金玉」が嬉しいではないか。わたしは薔薇映画を撮る際には、ブリーフ一枚の男性同士が股間をすり合わせ、それを足元側から撮影する。すると、4個の睾丸が揉み合う様子が、薄い布越しに見え、わたしはこれを「金玉ごろごろ」カットと称して、これを撮らないことには薔薇映画を撮った気にはならないのだった。(わたしがところ構わず「金玉ごろごろ」と大声を出すので、周囲から顰蹙を買っていることは間違いない)。
今回のピンクの企画を考えている時、不意に甦ってきたのが、3つの玉に関する中条省平氏の「解説」だった。しかし、ピンク映画は女性が主役である。金玉は当てはまらない。何か女性にも適用できる玉は、他にないか? と考えて浮かんできたのが、学生時代からさんざん親しんだ水木しげるのマンガに出てきた「尻子玉」だった。たぶん「河童の三平」なら大丈夫と思って参考図書に上げたのだが、今回改めて確認したわけではない。
第四の玉、尻子玉を設定することで、わたしのレールはほぼ出来上がった。仮題は「尻子玉姫と竿男」。安吾の「夜長姫と耳男」の安直なモジリだが、このモジリには何の意味もない。登場人物は、表題の二人以外にも、目玉嬢とか玉子ドクター、玉丸、金袋など、周辺のモノからネーミングした。
一人意気あがるわたしだったが、しかしプロデューサーと配給会社を説得できる第一稿を作らなければならない。



<人形作家の方がやっている通販で購入したイギリス製26ミリ径のグラスアイ。さすがに精巧なものである。人間の目の玉は、実際これぐらいの大きさらしい。>

実は、この企画を詰めていたのは、バングラデシュのダッカ国際映画祭から帰って、次にアフリカのカメルーンの第一回国際女性映画祭に参加しようとしている時だった。当然、日本を発つ前に第一稿をあげるつもりだったが、例によってズルズル遅れ、出版業界最底辺編集者シオヤマから発注された「ケダモノ名画座」(獣姦マンガ誌のエッセイ)の原稿とともに飛行機に乗る羽目となった。
当初は飛行機のなかで、などと殊勝なことも考えたが、食事の際にワインなど飲めば、できるものではない。結局、中継地のパリでシオヤマにメールで原稿を送り、カメルーンの首都ヤウンデのホテルで深夜起き出し、ピンク映画の第一稿、そして配給会社の意見を受けての第二稿を起こした。
ヤウンデでは地域の無線でネットにつながっていたが、電波が微弱で部屋のなかではキャッチできない。廃屋のような屋上でなんとかつながるのだが、しかし夕方から夜、早朝には恐ろしい病気を媒介する蚊が跳梁跋扈する。わたしは朝方まで書いた原稿を、太陽が充分に出たのを見極め、屋上に行って送稿した。
せっかくパリやカメルーンにいるのに、獣姦マンガ誌のエッセイやピンク映画のシナリオに追われているのは、実に馬鹿げたことだが、おかげでわたしのピンク映画では、里見瑤子さん演じる玉子ドクターは、カメルーンで修行し、光り輝く尻子玉の伝説がアフリカにもあったと主張する。カメルーンこそ、いい迷惑だったかもしれない。



<カメルーンの目玉オヤジ。レストランの庭にひっそり佇んでいた。このオヤジも重要なシーンで数カット特別出演>

今回の撮影では、目玉などの小道具が重要であり、これらについては助監督に任せず、自分で探すことにした。当初のモティーフである「義眼」探しから出発したのだが、これの本物は予算的にも時間的にも手続き的にも無理であることが早々と判明した。入手できるのはフィギュア用の目玉だったが、これも国産と輸入物でサイズや値段、色あいが異なる。
この目玉探索のプロセスが面白かったのでmixiの日記に書いたら、試写に行きたいというマイミクが数人現れた。また、撮影で下北沢のスローコメディファクトリーを借りたので、主宰者の須田泰成さんを紹介してくれた大衆食堂の詩人エンテツ(遠藤哲夫)さんのブログに、試写への誘いを書き込んだ。
その勢いでシオヤマの漫画屋BBSにも書き込んだら、一箱古本市の教祖的オルガナイザーにして編集者&ライターの南陀楼綾繁氏が来てくれるという。マイミクのライター岩崎眞美子さんには、薔薇映画をはじめ、拙作を何本か観てもらっているのだが、小説家の木村紅美さんを誘うと言い出した。
木村紅美さんには昨春、わたしも実行委員の一人として携わった尾崎翠シンポジウムのパネルディスカッションに参加してもらったが、わたしは彼女の小説を電車の中で読みながら、不意に大量の涙がこぼれ落ちて困ってしまったことがあった。『花束』という、尾崎翠の短編と同名の小説の最終章だったが、ああ、この感動は大島弓子さんのマンガで泣く時の感覚に近いと思ったものである。
尾崎翠や大島弓子と、わたしの目玉&金玉映画は、なんと遠い距離にあることだろう。わたしは紅美さんに来て頂けるかもしれないと知って、周章狼狽したが、後の祭りである。



<香港製目玉キット。目玉ドクターのシンボルに使った。2千円弱と安いが、組み立ての説明書が英文しかなく、えらく往生した。英語の説明書しかないことによって本物気分を味わえると、日本語が挟み込まれていて、むかっ腹が立つ>

試写の当日、エンテツさんと京王線の乗換駅で一緒になり、時間も早かったので柴崎駅前の喫茶店でコーヒーを飲んだ。その時、携帯がメールを受信し、mixiからの通知だったのだが、本日は南陀楼氏の誕生日だという。わたしは天を仰いだ。敬愛する女性小説家だけでなく、今日が誕生日の男性批評家まで、わたしの金玉映画に臨席するのだ。いいのかな…。
駅前で南陀楼氏、木村紅美さん、そしてエロ本業界の先達であるフリムン多田氏と合流し、東映ラボ・テックに向かう。途中、紅美さんが、この柴崎こそ、『花束』に登場する予備校の寮があったところだと話してくれる。エンテツさんは隣のつつじヶ丘(かつては「金子」だったとか)に幼時住んだことがあるというし、南陀楼氏は数ヶ月前に生まれて初めて柴崎で降りて、もうここに来ることはないだろうと思ったというし、不思議な縁があるものだ。
「この映画で喜んでいるのは、監督のわたしだけ?」という懸念にもかかわらず、役者諸氏の芝居を見て、すっかり嬉しくなったわたしは、もう誰に何と言われようとかまわないという、開き直った気持ちでエンディング曲を聴いた。そして振り返ると、わたしの真後ろにいたフリムン多田氏が「これはもう笑うしかない」、後ろの方にいたエンテツさんが「尻子玉っていうのがいいね」、南陀楼氏が「バタイユもここまで即物的になると」といって、いずれも笑っている。
眞美子さんは前からわたしのピンクや薔薇を「ツボ」だと言ってくれていたのだが、わたしがビビッテいた紅美さんには「卵を産む少女」という短編があり、卵を入れるカットにドキドキしたと言ってくれたのには、心からホッとした。
翌日には早くも南陀楼氏とエンテツ大兄がブログで感想をアップしてくれた。また、マイミクでは、キネマ怪人カマニア氏が日記で感想を書いてくれた。わたしはピンク大賞などに集うピンク映画マニアとまったくソリが合わず、互いに毛嫌いしているのだが、唯一カマニア氏だけと交流がある。
普段はまったく誉められることのないわたしの映画だが、こんなに盛大に誉められると、ただ茫然とするばかりだ。もちろん、これは相当特殊な観客だろうが、あまりにも嬉しいので、お二人のブログとリンクしておく。

