2017/07

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 女の部屋、という言葉に独特の魅惑はないだろうか。そこに住む女の具体的な肉体はひとまず置いて、彼女が日々寝起きする部屋の空気に包まれ、さまざまな匂いを吸引しながら、自分を失いたいという欲望だ。そこは必ずしも男の願望を反映した母性的な蚕の繭ではなく、外からの風に吹き晒され、安物のハンガーなどを使ったカラスの巣であるかも知れない。しかし一点のフェミニンな香りが漂わないと、誰が言えるだろう。
「香り」と書いた。かつて観たダイアン・レイン主演の『愛は危険な香り』(87年・米)という映画を連想したからだ。デパートのウィンドウ・ディスプレイで才能を発揮する美女の私生活を、丹念に観察する男がいた。長身のハンサムだが、彼は女が不在の部屋に入り込み、彼女のベッドにくるまったり、彼女の歯ブラシで歯を磨いたりする。それを繰り返すうちに、女も自分の生活圏に侵入する妙な気配に気づき、一方、男も彼女の生身を求めて姿を現す。



 ストーカーという言葉が普及する前のサスペンス映画だが、中でも歯ブラシのシーンには思わずのけぞった。調べてみると、カレン・アーサーという女性監督作品で、原題は「LADY BEWARE」、「用心するレディ」といった意味らしい。男を演ずるのはマイケル・ウッズで、その後「オーメン4」の出演がちょっと目立つぐらい。当時彼に惹かれ、しばらく追っかけたが、いつの間にか日本では消えてしまった。
 パンフレットで、確か監督が男の侵入行為を「心理的レイプ」と規定し、わたしもそれに心から同意したのだが、今になって考えると、どうしてストーカーは生身の女を欲しがったのか? 彼女の部屋で、彼女の匂いにくるまれ、至福の時間を過ごすことだけで、充分に満足できなかったのか? 不審に思われたら素早く撤退し、次なるターゲットを探しに町へ出ればいいではないか。
 男の欲望をエスカレートさせることで、サスペンスを盛り上げるのは常道であり、半勃起、あるいは中折れのような状態で、次の目標へ移行してしまっては、観客の期待を裏切る。しかし、女の部屋で、女の生活パターンをなぞりながら、同じ生活用品を使って時間を過ごす皮膚感覚的な快楽が、あの映画には鮮やかに描かれていた。女に同化し、重なることで生じる幻視のレズビアン・セックス! これは生身の女相手では成立しない。
 フェミニズムは、女と男の間に本質的な差異は無い、ジェンダーは文化的な構築物だと言う。わたしもそれに同意し、各地で県議会や市議会のオヤジどもが繰り広げる「反ジェンダー教育」キャンペーンには失笑を禁じえない。日本男子、大和ナデシコの美風を守れ! というが、彼らが危機感を持つほど、学校教育なんかで意識の深層が変化するはずもないのだ。
 しかし一方「ジェンダーフリー」というキャッチフレーズが、個人が自由にジェンダーを選び取れる、と聞こえることがある。これも気楽な幻想だろう。生物的性差とジェンダーの歴史的な堆積が、わたしたちの無意識にまで刷り込まれている。意識のレベルでの自由選択制ではない。しかし、だからこそ、そこに残る女と男のギャップやネジレから、時に魅惑的な感覚の戯れが生じることがある。
 ゲイが過剰な女っぽさをアピールするドラァグ・クィーンや、そのレズビアン版であるドラァグ・キングは、そのギャップやネジレを逆用して笑い飛ばすものだが、『愛は危険な香り』が見せてくれた女の部屋への侵入=同化も、ジェンダーの境界領域に属する。



 目下、昼夜を分かたずオリンピック競技がTV中継されているが、わたしのような格闘女性や巨女に憧れを抱く男にとっては、宝庫のようなものだ。本来男がやっていたスポーツを、女がすること自体、ジェンダーの越境行為だが、逞しい女の肉体が、男に近い衣服をまとい、男の動作を力強く反復する時の倒錯性!
 なかでもわたしは、スマートなバレーボールや水泳ではなく、野暮ったいソフトボールに惹き付けられる。リリアン・フェダマンの大著『レスビアンの歴史』(筑摩書房)によれば、50年代から60年代にかけて、アメリカのレズビアンたちは、バー以外の出会いを求めてソフトボール・チームに集った。当時、女性ソフトボール・リーグがあって、少なくとも一つか二つはレズビアンだけのチームだったという。試合では、レズビアンにまつわる伝説やヒーローが生まれたとか。
 オリンピックでは、どこの国のチームも一人は巨躯の投手を擁しているようだが、ずば抜けているのは日本の高山樹里だ。分厚い壁のような横幅、ユニホームの下で揺れる肉、堂々と張った腰や尻など、光り輝く投球フォームがスローで再生される。わたしは、盛り上がった胸にできる、動的で複雑なヒダに見入りながら考える。巨女の肉体は、それ自体でひとつの部屋のようではないか。あの部屋に入ってみたい誘惑に駆られるが、変質者の域に接近しているかも知れない。
<04年8月。『レモンクラブ』(日本出版社)掲載>