「ナンダロウアヤシゲな日々」
http://d.hatena.ne.jp/kawasusu/20100415
「ザ大衆食つまみ食い」
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2010/04/post-4e13.html

*なお、お二人の文中に、今回の作品で配給会社に「なんでこんなものにカネを出しているかわからん」と言われたというくだりがあるが、これはエンテツさんと駅前の喫茶店で雑談している時の話が、不正確に伝わったものだろう。さすがに、そこまでは言わないね。前日に行われた映倫試写では、配給会社の諸君に「尻子玉って、わけ分からない」「あまりにもバカげたことを大真面目にやっているので、しらけた」「次があるかどうか分からない」などと散々だったが、面白がってくれるスタッフもいた。
しかし、以前ヤマザキ映画について、ピンク映画館の観客のどれだけが理解するか? 百人中ひとりも居ないのでは? と言われた時にはビックリした。もちろんわたしは、潜在的にこうした変な欲望を抱いている人は確実に存在する、と主張したが、わたしがビックリしたのは、劇場で誰も理解しないような映画を作らせ、配給する度量に対してだった。年間2本だから仕方がないと思っているのだろうか。

*リンクついでに、はたしてピンク映画マニアなのかどうか、面識はおろか、名前も知らない人だが、拙作を定点観測していているブログがあって、この機会に紹介しておく。作ったわたしさえ忘れているようなディテールが書き込まれていて、ああ、そんなこともやったなあ、などと感心しながら読むのだが、最近のヤマザキはパワーダウンして、ストーリーを統御することもできないのではないか、などと耳の痛いこともいっぱい書かれてある。直接応答したことはないが、内心感謝していることを記しておきたい。

「真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館」
http://blog.goo.ne.jp/dropoutcowboys/c/a48f37bb0b2b848ac3307171e33d7c67


昨年10月に参加したロンドンのレインダンス・フィルム・フェスティバルで、新進気鋭の高橋康進(やすのぶ)監督に出会いながら、上映日程の都合で観ることができなかった『ロックアウト』を、ようやく観た。2月27日(土)から東京・六本木の「シネマート六本木」で上映されることになり、そのマスコミ試写が行われたのだ。
「世界が愛した才能・北米編」という企画で、「海外映画祭で評価された日本のインディペンデント映画を公開するシリーズ」だという。3月19日(金)まで、「海外映画祭へ殴り込みをかけた2人の若手映画監督」として、三宅伸行監督作品『Lost & Found』と共に、日替わりでレイトショーされる(時間は夜8時より)。

●『ロックアウト』HP
 http://ontheroadfilms.com/lockedout/index.html

●「世界が愛した才能 北米編」公式サイト
http://www.gr-movie.jp/top.html

「シネマート六本木」には、昨年、出色のホラー映画『Rec』の2本立てを観に行ったが、面白い企画をやる映画館ですね。「世界が愛した才能」とは、大きく出たものだけれど、大量宣伝のできないインディペンデント映画としては、これぐらいの心意気が必要なのでしょう。
で、『ロックアウト』の感想だが、実に面白かった。ワクワクした。これは何度か観たい映画だと思った。高橋監督と知り合ったから言うわけではなく、多分映画の好みが似ているのだと思う。そして、観終わった後、いろいろ考えさせるところがいい。一件落着したように見えて、その実、もろもろ後を引くのだ。

映画は、混乱した精神状態の、いかにも危なそうな男が、車をえんえんと運転しているところからスタートする。自分がどうして今、車に乗っているのか、この車でどこに行こうとしているのか、さえ明らかでない。ぼろい食堂に寄って邪慳に扱われると、不意に黒づくめの邪悪な男が出現し、店主の顔を血しぶきが噴き出るほど殴りつける。
これはもちろんイマジネーションの世界で、怪人は彼のどす黒い分身だ。このダークな半身が実に魅力的で、表情などはデヴィット・リンチのキャラを連想させるが、次第にわたしはティム・バートンの『シザーハンズ』を思い起こすようになった。その理由は後述する。

何か些細なことを切っ掛けに暴発しそうな男だが、実は仕事のうえで、そして恋人との関係においても、大きな危機を迎えていたことが明かされる。そのギリギリの精神状況にある男の車に、母親とスーパーに買い物に来た少年が間違って乗り込んできた。子供に何度も「知らない人には注意しなさい」と注意する母親だったが、その子供が出会ったのは、よりにもよって、いちばんヤバイ種類の男だったのである。
さあ、男がいつ切れるか、わたしたちはハラハラしながら少年を見守ることになるのだが、他人を信用するなとシツコク子供に説教する、家族が第一のイヤミな母親に対して、惨劇が起こって欲しいという期待がないわけでもない。緊張をはらんで、男と少年を乗せた車は栃木県内を走り回る。(協力:栃木県フィルムコミッション)

これ以降の展開について、あまり詳しく記すと、「シネマート六本木」で観ようとしている人たちの興を殺いでしまうので、最小限にとどめる。この男がアブナイ理由のひとつは、内面に抱えた、どす黒い、もう一人の自分のせいばかりではなく、本当は人間関係の拙劣さにあるのではないか、とわたしは考えた。
迷子の少年を、結果的に車で引き回し、さらには交番に連れて行ったりすれば、何より自分が疑われるのは自明の理だが、壷にはまったかのように、それをやってしまう。案の定、交番の警官はネチネチ男に絡んでくるが、しかし粘着的な警官よ、いいのか、そんなことをやって? こいつが切れたら血しぶきだよ。
ところが、この男、あんがい素朴なぐらい善良なのである。ぶっきらぼうで言葉足りず、凶暴なヴァイオレンスが暴発する可能性を抑えることはできないように見えるのだが、実際の人間関係の対応を一歩引いて見ると、世慣れてないだけ、あんがいイイ奴なのだ、と言えないこともない。

この映画の惹句は「抑えろ、内なる暴力性」。おそらく高橋監督自身が付けたのだろう。わたしが面白いと思うのは、ふつう平穏な日常の中に、非日常的なヴァイオレンスが浮上してくるものだが、このアブナイ男の場合、「暴力性」がむしろ日常で、さ迷い出た非日常的な彷徨のなかで、自分のなかの優しさや思いがけない親切心が浮かび上がってくるのだね。おそらく「暴力こそが日常性」という認識が、高橋監督にあるのだろう。喉の辺りまで溜まりに溜まって、出口を求めるキツイ衝迫。これは今の日本の、誰のなかにもある。

「知らない人は、みんな敵」(不正確な引用です)と教える母親だって、見方を変えれば激しく暴力的だ。彼に似合わない、きれいな恋人だって、子供を産んだら、同じように教える可能性だってある。映画が一件落着したように見えても、実は何も解決していないのだ。元の場所に戻って行く彼を、ダークな半身が見送る。邪悪で魅惑的なダンスを披露しながら。
彼はどす黒い自分と訣別して、「内なる暴力性」を抑えることに成功したのか? 解釈はさまざまだが、わたしはそうは考えない。恋人が、あの母親と一体化するのを妨げるのは、実はあのダークな半身なのではないか。アイツこそ、彼を彼たらしめている最大のものだと、わたしは考える。その時、彼は呟くべきだ。「棄てろ、内なる日常性」。

わたしはあまりに、母親の排他性を嫌いすぎているだろうか。誰が見たって、優しくてきれいなママなのにね。この映画の中には、幾つもの対立軸がはらまれているが、アブナイ男と子供の母親を分け隔てるのは、孤独という概念だろう。子を思う母親は、孤独ともっとも遠いところにあり、アブナイ男は自分で自分の孤独が自覚できないぐらいに孤独だ。
あんがい、いい奴ではないか、という発見が、わたしに「シザーハンズ」を思わせたのだが(手がハサミになって、人を傷つけるのは彼の責任ではない)、それぐらいわたしは、あのダークな半身の形象に惚れ込んでしまったのだろう。

他にも思いがけないダンスシーンがあって、現身の彼が、ねちっこい警官と揉み合いながら踊る?ダンスは、観客にとっても心踊るシーンだ。これはわたしの独断だが、高橋監督は、臨界点に達した感情を即自的に爆発させるのではなく、鬱屈した感情をギリギリ解放しながら、日常のなかの芸術表現として昇華させる、ある種のセラピーとして、ダンスを提示しているのではないだろうか。まことに映画的な瞬間だと思う。

なお、蛇足ながら、現身の彼と、ダークな半身の彼は、同じ役者が演じているのだろうか。わたしにはまったく別な役者が演じているようにしか見えないのだが。
同じだとすると、あまりにも素晴らしい!





 
<このチラシを見よ。堂々「無職と平和」を謳っている。「04」とある通り、映画祭第4セクションのテーマだったのだが、出色のキャッチだ>

「平和」という言葉が、これほど新鮮に感じられたのは、いつ以来のことだろう。小学生の頃の安保騒動以来ではないか。すっかり「平和ボケ」しているわたしは、平和という言葉を聞いても、まったくピンと来ない。戦争、というより武器や爆弾を使用して人間を殺戮することには、生理的な嫌悪があるが、そういうことをするのが人間なのだろう、という緩いアキラメもある。
ところが昨年12月にヒロシマ平和映画祭で出くわした、上のチラシには不意打ちを食った。「無職と平和」! 何なんだ、これは? 「戦争と平和」みたいに、無職と平和を対置しているわけではないだろう。いったい無職と平和の間には、どういう関係が有り得るのか? これはマジなのか、とぼけているのか? しかし、仮にも平和を希求する総本山のような広島で、まさか、おとぼけはないだろう。
わたしの頭のなかで、「無職と平和」という言葉がリフレーンする。何か不意に活気付いたわたしは、近くにいた中国新聞の道面(どうめん)雅量記者に、これはどういう意味なのか尋ねた。氏は、福田首相の例の退陣会見で「あなたとは違うんです」と言わせしめた「あなた」らしいが、彼は直接解説めいたことを口にせず、映画祭の公式ガイドブックを読め、そこにかなり的確なエッセイが掲載されている、と言う。
チラシの裏を見ると、浜野佐知監督やわたしが広島入りする1週間前の12月6日には、ルイス・ブニュエルの「忘れられた人々」、若松孝二の「餌食」、富田克也の「国道20号線」、ジャン・ガブリエル・ペリオの「犬と狼のあいだ」(いずれもわたしには未見の映画)が上映された後、深夜に「日常性に噛みつけ! 無職・負け犬・ゾンビたち」 というトークライブも行なわれている。
日常性批判や「負け犬」には驚かないが、「無職」と「ゾンビ」にはシビレタ。まさしくゾンビに職はないし、無報酬で人に「噛み付く」。「日常性に噛みつけ!」というのは、ゾンビとして噛み付けということなのか。しかし、広島でゾンビを語る人物に出会えるとは思わなかった。わたしは今回、ほとんど何の考えもなしに広島にやってきたのだ。


<これが公式ガイドブック。実に3週間にわたる映画祭だったのだ>

映画祭のクロージング・イベントが行なわれる12月11日の前日に広島入りした浜野佐知監督とわたしだったが、この日の朝に浜野組自主制作作品の台本を打ち出し、印刷屋に届けたわたしは、それまでの1週間、自室に引きこもって誰とも会わず、珍しくムキになって台本作りをやっていた。
かつて実現しかかった湯浅芳子と宮本百合子をめぐる企画だが、諸事情で頓挫し、しかしこのテーマに賭ける浜野監督の熱情止み難く、まったく逆の視点から再構成することになった。今回の原作は、宮本百合子の「伸子」である。百合子と最初の夫の荒木茂、そして湯浅芳子の3人の関係に焦点を絞った。撮影の目途はまったく立っていないが、徒手空拳でどこまで出来るか?
それで、ヒロシマ平和映画祭については、どうやら浜野組ピンクが上映されるらしい、マジか? ぐらいにしか考えず、寝不足のまま新幹線に乗り、弁当を食べながらビールを飲んで眠ってしまった。記録係として、写真を撮ればいいだろうぐらいの気持ちだったのだ。
ホテルにチェックインした後、浜野監督と旧知のひろしま女性学研究所の高雄きくえさんと合流する。この人は映画祭の実行委員の一人で、ひろしま平和映画祭の事務局も、この研究所に置かれていた。アットホームな同研究所で鍋料理を頂いたのだが、これまで発行した出版物の中に駒尺喜美さんの著作が数点あった。この研究所の創設者の中村隆子さんが古い知り合いだったらしい。
神楽坂にあったエポナ出版から、駒尺さんの『魔女の論理』が出たのはいつのことだったろう。古い知り合いのモーコさんが編集部にいたのだが、この本や東郷健の『雑民の論理』はわたしを大いに啓発してくれた。自由気ままな東郷さんの本では、エラク苦労したらしいことをモーコさんに聞いたこともあった。
そんな話を高雄さんとしていたら、上映が終った実行委員の人たちがドヤドヤ帰ってきて宴会になった。事務局長の東琢磨氏や実行委員の上村(うえむら)崇氏、それに道面記者などだ。そしてこの上村氏こそ、恐るべし「ゾンビ」の言いだしっぺだったのである。(この時点では、まだ「無職」という概念には出会っていない。高雄さんに頂いた公式ガイドブックを開けば出ていたのだが、わたしはもっぱら広島の日本酒を飲んでいた)。
ホテルまで車で送ってくれた上村氏に、何でゾンビなのか車中で尋ねたら、アントニオ・ネグリは世界の変革主体であるマルチチュードをバンパイアに仮託しているが、消費社会に組み込まれた市民である俺たちはバンパイアではあり得ない、ゾンビなのだ! といきなり難しいことを言い出した。熱弁をふるうあまり、時にハンドルから両手を離して振り回すのには肝を冷やしたが、ホラー好きのわたしはゾンビ論者に出会って、すこぶる愉快だった。
ネグリの著作をまったく読んでいないわたしだが、<変革主体>なるものをバンパイアに重ねるのは、あまりにもカッコよすぎるだろう。「俺たちはゾンビだ!」という上村氏の低音の効いた、シブイ認識に、わたしは深く同意する。


<11日の昼に、広島県女性総合センター・エソール広島で行なわれた浜野監督講演「生涯チャレンジ 映画監督として生きる」での質疑応答>

翌11日には、夜に横川シネマという映画館(広島の次の横川駅下車)で開かれるクロージング・イベントの前に、午後2時から広島県女性総合センター・エソール広島で、浜野監督の講演会が開かれた。この会場で、わたしは例の「無職と平和」のチラシに出会ったのである。
浜野監督は、いつになくノリがいい。前夜呑んだ映画祭実行委員の面々が詰め掛けてくれたのも一因だったろう。この講演会では『百合祭』の20分バージョンを上映したが、ゾンビ上村氏はラストで吉行和子さんが白川和子さんとともに、観客に対し「私たちが昨日の夜、どんなイヤラシイことをしたか、誰も知らないでしょうね」と語りかけるところに泣けたと言っていた。はなはだ感激癖のゾンビなのである。
わたしはむしろ、「無職と平和」、そしてゾンビの方に気を取られていたので、横川に移動した後、グァテマラ風味の広島やきそば(これが実に絶品なのだ)を食べながら上村氏と、そして横川シネマで『やりたい人妻たち』が上映された後の居酒屋では「無職」の提唱元であるらしい「シャリバリ地下大学」の「学長」行友(ゆきとも)太郎氏も交え語り合った。
いかにも怪しげな「地下大学」だが、「学長」といっても上村氏と同世代の三十代ではないだろうか。上村氏もまたシャリバリ地下大学の所属であり、12月6日の「無職と平和−日常性に噛みつけ!」爆音上映会でトークライブを行なったのは、この二人に『国道20号線』の富田克也監督と、脚本の相澤虎之助氏だった。
世間の狭いわたしは知らなかったのだが、行友学長は、東琢磨氏とともに『フードジョッキー』という異色の料理本を、ひろしま女性学研究所から出して評判を呼んでいるらしい。同研究所には、どうも広島のイカレタ知性が集っているようだ。その雰囲気は、次のインターネットラジオを聴くと、よく伝わってくる。
http://puf-puf.radilog.net/article/507474.html

なお、ヒロシマ平和映画祭の2009の公式HPは以下の通り。
http://sites.google.com/site/peanutsff/



<今回の浜野監督トークは、この映画祭らしく(?)ブレ写真で>

『やりたい人妻たち』は、03年に的場ちせ名義で発表された浜野監督作品(新東宝映画)。夫に自分はしたくないセックスを強要された妻が「これはレイプだ」と怒って家出し、やりたい放題するという映画だ。「家庭内レイプ」をテーマにしているが、浜野ピンクらしくカラミも満載。これをヒロシマ平和映画祭で上映するというのは、まったくマジな話だった。
誰でも「まさか?」と思うだけに、公式パンフやHPをみると、次のような但し書きが付いている。
「平和映画祭でピンク映画。でも、だいじょうぶ。」
何が「だいじょうぶ」なのか、まるで分からないが、やけに確信ありげだ。上映後のトークは、企画した高雄さんの司会で進められたが、この会場で浜野監督、さらにドライブがかかって熱弁をふるう。景気のいいことをぶち上げ、高雄さんと共に「エロはピースだ」という平和映画祭らしい(?)結論に向かって爆走した。


<ブレは浜野監督の熱弁の現われでもある>

一方で「無職と平和」、もう一方で「エロはピースだ」と来るのだから、平和の概念も大きく様変わりしている。それがどれぐらい広島市民にとって一般的な諒解、共通の認識になっているかは分からないが、外部にあるわたしたちの足元を揺さぶる、何かしら根源的なパワーを持っていることは間違いない。
年末年始の「派遣村」や「就活」という言葉にシンボリックに現れているように、日本中が「仕事よこせ!」コールで満ち溢れている時に、わざわざ「無職」を持ち出してくるのは、善良な市民感情を逆撫でする暴挙ではないか。
わたしの不十分な理解によれば、就職してまともに働くことは、現状の社会では一種の戦争状態を戦い抜くことであり、平和な生き方とは言えない。また、今日のグローバルな世界においては、日本でせっせと仕事することが、世界のどこかでの戦争や紛争に加担している現実的可能性が高い。この両面において「無職と平和」という概念が掲げられていると、わたしは理解した。
もちろん、現実的な「無職」はたちまちホームレスにつながり、上村氏に自身の経済状態を尋ねると、けっこう朝早くから肉体労働のアルバイトしたり、薄給の大学講師を勤めたり、それなりに一生懸命(?)働いている。誰しも働くことなしに食いつないではいけない。しかし、「平和」もまた弱肉強食の歴史を生き抜いてきた人類にとって、アンビバレンツな希求だろう。
遠く離れたところに別々にあった、この到達不可能に見える二つの概念を、鮮やかに結びつけたところに、今回のヒロシマ平和映画祭の問題提起がある。これは「無職のススメ」ではなく、働くことや飯を食うことの真っ只中に放り込まれた、痛快な謎々だとわたしには思われた。


<浜野監督の右でマイクを持っているのが、広島女性学研究所の高雄きくえさん>

わたしは「無職と平和」という概念のドッキングに出くわし、いろんなことを考えた。まあ、ピンク映画の監督や脚本書きなどという仕事は、本来無職に近いものだが、これは成り行きで落ちこぼれただけで、深い考えがあったわけではない。
わたしが思い浮かべたのは、身近なところで、深沢七郎と水木しげるだった。深沢七郎は晩年近くに「人生滅亡教」を唱え、社会の進歩や発展のためにせっせと働くことの愚を説いた。子供を二人以上産むことは罪悪だといったが、それは二人の男女が二人の子供を生産したら人口は全然減らない。二人で一人生めば、次世代の人口は半減するわけで、これを繰り返すことで人間は理想的に滅亡していく。
わたしは深沢七郎の教えにしたがって人間の再生産をしなかったが、日本の出生率がはなはだしく落ちていることは、深沢的人生滅亡教に近づいているとも言えるだろう。
また、妖怪の巨匠水木しげるには『総員玉砕せよ』という戦争マンガの傑作があるが、その舞台になったニューギニアの土人の生活こそ、水木にとって「平和」を具現したものだった。水木しげるもまた会社で奮励努力することの愚を笑ったが、深沢七郎のラブミー牧場や水木しげるのニューギニアは、縮小していく(逆側の)ユートピアと言うべきものだろう。
もしかしたら、太宰治の「家庭の幸福は諸悪の元(もと)」という言葉も、「無職と平和」の系譜につながるかもしれない。深沢にしろ水木、太宰にしろ、みんな自分勝手な人ばかりで、目の前にいたら迷惑至極だと思うが、「無職と平和」の提唱者たちも、きっと愛されない覚悟で言い出したに違いない。


<横川シネマの客席の後部に置かれていた古い映写機。昔の映像機械って魅力的だ>

実はわたしは目下、バンコクにいる。明日は(というより、数時間後には)バングラデシュの第11回ダッカ国際映画祭に向かう。『こほろぎ嬢』がついに世界デビューを果たすのだ。『第七官界彷徨―尾崎翠を探して』も、最初はアレキサンドリア国際映画祭だったが、尾崎翠原作の映画は世界の映画祭のメインストリームからは遥か遠いところから出発する。
わたしは日本を出国する前に、このヒロシマ平和映画祭のレポートをアップするつもりだったのだが、果たせなかった。出発前日に、ついフラフラと東横線の日吉に出かけ、散髪したり、「ラスタ麺」を食べながらビールを飲んだりしてしまったのだ。昨年春まで、この近くの病院に老母が入院していたので、通いなれた日吉だったが、母が亡くなった後も習慣性で月に1〜2回は出かける。
タイにいるなら、いるで、「無職と平和」に資する観察でも報告できたら良いのだが、初めて来た国の、目を見張る景物に目を丸くしているだけ。マンガ家のユズキカズ君をこの地に連れてくることが出来たらよかったのに、という思いだけが募った。彼は日本の縁側で寝っころがっている少女を描くことから出発し、亜熱帯モンスーンの湿気の多い土地で、瓜を売る少女の描写に至ったマンガ家だった。
とっくに描くことをやめ、無職では喰えないので、実家に帰って魚をさばいているらしい。マニア的読者が少数いて、フランス語版も出ているのだが、廃業したマンガ家というのも、限りなく「無職」に近い存在だ。


<横川シネマの前で、関係者集まっての記念写真>

今回、「無職と平和」との出会いはわたしに愉快な衝撃を与えてくれたが、もうひとつ意外な出会いが広島にあった。10数年前に作った拙作の薔薇族映画『メモリーズ』が、市内の映画館で上映されていたのだ。的場シネマというピンク映画館は、大衆演劇の劇場とピンク映画館、そして薔薇族映画館が、ひとつのビルでセットになっている、まことに珍しいところで、そこでたまたま10年ぐらい前に撮った『メモリーズ』がかかっていた。



<大衆演劇の劇場と、ピンク映画館、薔薇族映画館が同居しているところが素晴らしい>

残念ながら時間がなくて、館内に入り見物することはできなかったが、これは横須賀沖の猿島でロケした、わたしにとっては思い入れのある作品だった。日曜日で親子連れなどが多く、岩場での男同士のカラミの撮影は、崖の上から丸見え。わたしたち撮影隊には「ホモ軍団!」などという聞こえよがしの声と、冷たい視線が投げつけられたのも、良い思い出である。


<右端の上が拙作の「メモリーズ」。10年ぶりに出会った>

ストーリーは、正体不明のパーティに出席している男たちが、そこに自分がいる理由を、それぞれショート・ストーリーとして想起するというもの。他人のストーリーの中では、各自が脇役として出演するので、5人の男が3日間、毎日出演するという、(男優のギャラが女優の半分ぐらいという)薔薇族だからこそ出来る贅沢だった。猿島パート以外では、新宿西口の段ボール村(その後、焼失)でアジ演説をぶつ毛沢東派が出てきたり、女装のキャンディ・ミルキィさんがお尻を出してカラミをやったり、『レザボア・ドッグス』を真似た銀行襲撃があったり、楽しい撮影だったが、はたして一本の映画として成立していたかどうか?


<右へ行けばピンク映画、左に入れば薔薇族映画>

まあ、しかし、今は薔薇族映画の追憶に耽っている時ではない。バンコク市内の渋滞がひどいので、早朝ホテルを出発し、空港に向かわなければならないのだ。しばし仮眠を取ることにしよう。



<1月に開かれた第4回関西クィア映画祭の会場、HEP FIVEで>

業界の一部で、今回の拙作が「薔薇族映画、最後の作品となるかも」と囁かれている。関西の拠点、大阪の梅田ローズ劇場が昨年10月、男性ヌードショーで摘発されたことも影響していることだろう。(わたしのマイミクは、このショーのライト係を務めていて、御用となったようだ)。
今後、製作が続行されたにしても、本数は少なくなる。愛着のあるジャンルであったが、少なくともわたしに関しては、これが最後の「薔薇」となることは間違いない。

浜野組の脚本担当として、ピンク映画や薔薇族映画をいっぱい作ってきた。ある時期、次第に監督と意見の対立が激化し、「そんなこと言うなら、自分で撮ってみろ!」という捨て台詞(?)で始まったわたしの監督業。助監督修行したわけでもないので、当然浜野組の見よう見まねでしかなかった。しかし、薔薇族映画に出会って、初めてわたしの撮りたいモティーフ、イメージ、手法を発見したように思えた。

亡くなったピンク映画の祖、小林悟監督にスポーツ新聞のライターとしてインタビューをした際、まじまじとわたしの顔を見て「今はピンク映画も、脚本家がいきなり監督するような無茶苦茶な時代となった」と言われ、苦笑するしかなかった。もちろん、わたしが監督できたのは、浜野プロデューサーという旦々舎の枠組みがあったせいである。

監督として10年以上経っても、わたしは相変わらず素人であり、自分から「監督です」と自己紹介することは、まずない。かといって、脚本家というのもおこがましく、どうも自分の職業についてはしっくり来ない。


<新宿西口で。上に見えるのがスバルビルとコクーンビル>

今回の拙作は、黄昏行く心象風景を撮りたいと思った。そこで、たびたび言う『Gods & Monsters』を想起することになったのだが、今になってみると、その頃読んだ『男色(なんしょく)の景色ーいはねばこそあれー』(丹尾安典著、新潮社刊)が反映しているようにも感じる。早稲田の先生らしいが、長年培われた奥深い教養があることはすばらしいことだと、感嘆しながら味読した。

その一方で、私事ながら、わたしの老母がガンによる「不可逆的な死へのロード」を歩んでおり、その反映もないとは言えないだろう。死にゆく宿命は、誰にもあるものだが、その典型を間近から見つめる経験はわたしには初めてであり、あまりにも興味深く、目が離せないところがある。

ジャンルの黄昏、映画館の休館、監督としての落日、老母の衰亡等、わたしの周囲ではしみじみしたことが多く、あまり景気のいい作品とはならなかった。しかし、今回は「カラミはそれほど多くなくてもいい」という配給会社との合意があり、おかげで3日の撮影のうち2日が完全徹夜という恐ろしい現場となったが、現在のわたしと、わたしに協力してくれるスタッフの、最大限やれるところまでは、やった、という実感はある。

明日の舞台挨拶の後は、近辺での打ち上げを予定している。わたしの友人知人の方は、午後1時半に世界傑作劇場の前まで集合してください。打ち上げは言うまでもなく割り勘です。


<わが近所の新宿中央公園のキャンプ村。どういう加減か上下2分割の写真が出来上がった>




アメ横沿いの大通り、ヨドバシカメラなどがある並びの向かい側に、燦然と輝く「ADULT MOVIES」の文字。上野オークラ劇場だ。この角を、不忍池方向に向かう路地に入ると、どん詰まりに世界傑作劇場、日本名画劇場、そしてスタームービーがある。ロードショー館のスタームービーがオープンする前は、実に怪しげな路地だった。わたしは10年ぐらい前に一度ロケしたことがあるのだが、その頃は女装の姐さんが立ちんぼで営業していた。



奥がスタームービーの入り口で、手前が世界傑作劇場と日本名画劇場の入り口だ。日本名画劇場は一本立てのピンク映画をやっている。時どきスタームービーのお客さんが、間違えて薔薇&ピンクの側に入りそうになり、慌てて逃げてくる。薔薇族映画館の要諦は、薔薇に入るかピンクに入るか、入り口では極力分からなくすること。人目を気にするお客さんへの心遣いだ。



休館の告知。日にちに貼り紙してあるのも、決定が急だったことをうかがわせる。支配人は、昨年まで大宮オークラの支配人だった人。昨年は大宮で閉館し、今年は上野で休館する。葬式屋みたいな人で、苦いユーモアを醸しているが、かく言うわたしも大宮で特集上映してもらい、上野で舞台挨拶を行う。ともどもに黄昏の人生だ。



黄昏は逢魔が刻。池のほとりの路地なんて、いちばん危ない。その怪しいオーラも、ビルの建て替えで失せることだろう。しかし、不忍池周辺には、まだまだ摩訶不思議なものがひっそりと佇んでいる。散歩をお勧めしたい。





●拙作『仮面の宿命−美しき裸天使』のスチールで振り返る撮影現場レポート。上は利根川のほとりに佇む神夜くん。3日の撮影のうち、2日が徹夜という信じられない現場だったが、2台のロケバスのドライバー以外は一睡もしないで向かったのが、坂東太郎=利根川だった。


●タイトルの由来となったガスマスク。タイトルは配給会社がつけるが、シナリオタイトルは「モンスターは何処にいる」。名作『Gods & Monsters』に由来する。勝手にリスペクトした。なお、このガスマスクは前作のピンク『絶倫老年ー舐めねばる舌』で荒木太郎君がつけたものだが、今回全面展開した。


●バドミントンする小笠原くん。狙いが鎖骨、上腕の筋肉、そして脇の下であることはいうまでもない。男性の鎖骨フェチは、全国にどれぐらいいるものだろう。


●現実世界に出没する特攻隊ファッションの神夜くん。本職はビジュアルバンドのドラマーだが、この衣装がよく似合った。助監督が女子二人だったため、マフラーなどが今ひとつ不自然で、エキストラで来てくれた専門家のアドバイスを受ける。


●小笠原君とバドミントンする久保田くん。彼はかつてバドミントンで全国大会にも出場したことがある。それを聞いて、今回バドミントンを劇中に取り入れることに決定。


●フリースクールで哲学入門を講義する牧村耕次氏。ベテラン俳優だが、延々と長いセリフを見事にこなし、プロの実力を示す。


●牧村氏が手にしている「妖怪画」は、鳥取の鈴木旬くんの作品。『こほろぎ嬢』の鳥取ロケの際に、まだ学生だった旬くんがボランティアで手伝ってくれた。彼は今、妖怪のふるさと、境港で妖怪画に取り組んでいる。劇中で使われているアメリカのモンスターも、彼が描いてくれた。


●牧村氏と向かい合っているのは、ガードマンの小笠原くん。彼は実際にガードマンのアルバイトをしたことがあり、さっそく劇中に取り入れた。さすがに似合っただけでなく、警備で見回る身のこなし、視線の送り方など、板についたものだった。


●ボクシングする小笠原くん。これは牧村氏がかつて大学時代にボクシング部だったことを聞いて取り入れたもの。こんな風に、わたしの脚本は役者の得意手や好みを聞くところから始まる。


●利根川の土手を下りながら語る牧村氏と佐々木共輔氏。共輔氏とは久しぶりだったが、奥行きのある芝居を見せてくれた。なお、土手を斜めに下りてくるシーンは、ここ数年わたしの痼疾のようになっていたが、多摩川あたりではスケールが小さくて実現しなかった。今回、利根川で宿願を果たし、胸のつかえが下りた気分。


●教授宅で飲む光景だが、手前の豚の置き物に注目。チーフ助監督が映像作家の女性から借りて来たものだが、実に素晴らしい。海外から買ってきたらしいが、羨ましいな。なお、背景の壁に貼ってあるのが、鈴木旬くんデザインのモンスター。


●利根川の河川敷で対峙する牧村氏と神夜くん。広く茫々として荒涼たる河川敷も、利根川の大きな魅力だった。わたしは南会津に帰るたびに、東武鬼怒川線の車窓から利根川を見おろし、惹きつけられて来た。


●利根川の芽吹大橋。東武線の鉄橋より、かなり下流で、趣はそうとう違うのだが、高速道路で行ける。車の通る橋の脇に、歩道の橋があって、これがキーポイントなった。




かつて一世を風靡した�薔薇族映画�の専門館、上野の不忍池のほとりにある世界傑作劇場が、3月1日で休館する。スタームービー、日本名画劇場、それに世界傑作劇場の3館が営業しているビルが古くなったためで、2010年夏には新築オープンするというが、そこでゲイ・ピンクの専門館が再開される保証はない。とりあえず、現状の世界傑作劇場は3月1日で終焉する。

わたしはピンク映画監督だが、薔薇族映画監督として、より多くのプライドを感じてきた。90年代前半のゲイ・ブームの頃、撮り始めたばかりの作品2本の上映会を、世界傑作劇場で行ったことがある。『プライベート・ゲイ・ライフ』を上梓したばかりの伏見憲明さんをゲストに迎え、『ぴあ』などもイベントコーナーで紹介してくれたため、驚くような人が集まった。あの夜が、ささやかなわたしの監督人生の、実質的なスタート地点であったと思っている。

どういう巡り合わせか、1月末に撮ったわたしの新作薔薇映画『仮面の宿命』が、休館直前に、急きょ繰り上げ上映されることになった。2月21日(土)から3月1日(日)までの9日間である。偶然ではあるが、自作が世界傑作劇場の掉尾を飾ることになり、ひとしおこの劇場に愛着のあったわたしとしては、感慨を禁じ得ない。劇場と相談し、最終日の3月1日に、今回の作品に出演してくれた役者4人と共に舞台挨拶を行うことになった。

昨年、大宮オークラ閉館に際し、わたしのピンク映画も特集上映してもらったが、今年は早くも世界傑作劇場の休館で舞台挨拶。暮れてゆく産業の只中にあることを、ひしひしと実感するが、「ミネルバの梟は黄昏に飛ぶ」という諺もある。うろ覚えだが、確か知恵の女神は衰亡の間際に現れる、というような意味だったはずだ。わたしたちは溢れるような知恵を身につけている、に違いない。

<上映&舞台挨拶スケジュール>
期間=2月21日(土)〜3月1日(日)。2本立てのうちの1本が、新作『仮面の宿命』。
出演=小笠原黎・神夜・久保田泰也・佐々木共輔・牧村耕次
監督脚本=山崎邦紀
舞台挨拶=3月1日(日)。13時45分より上映。15時より舞台挨拶。
料金=一般1600円・会員1200円

●場所は、下記スタームービーの「劇場に来るには」を参照。
http://www.okura-movie.co.jp/star_movie/index.html

●OP映画の新作紹介
http://www.okura-movie.co.jp/op/new/index2.html

*写真は、昨年5月の上野オークラOP映画祭りの際に撮ったもの。世界傑作劇場のある路地を、不忍池方向から、ヨドバシカメラなどがある大通り方向を見る。右手のスタームービーの2階に、世界傑作劇場と日本名画劇場の2館がある。世界と日本の傑作、名画を集めようとする壮大なネーミングだが、実際には薔薇族映画とピンクの旧作を上映している。



 08年の格別に暑い夏、浜野組作品の上映が相次いだ。それも『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』『百合祭』『こほろぎ嬢』と続く自主制作作品の一挙上映など、エポック・メイキングな上映会が続いた。ついには、締めくくりの神戸アートビレッジセンターの上映の際に、神戸新聞の記事中「伝説の監督」という称号まで現れた。まるで回顧上映みたいな様相に「私はまだ終わったわけではない」と浜野佐知は吠える。



 熱い夏の火蓋を切って落としたのは、鶴ヶ島市(埼玉県)で6月21日〜22日の両日にわたって上映された『映画監督浜野佐知の仕事』だ。21日の夜に『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』、22日の午後に『百合祭』、夕に『こほろぎ嬢』と、「一般作品3本一挙上映!」という浜野組にとっても初のイベントだ。
 これは「男女共同参画週間鶴ヶ島市ハーモニーふれあいウィーク」の特別イベントとして行われたもの。「ハーモニー」は同市の女性センターの名称でもある。上映会場になったのは、東武東上線若葉駅東口のショッピングモールのシネコン「シネプレックスわかば」。一週間にわたって開かれる「ふれあいウィーク」のオープニングイベントが、上映に先立って行われた。



 このオープニングイベントは「わかばウォーク」の4周年記念とも連動し、市民によるブラスバンドの演奏や、男女共同参画的な寸劇、「ふれあいウィーク」に参加するサークルの紹介などが行われた。女性グループばかりかと思ったら、案外に中高年男性のサークルが多く、阿波踊りの連まであって、女性センター「ハーモニー」の活動の幅の広さがうかがわれる。



 わたしヤマザキが勝手に「藤縄・レジェンド・善朗」市長と呼ぶ鶴ヶ島市の藤縄市長。川越高校のレジェンドとして語り継がれる武勇伝があるらしいが、男女共同参画週間に浜野佐知作品一挙上映という恐れを知らない企画が実現したのは、この市長の存在が大きかった。首都圏にこのような型破りの市長がいることは心強い限りである。



「ふれあいウィーク」実行委員長の清水さん。映画上映のために「つるがしまフィルムパートナーズ」という組織が作られ、前売り券の販売に奔走した。おかげで『百合祭』は完売となり、当日入場制限する事態にー。実行委員長の清水さんも3作品の前売り券を買っていたのには頭が下がった。



 男女の意識のギャップを啓蒙する寸劇がいくつも披露され、藤縄市長も役者として登場。休日に家でゴロゴロしている親父役を、アドリブを交えて好演した。しかし、どの寸劇も典型的な会話のやり取りなため、客席のおじいさんが「今どき、あんなこと言わねえよ」と呟いていた。男女共同の意識は、鶴ヶ島市ではかなり根付いているのだろう。ちなみに、目下男女共同参画条例を鶴ヶ島市では準備中とか。



「シネプレックスわかば」の入り口脇にデカデカ貼られた「映画監督浜野佐知の仕事」のポスター。トイレにも貼り出され、浜野監督は、この日ばかりは場所と時間限定の有名人となった。



「シネプレックスわかば」入り口。角川映画系列のシネコンで、浜野組作品がシネコンにかかるのはこれが初めてだ。『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』は岩波ホールで上映されたが、その後の『百合祭』や『こほろぎ嬢』はホール上映や単館系の映画館ばかり。さすがに画質、音質ともに素晴らしく、わたしは『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』を見ながら、今日の観点に立ったデジタル再編集を夢想した。



 浜野佐知作品と『インディー・ジョーンズ』が並び立つ。珍しい光景だ。『百合祭』のポスターには「完売」のお知らせが。



 上映に引き続き行われた『百合祭』トークショーで、ご機嫌の浜野監督。



 トークショーの会場を、右隅から見守るのは蝦名支配人。この人の存在によって「映画館と市民と行政のコラボレーション」が成立した。



『こほろぎ嬢』の上映後に「わかばウォーク」のホールで開かれた交流会。浜野監督の手前は、佐田三五郎&土田九作役でお馴染みの宝井誠明くんだ。彼は両日にわたって参加してくれた。クラシックなハンサム! 尾崎翠の世界に欠かせない役者だと、わたしは確信する。



 交流会の司会の西山千恵子さん(女性学)。浜野監督とは旧知の仲だ。



 う〜ん、ハンサムだねえ。以前からCMの仕事も多い宝井くん。TVを注視していると、思いがけないところで出会うことがある。



 初の3作品一挙上映! を終え、意気あがる浜野監督。



 左から清水実行委員長、市役所の怪人ヒライさん、女性センター館長の中野さん、西山千恵子さん、蝦名支配人。市長も市長なら、職員も職員で、個性的な人が多い。実は今回「一般作品3本一挙上映」だけでなく、有志の間で「セクシュアリティを考える会」が組織され、浜野監督のピンク映画も申し込み制で上映されたのだ。西山さんは上映後のディスカッションでも司会を務めたが、女性限定の上映会なので、残念ながらわたしも参加できなかった。



 今回の3作品上映を「映画祭」と位置づけ、シネコンとの共同作業や外部との連携、マスコミや地元メディアへのPR、さらにはHPやブログと、獅子奮迅の働きをした市役所の宮崎さん。実はチラシやポスターも彼のデザインなのだ。鶴ヶ島市には有能な人材がゴロゴロしている。



 受付などをボランティアで担当してくれた「チームちえこ」の面々を、宮崎さんが紹介する。その名の通り西山さんの教える(教えた)学生や卒業生たちだ。



 何か訳のわからない恰好をする浜野監督。多分、締めの挨拶のときだと思われるが、さて何を話していたのだろう。こうして記念すべき2日間は終わった。


 愛知淑徳大学の、現代社会学部の学生さんが企画した『百合祭』上映と、浜野佐知監督の講演が、学園祭真っ盛りの11月5日に行われました。5月のスタンフォード大学でお会いした、太田浩司先生の紹介によって実現したものですが、わたしもまた、コメントを求められ、壇上で話したりもしました。ところが、例によって、何を言っているのか不明の、わたし自身もまた、喋っているうちに混迷の中へと、はまって行く、ていたらくで、つくづく人前で話すことの不向きを再確認した次第です。



 しかし、そこで展開された質疑応答と、夜の交流会でのディスカッションで、これまで数え切れないほど、この映画の上映に立ち会ってきたわたしも、明確に把握できなかった、もうひとつのテーマが浮かび上がってきました。表面には現われにくい、裏テーマといっても好いかも知れません。というのは、交流会で愛知名産の焼酎を、気持ちよく飲んでいる時に、建築が専攻の、大変ハンサムな先生から、『百合祭』の毬子アパートの住人の構成が、映画とは逆に、女性一人に男性多数だったら、どうなるだろうか? という疑問が出されました。
 彼の疑問は、『百合祭』を観た観客の反応が、女性の多くが肯定的で、男性、特に高齢の爺サンどもが反発する、という浜野監督の話に、どこか、うなずけないものを感じたのだと思われます。実は、男性のインテリから、『百合祭』の男女逆バージョンについて言及されるのは、日本に限らず、フランスなどでも結構あって、しかし、実際のところ、どうしてそんなことが気にかかるのか、わたしには、いまいちピンと来ませんでした。
 また、その一方で、一人の男性が、女性たちにモテまくる「ハーレム状態」は、女性の解放からは遠いものだ、というフランスのフェミニストの、キビシイ批判もありました。だからこそ、脚本担当のわたしとしては、宮野さん(吉行和子さん)と横田さん(白川和子さん)を、あの老嬢たちのサンクチュアリから脱出させたつもりだったのですが、三好さん(ミッキーカーチスさん)が、彼女たちの「パンドラの匣」を見事に開けた、言葉とソフトタッチによる凄腕を、わたしが高く評価していることもまた事実です。
 しかし、今回の、ハンサムな(しつこくて、すみません)先生の疑問は明確であり、女性の観客にとっては、女性が一人で、多くの周囲の男性に群がられた方が、気持ちよいし、感情移入しやすいシチュエーションなのではないか? というものでした。なるほど、これなら、女性のヒロイン願望として、素直に諒解できます。
 ところが、現実は、そうでありませんでした。あの映画を見終わり、「なぜか涙があふれてきた」という中年女性の涙に、パンフレットを販売していたわたしも、つい、もらい泣きして、二人で向かい合って涙ぐんでしまったことがあるぐらい、シンパシーを感じてくれる、決して若くない女性が、少なからず存在するのです。
 そこで、わたしが思い出したのが、上映後の質疑応答のなかで、モンゴルに留学していたという先生(女性)が行なった、興味深い発言でした。一人の男性をめぐって、二人の女性が争っているように見えるときでも、実は男性を媒介にして、女性同士が結び合うことがある。一見、ヘテロセクシュアルの構図なのですが、その内実がホモセクシュアルである場合があって、『百合祭』の大家の奥さん(正司歌江さん)と、並木さん(原知佐子さん)のライバル関係もまた、そうした方向で打ち出すべきではなかったと、その先生は指摘しました。
 これが、一人の女性をめぐる男性同士の関係なら、ヤクザ映画をはじめ、ホモソーシャルな日本の社会では、珍しいことではありませんし、その底には女性嫌悪が潜んでいる可能性もありますが、一人の男をめぐる複数の女同士となると、俄然、興味深いものがあります。
 というのは、なぜ『百合祭』の女性の観客の多くが、男性の先生の言うように、一人のヒロインとして、男性たちに囲まれるのではなく、一人の男をめぐる複数の女たちの方に感情移入できたかと言えば、一見全員がライバル関係であるかのような状況のなかで(女性の先生が指摘するように)女性同士の連帯の可能性を、ストーリーの伏流水として感得したためではないかと思われるからです。



 そこで浮かんでくるのが、三好さんが女装する白雪姫のエピソードで、あれを嫌う観客も少なくないのですが、わたしはこれまで、吉行さん演じる宮野さんの、内心での、ジェンダー交換の戯れとしてのみ考えてきました。というのは、わたしは宮野さんを、夫が生きている頃から、ヘテロセクシュアルな社会に馴染めない、潜在的なホモセクシュアルであったと解釈しているからですが、実はあのシーンには、もっと別の意味があったのではないか。
 すなわち、鞠子アパートの老嬢たちは、三好さんの方をこそ「白雪姫=ヒロイン」として祭り上げ、自分たちは勝手に小人のおじいさんたちに変身して、愉快な連帯を図った、その端的な構図が、白雪姫のシーンであったのかも知れないのです。
 最初の試写の直後に、「エロ漫画凶悪編集」のシオヤマ君が、ああいうシーンをこそ、カネをかけて撮らなければならない、と何かに書いていましたが、確かに手薄なシーンではあり、原作者の桃谷方子さんも「しつこい!」と吐き捨てるように言ったシーンではあるのですが、多様な解釈の可能なシーンでもあります。
 しかし、その方向で詰めていくと、宮野さんと横田さんの脱出行は、コミュニティからの抜け駆けのようなことになり、シナリオ担当のわたしとしては、いささか具合が悪いのですが、女性同士へ向かうグループも、男性を共有するグループも、選択肢として同等であるような方向が模索されるべきだと思います。
 実に有意義な今回の上映会でしたが、名古屋の街頭の、とびきり若い女性たちのファッションには、度肝を抜かれました。髪の巻き方から、ブーツの先に至るまで、奇妙奇天烈な、ド派手ルックで決めていて、浜野監督によれば「名古屋嬢」と称され、全国的に轟いているのだそうです。そんなファッションの大柄な娘が、ガラガラ引っ張るトランクを、地面に叩きつけるようにして、わたしの真正面から歩いてきた時には、背筋に恐怖心を覚えて、思わず脇に逃げました。どうも、とんでもなくアヴァンギャルドな土地柄のようです。